花束みたいな恋をしていない

人と「好きなものが同じ」ということで仲よくなった経験がほぼない。私と親しくしてくれる人たちは、私と趣味が違う人たちばかりだ。具体的なレベルでは接点がないけれども、抽象的なレベルでは「自分で考えられる」「倫理観が似ている」「何かを作るのが好き」「国内外問わず情報を取りにいける」などの共通点がある。

「花束みたいな恋をした」という映画がある。趣味が合うふたりのラブストーリー。私と夫は花束みたいな恋をしていない。ことごとく好きなものが異なり、ゆえに互いが新鮮で、質問して教えてもらい、思想をシェアしたり議論してきた関係である。

Xにいると、「好きなものが同じ」人たちがつながりやすいんだなあと思う。私は社会人で、資格試験の勉強をしていないので、大学生や資格試験で勉強している勉強アカウントの人たちと少し色が違う。読書アカウントでは日本の本が人気に見える。私は海外の本が好きで、半分くらいは英語で読んでいるので、読書アカウントの主流に乗ってはいないと思う。料理も、わりと朝食と昼食はどうでもよく(名前のつかない料理を雑に作って食べる)、夫と一緒に食べられる夕食をたまにがんばるくらい。料理アカウントを名乗るには忍耐と持続性が足りない。

というわけで、私のアカウントはカテゴライズしにくいものだ。それは自然とそうなったというよりは、初期から、各界隈のカテゴリーからずれてしまうことを把握し、仕方なく運用してきた結果だ。それなのに関わってくださる方がいて、定期的に新鮮な気持ちで驚く。

昔は花束みたいな恋に憧れていたし、ツイートもただ好きなものでつながれるものだと思っていた。でも私はそうじゃなかった。そこに満足を覚える人間じゃなかった。わかりづらさを抱えたままで人と接するのは、いつでもどこかで健やかに怯えているのは、これはこれでいいものなのかもしれない。