小説の語り手が作者と同一でないように、詩の話者は作者と同一ではない。誰が誰に向けて話しているか。その解釈はいくつもある。 “you” を「あなた」で読むと恋の歌なのに、「いつかの自分」や「ありたい姿」として読むと別の印象の歌になるように。
朝の洗面台。コンシーラーでクマを隠しながら、Spotifyのプレイリストをシャッフル再生した。Duncan LaurenceのArcadeが流れた。 “I” を「今のばらばらの私」、 “you” と “us” を「ばらばらがつながっている自分」と聞いた。たとえばこんなふうに。
A broken heart is all that’s left
I’m still fixing all the cracks
Lost a couple of pieces when
I carried it, carried it, carried it home
壊れた心だけが残っている
私はまだひび割れを直している
家に持ち帰る途中で
かけらを落としてしまった
I’m afraid of all I am
My mind feels like a foreign land
Silence ringing inside my head
Please, carry me, carry me, carry me home
私のすべてが怖い
心は異国の地のよう
静寂が頭の中で鳴り響いている
どうか私をもとに戻して
How many pennies in the slot
Giving us up didn’t take a lot
I saw the end ‘for it begun
Still I carried, I carried, I carry on
スロットにいくらお金を使ったっけ
自分を諦めるのはたやすいことだった
始まる前から終わりは見えていたのに
それでも私は自分に辿り着こうと粘ってきた
All I know, all I know
Loving you is a losing game
わかってる、わかってるよ
自分を好きでいようとするのが負け戦だって
直訳は合ってない。でもこういう解釈もできる。
女性歌手とのデュエットバージョンもある。ストレートの解釈が強くなる。けれど、他の読みもできる。
ということを、普段大学でやっている。半年間、ある詩人の “wind” をどう解釈するか、考えている。




