
髪を伸ばしている。毛先が肩に当たってかゆかったり、はねたりする長さをようやく通過した。通過したときのご褒美にととってあった、美容室の日。15年のつきあいになる美容師さん。彼は都度、どんなふうに切ったか、どんな感じだったかのノートをつけている。店に着いたら、私が最後に行った6月の日付のルーズリーフが、ワゴンの上に開いてあった。
美容師さんには、私も夫も切ってもらっている。つきあってしばらくしたころ、2000円の理容室しか知らなかった夫に、美容師さんを紹介した。「かわいくしてもらったら」と伝えた。夫は美容師さんを指名して予約し、当日、椅子に座るなり「『かわいくしてください』と言えと言われて来ました」と言った。なぜ新規の男性客が自分を指名してきたのかわからずにいた美容師さんは、夫の発言の裏にいる私を見抜いた。20代なかばの男性の、緊張した面持ちの、徹底的に受け身の、しかしまっすぐな「かわいくして」に、どういうカットで返せばいいか悩んだ。試行錯誤のすえの髪型は本当にかわいかった。髪を切るだけで好きな人が喜ぶことに味をしめ、彼はいっしょの美容室に通い、スタイリングの主体性を完全に我々に任せるようになった。
私と美容師さんはたいてい夫のことを話す。昔は「どうやって彼のかわいさをもっと引き出すか」「どうすればかわいい髪型が長持ちするか」「加齢における今後のかわいさをどうするか」などを話し合っていた。髪型という物理的なかわいさの設計が内面に影響を及ぼし、夫の内面のかわいさが爆発し、きらめき始めた。夫が35歳を超えたあたりで、「なぜ、あの人はかわいいままというか、年々レベルアップしていくのか」「加齢とは?」という問いにシフトしていった。「夫さん」とか「あの人」が概念化し、「あれ」になった。おたがい、「あれはちょっと次元が違うね」とか言う。
夫がつかう言葉の中に「概念」がある。玉ねぎを炒めて小分けして冷凍したものは、オニオンスープの概念。コンソメとお湯を注げば朝食のオニオンスープになる。彼にとって抽象化は美しいものであり、概念は褒め言葉。
先日の豪雨の夜、名古屋の交通機関が全て止まった。運転再開の目途が立たなかったので、夫は歩いて帰ってきた。サイレンや警報がばんばん鳴る中で、さぞ疲弊し、暗い顔で帰ってくるのだろうと思っていた。「ただいまんごー」と言って扉を開けた彼は、「紺ちゃんに会える!と思って歩いてたよ」とにっこにこしていた。
私「さすがに、えっと思いました。私だったら不機嫌にふてぶてしく帰りそうなのに、彼はにこにこのメンタルなんですよ」
美容師さんが、「そうですよね……」と遠い目をする。
私「そのあと、きらきらした目で『治水』(水害対策)の話をしてました。名古屋の治水すごいんだねー!!って。小学生のころ、お父さんのパソコンで、三国志のゲームをしてたんですって。当時は面倒くさくて治水コマンド使わなかったけど、名古屋の水はけのよさを目の当たりにして、いかに治水が大切か実感したって言ってました」
美容師さん「その日、僕も治水について考えてたんですよ。僕が思い出したのは信長のゲームでしたけど。誰かに治水の話をしたいって思ってました。紺さん、治水の話なんて聞くんですね」
私「だって夕飯の間、ずっと楽しそうなんですよ、治水で」
長くなった髪に合わせて、前髪の感じを少し変えてもらった。本屋に行き、大学に寄り、用事を済ませていたら、夫と帰る時間が重なった。駅で待っていたら、改札から現れて、私の目の前を通り過ぎて行く。ねーえと声をかける。「ん?」と言いたげに振り向いた顔が、すぐに少し赤らむ。「なんでここにいるの」と言いながら、目尻は下がり、唇はもごもごしている。明らかに、ニュー紺ちゃんがかわいいが今ここでは出せない、という顔だった。おもしろかったので、ちょっと待って、よく見てと言い、彼の周りを3周くらいして新しい髪型を披露した。私はショートボブが好き。彼の好みはゆるふわロング。風になびいてふわっとするやつ。なので今は夫の好みに合わせます期間。
夜、私は耳栓をして、壁の方を向いて読書していた。夫が私の視界の左下からぬめっとフェードインしてきた。「おやすみしよう」と言った。私は勉強机から立つ。ふたりでリビングに移動する。立ったまま抱き合う。夫が私の左足を静かに踏む。私は夫の左足を静かに踏む。両手の指を絡めて、おたがいの手を押さえる。その状態で、どうにか相手の足を踏もうとするゲームが始まる。私は果敢に攻撃するタイプ。夫は基本防御で、たまに大きく足を伸ばしてくる戦術。夜の11時過ぎ、ほんきのたたかい。お風呂に入ったあとだから、牛乳石鹸の匂いがする。私の攻撃がうまくいくたびに、彼はくやしそうに笑う。水分を含んだほっぺが弾んでつやつや光る。
「ただいまんごー」のほかに、「おかえりんご」、「おやすみんと」もある。彼はマンゴーもりんごもミントも食べない。というか好きじゃない。「おやすみんと」と言って、両手を小さく振り、自室へ去った。








