
夏から飲み始めた薬の副作用がきつい。いつでも眠いし、食後に手足がしびれる。慣れれば治まるだろうと思って様子を見ていたら、治まらないので、薬を飲むのをやめた。春に逆戻り。調子がよくもないが、悪くもない。もういい。
「批評理論を学んだことがないので、今年から学ぶぞ。まずはデリダ」と意気込んで始まった、研修生2年目。夏休み明けの面談で、先生が「フッサール使って論じたっていいんだよ」と言った。
夏休みに入る前、大学で批評理論の教科書としてよく使われている、ノートン社の批評理論アンソロジーの目次をネットで読んだ。デリダは数本、短いエッセイ、あるいは本の抜粋が載っていた。デリダの哲学の出発点であるフッサールもノートンに載ってるだろうと思ったら、載ってなかった。この目次に載ってるようなことを先生のもとで学ぶなら、夏休みは「ノートンに載ってないもの」を読もうと決め、フッサールを読んだ。
だから、面談で、「(紺が読んだ)フッサール使ってもいい」と言われたのには驚いた。えっ、フッサールって、批評理論なの? 「なんでノートンアンソロジーにフッサールが載ってないと思う?」と聞かれて、なんか自己完結的で、広がらないからじゃないですかね、と答えた。すると、彼は「ノートンはキャノンのひとつに過ぎない。これを読むべき、と言った人がいるだけで、編者が変わればフッサールも入りうる」と言った。じゃあ、フッサールとエミリー・ディキンソンで論文書いてもいいんですか、と聞いたら、彼は「え、何が悪いの?」と言いたげに、「いいよ」と言った。
文学の批評に使いやすいものをぎゅぎゅっと詰め込んだのが批評理論の教科書で、それを読んで使いこなせるといろんな人と話がしやすくなるとしても、神聖化する必要はない。キャノン=正典=読むべきものとされている枠組みそのものを、先生は疑っていた。誰かが決めた棚の仕分けに従う必要はない。自分がこれまで読んできた言葉の延長線上で、そのまま始めればいい。
昨日、「プラトンのパルマケイアー(原題はPlato’s Pharmacy(プラトンの薬局))」というデリダの文章を読み終わった。プラトンの『パイドロス』という作品の、ものすごい些細なところに焦点を当てて、全体の読みを覆す、というデリダの手法。そのキーワードがパルマコン。
プラトンの『パイドロス』でソクラテスが語る神話の中で、文字は「記憶と知恵の治療薬(パルマコン)」として王に献上される。けれどギリシャ語のパルマコン(pharmakon)は、治療薬であると同時に毒薬のこと。
水の精霊パルマケイア(pharmakeia)、薬剤師にして呪術師のパルマケウス(pharmakeus)、そして英語の薬局(pharmacy)へ。言葉が引き連れてくる網の目で、薬の中に毒が混ざり、毒の中に薬が潜む。どちらか一方だけを選び取ることはできない。言葉が、生き物のように動き回り、構造を揺るがす。
プラトンの『パイドロス』は、ふーん、へぇー、という温度で読んだのに、デリダの「プラトンのパルマケイアー」の読みにはずっとわくわくしていた。好き!
これはぜひ夫にも読んでほしいと、彼の部屋を訪ねた。
私「きみも『プラトンのパルマケイアー』読もうよ」
夫「へ?」
私「ぱるまこんぱるまこん」
夫「ぼくはいいや」
私「ねえ、パルマコンがおもしろいの!」
夫「うぷ」
私は本を彼に見せながら読み上げる。
「テウトは言った。『王様、この文字というものを学べば、エジプト人たちの知恵は高まり、もの覚えはよくなるでしょう。記憶力と知恵は、その治療薬(pharmakon)を見出したのです』」
私「このパルマコンがね、治療薬でもあるし、毒でもあるの。翻訳にすると薄れちゃうんだけど。このどっちにも読める言葉が、全体の読みを変えるの!」
彼はちょっと笑う。パルマコンに、そしてパルマコンに興奮している私に笑う。コーヒーをすする。私はパルマコンへの感情表現が「ちょっとの笑い」で済むのを信じられない。
私「どこに行ったら、パルマコンのおもしろさをもっと共有できるんだろう」
夫「ここじゃないことはたしか」
私「え、待って。これってそもそも英文学じゃなくない?」
夫「うん。哲学だよね」
私「じゃあ大学でもパルマコンパルマコンって言えないの?」
夫「先生には通じるでしょう。え、でも気づいてなかったの?ぼくでもわかる、紺ちゃんのいるところが単純じゃないって」
私「私は少なくとも文学と言語学と哲学の中にいるよ。どれかだけを選ぶなんてできない。楽しいけど、他の人にわかってもらえない。・・・・・・ねえ!これ自体、パルマコンじゃない?パルマコン!きみに話してたら、けんかを引き起こしそうなパルマコン!」
パルマコンは私の中に潜伏し続け、裂け目から現われ、私の内外をうねうねと動き回る。







