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  • ぽんちゃん

    夫は私の好きなところを「存在」と言う。私は彼の好きなところを「ほっぺ」と言う。ヒゲは痛いから、ヒゲそり後のほっぺが好きだ。なぜと言われてもわからない。好きだから好きだ。でも痛いからヒゲつきは嫌いだ。彼はそれを「条件つきの愛」と呼ぶ。

    時々いただくおたよりの中に、「夫さん、とお呼びすればよろしいのでしょうか」から始まるものがあった。この機会にお知らせしておくと、彼は「ぽんちゃん」という。正式な名前も当たり前にあり、私もそれで呼ぶときもある。こだわりの眼鏡をかけて、ずっとコンピュータいじってましたというような平日の帰宅後、および土日の日中は、そちらの正式な名前で呼ぶ。それ以外が「ぽんちゃん」で、由来は私がLINEで「夕食はきみの好きなからあげ」などと送ったあとに、彼が「ぽ」と返してきたことによる。私の存在への紅潮か、からあげにか、両方か、知らないが、なんかぱぴぷぺぽが似合う系のかわいさがある。ばびぶべぼとか、がぎぐげご、さしすせそじゃないっていうか、ちょっとなにぬねのも入ってるような、そういう系です、伝わりますか。

    「ふたりでごはんを」で、彼のかわいさとかっこよさについて書いたわけだけれども、私がどちらの面もよろこんでいたのは、結果的によいことだった。年を重ねても、彼は男性らしさを前面に押し出して振る舞うこともなく、男性らしさにとらわれて悩んでそうなこともなく働き、家に帰ってスーツを脱ぎ、くたんとしたトレーナーとパンツにリラックマの着ぐるみのように着替えたら、ぱきっとスイッチが切り替わり、次にスーツを着る時間までゆるキャラになる。切り替えがうまい。ぽわぽわしている。スーツでは主に英語と漢字で話している人が、ひらがなで話し出す。

    仕事から帰ってきて、着替えて、ふにょーんとなって、「かえった」と抱きついてきて、その日の出来事をうにゃうにゃ話し、夕飯を食べ、お皿を洗い、コンピュータを触ったりアプリのアップデートをしたり動画を観たりしていると、夜の9時過ぎ、そろそろ眠くなり、「ぼく、おふろはいる」と言って浴室へ行く。お風呂で、牛乳石鹸のボディソープとフェイスソープを使う。本来は大嫌いな牛乳も、私がこの製品の香りが好きだと言ったら愛用するようになった。何もしなくても私が寄って来るので、彼はその香りを「紺ちゃんホイホイ」と呼ぶ。しばらくして、「おふろでたー。ねるー」と言いながら、私の部屋にやって来る。そして私のベッドに飛び込む。いつも小さくバタ足をする。

    このときは、ベッドの長辺に対してできるだけ平行に寝そべるのが好ましい。私があとから横に寝そべったときに、足が落ちないから。だけどもう寝るだけ状態の彼は、往々にして斜めに突っ伏す。私は、まっすぐに生きようよと言って、彼のふくらはぎあたりを膝で押す。彼がまあまあの角度になると、スペースが空く。私はそこに潜り込んで彼に抱きつく。

    お風呂上がりのほっぺは、いい匂いがする。ヒゲがない。肌がちゅるちゅるぴかぴかぷにぷにしている。大好きだ。愛しているよ、ほっぺ。彼はされるがままというか、「そうですよね、これが好きなんですよね、はいはい」というような感じと心地よい眠気で無防備になり、私に抱きつく。私が私のほっぺを彼のほっぺにくっつけたり、彼のほっぺを指でふにふに触っているあいだに、彼はすぴーと眠り始める。まつ毛が長い。私はこのあたりで豹変し、ほっぺをぺちぺち叩き始める。「起きて。ここで寝ないで。自分のベッドに行って」と彼を起こそうとする。あまりに起きない場合、壁側の隙間に入り、彼の体をむーっと押し、ベッドから落とそうとする。いやはや、本当に条件つきの、薄情な愛。彼は目を覚まし、「紺ちゃんひどい。ぐすん」と言いつつ、私を抱きしめて、「もうあっち行くもん」と言う。私は「おやすみ。またあした会おうね」と言う。彼は「にゃ」と言う。分かれる。

    昨日の夜、お風呂に入った後の彼が私の部屋に来た。私は論文を書いていた。彼はとても眠そうで、ベッドの斜めダイブの気分じゃないようだった。作業をする私に近づき、抱きつき、「おやすみー」と言った。私が、ちゃんとぎゅーしようぜと言って立ち上がるころには部屋のドアは閉まっていた。ドアを開け、部屋を出て右方向にてててと歩く。ぽんちゃー、ん?いない。あれ。と振り向くと、彼がいた。部屋を出て左方向の場所に隠れていた。笑いをがまんしながら、むふふふふふんと変な音を出して笑っている。「あー」「はー」「ふふふ」「かわいい」とか言う。両手を胸に当てて、私の部屋に戻り、ベッドに仰向けで斜め寝する。ハートを射抜かれてしまいました、みたいな姿。「あーかわいかった」と言いながら目を閉じている。そうだろうそうだろう、私はかわいい。ほらもっと見せてやるよと彼の上に乗る。私と目が合って、くくくくと笑い続ける。また目を閉じて、にんまりして、ひとりで余韻を味わっている。「そういうところだよ」と茶化してくるので、「わざと!ほんとは気づいてた」と言ったら、「そうだね。わざとだね」と本気にしない。ねえ、もっかいやってあげる、いや私奇数が好きだからあと2回、と言ったけど、1回で充分だったらしく、彼は私を抱きしめて「はーー」と言った。そしてにまにますぴーと寝始めたので、私は彼の腕から抜け出してごろりと壁側に落ちる。ほっぺをぺちぺち叩いて起こす。

    あほなままで、私たちはどこまで行けるんだろうね。

  • 本と深呼吸

    エイミー・レヴィのMedeaという詩の意味がわからなかった。Medeaを辞書で引くと、「Jasonを助けて金の羊毛を獲得させたColchis島の王女で女魔法使い」とある。Jasonは「アルゴ船の一行を率いて遠征し、金の羊毛を獲得した勇士。王女メディアを妻とするが、後にクレウサを妻に迎え、メディアを捨てた」。情報が足りない。時が来た。本棚から『神々を知ればもっと面白い!ギリシャ神話の教科書』を探し出して広げた。

    大学時代、聖書とギリシャ神話を避けていた。英文学で院進したいならもう避けられないと腹をくくり、イラストが多めで、かつ情報密度の高い入門書を買った。当時は、有名な作品(キャノン)を全部読まなきゃ、覚えなきゃと思っていた。文学の学び方を知らなかった。文学史よりもはるかにややこしいギリシャ神話は後回しになった。

    学部で網羅的な知識を入れたことも、そのあとできるだけ原典でキャノンを読まなきゃと意気込んでいたことも、それ自体はよかった。体力はついた。ただ、わかりやすく圧倒されて疲れて息切れした。きりがない。『ユリシーズ』を英語で読破できる自分をいつまで経っても想像できない。聖書、ギリシャ神話なんて無理。

    学部研修生になった。指導教官は、イギリス文学の圧倒的な伝統や権威性を骨の髄までわかったうえで、キャノンからこぼれ落ちた作家を研究している。指導教官の指導教官は、「君はいつも私の知らない詩人を探し出してくるね」と言っていたらしい。ヴィクトリア朝後期で有名なのはオスカー・ワイルドだ。レヴィはキャノンに出てこない、けれどワイルドが讃えた詩人。ロンドン生まれのユダヤ人。ケンブリッジ大学に入学した2番目の女性。独身。教育を受けた女性が教師になることを望まれる社会の中、詩で身を立てようとした。27歳で自死。彼女が自分の人種、病、セクシャリティ、政治的思想をどう考えていたのかは、確定的な情報がない。彼女は再評価されてきていて、ついこの前、ケンブリッジ大学が手紙などのアーカイブを設立した。

    レヴィの詩を読む。短編を読む。長編を読む。エッセイを読む。ユダヤ教を学ぶ。ユダヤ教を知るためにキリスト教を学ぶ。ヴィクトリア朝のロンドンを学ぶ。ヴィクトリア朝ロンドンを知るために、前後の時代を学ぶ。都市を知るために、田舎のことを学ぶ。田舎は自然や植物がいっぱいで国民に愛されていると知る。自然や植物が、都市を扱った作品でどのように表象されていたか学ぶ。ワーズワースという偉大なキャノンの要素が、白人・男性・キリスト教だと知り、それをキャノン全体の文脈で眺めてみると、「読むべきキャノン」ってなんだろうという考えに至る。知識を覚えようとしなくても、覚えてしまっていることに気づく。キーワードごとの学びが混ざり、私の立脚点ができていることに気づく。自分で立脚点を作ったのだと気づく。

    私とギリシャ神話の関係は、この流れの中にあった。私は気負わず、メディアのページだけを読んだ。そのあとレヴィのMedeaを読んだら読みがずいぶんと変わり、おもしろかった。ギリシャ神話を最初から最後まで読み通し、すべてを覚えていなくてもいい。気になったときに、また戻ればいい。そこからもっと読みたくなったときに読めばいい。深い呼吸で文学と生きることを、先生から教わっている気がする。

    気持ちをゆるめたほうが息をしやすいと気がついた時期に、「ひらやすみ」を知れたのがよかった。夕食を作りながら、Prime Videoで1話ずつ観た。うまく言えないけれど、今の私みたいな私がありうること、あっていいと知らずに、ずっと走ってきた。キャノン読まなきゃ、積読減らさなきゃ、という思考回路だった。砂の山を作った。水路を作って川を作った。水を流し込んだら水路が思いもよらない場所で崩れて、別の川ができた。水が砂を割って進んでいく。私はそれをゆっくりと追いかけている。

    未来の自分のために本を買う。大人買いした『ひらやすみ』は、論文を提出したら絶対読むんだ。

  • 鶴舞公園の桜が見ごろで、花見客であふれていると聞く。夫と、静かなところがいいねと話す。検索して出てきた、隠れた桜スポットに行くことにした。

    鶴舞公園の桜は、週末に合わせて満開になる才能があるのか。たいして離れていないのに、隠れスポットの桜はマイペースで、半分くらい、花びらがつぼみに隠れていた。「これくらいがいいんですよ」と夫が言う。「満開までいくと、花びらが傷ついていることが多いからね」

    彼は学生時代、カメラのキタムラでバイトしていた。自分で撮った写真は、社割で現像する。カメラを買うときも社割。彼の知り合いが、カメラを買いたいと彼に相談したときのこと。彼はバイト先の店を紹介した。知り合いはいいカメラを買って、それなりのポイントを手に入れた。頻繁にキタムラに来るわけじゃない。つまりポイントを持ってても仕方ない。ということで、それなりのポイントをまるっとプレゼントしてくれたそうだ。彼はそのそれなりのポイントで、それなりのカメラグッズを手に入れた。時給がいいから塾講師、家から近いからカフェ、でバイトしていた私とは大違いだ。

    「太陽の方向から、こういう角度で撮るといいよ」などと教えてくれる。私は、カメラのシャッターをゆっくり押しているとモニターでピントがシャッと合う瞬間が好き。だから軽率に撮る。その横で、彼は桜をじっくり見ている。それからたまに撮る。きみはどうしてバチバチ撮らないのと聞いたら、桜から目を離さないまま、「まず目で撮るんだよ」と言った。自分で考えて選んで積み重ねたものを持ち続けていて、今、私に渡してくれている。かっこいい。細身の後ろ姿を撮った。かっこいい。彼が肩から下げているショルダーバッグには、リラックマとコリラックマのキーホルダーがついているが。コリラックマの鼻は擦れて消えているが。

    お昼前、公園にブルーシートが増えていく。音楽、食べ物、お酒、小さなテント、アイスボックス。大人が遊んでいる。子どもが遊んでいる。大人は座って、桜を見上げて遊ぶ。子どもは跳んだり走ったりで地面のほうに目を向けたり、友達と目を合わせたりして遊ぶ。

    遠くで、幼い子どもたちが大縄跳びをしていた。キャッキャッ!キャー!ハハハッ!大縄跳びといえば、小学校のグラウンドで、太くて白い鞭のようなもののリズムの中に、「早く行けよ」「引っかかんなよ」というプレッシャーを抱えて決死の覚悟で飛び込み、無事に跳んで、抜けて、ほっと一息、となったら次の番が来てしまう、なんならみんながノッてきてスピードが上がっていくという地獄でしかなかった。桜の下のピンクの大縄跳びは、ずっと見ていられるやわらかさだった。

    ピンクの花を見ていると、ピンク色のものが目に入る。遊歩道の先に、シルバーピンクのランドセルを背負った子がいた。おめかしをして、両親に写真を撮られている。妹らしき子が、道の脇の段差によじ登り、身長を姉と合わせようとしている。姉が少ししゃがむ。ランドセルの端が歩道につきそうになる。

    ベンチの近くの芝生に、ぽよんぽよんするタイプの薄いピンクのボールを抱えた女の子がいる。大人が大きなバランスボールに抱きつくように、小さなボールの上に抱きつき、ゆっくりと横転する。横転を繰り返す。母親が女の子をボールから離す。女の子はボールに抱きつく姿勢のままで抱きかかえられ、連れていかれる。

    人が少ない芝生で、ぽよんぽよんするタイプの濃いピンクのボールを抱えた男の子がいる。父親が抱っこしているピンクの服の子は妹か。まだいっしょに遊べない。男の子はボールを高く投げて、妹に見せる。高く投げて、妹に見せる。変なところに飛んでしまって走って取りに行く。また高く投げる。ほら、こうやって投げるんだ。

    大きな白い犬を連れた人を見て、猫派の夫が、「犬が人間を散歩させている」と言った。大縄跳びも、バイトも、全部、しんどかったなあと思った。いつも切羽詰まっていた。自分で考えて選んだように見えても、選べてなかった。夫が現れて、デスクランプを調整するように、太陽を向けてくれた。

    猫はなんで散歩しないのと聞いた。彼は「猫は累積睡眠時間が人生のKPIなんだよ」と言った。犬のKPIってなにと聞いたら、彼は道を逸れ、桜を見つめ始めた。

  • 論文を読み終わって午後5時。コートをはおり、財布をつかんでスーパーに行く。スパークリングワインが欲しい。今日は完璧なカルボナーラを作る。

    小学4年生のとき。キューピー3分クッキングで「カルボナーラ風スープスパゲッティ」が流れた。スパゲッティといえば麺とケチャップを和えた、ただ赤い食べものだったので、白くてとろとろのスパゲッティに見入った。材料をメモし、父に電話して頼んだ。作りかたは録画したビデオを巻き戻して覚え、何度もイメトレした。お湯の準備に10分かかった。麺を茹でるのには8分だ。キューピー3分クッキングは、3分で作り終わることを意味しない。大人はやっぱり嘘つきだ。夕食を私が作ると言った手前、家族はリビングで待っている。キューピーは、この料理にはテキパキさが大切だと言っていた。いつもの母は、茹でた麺をボウルに入れ、ケチャップと混ぜるだけだ。ゆっくりでもなく、のっそりでもなく、なんかだらっと混ぜる。キューピーは母よりずっとテキパキしていた。知らないうちに材料を切り終えているし、いつのまにかスパゲッティは茹で上がっている。追いつかなければと焦る。父が買ってきたのはベーコンではなく3パックセットのハムで、粉チーズではなくとろけるスライスチーズだった。肉は肉だし、チーズはチーズだ。たいして違わないだろう。牛乳とコンソメを混ぜて、とろみのある液体にした。ダイショーの味塩こしょうで仕上げをする。テキパキを意識して皿に盛り、食卓に出した。

    6人家族なので、3人分を2回作った。配分を間違えて、2回目の具はずいぶん少なかった。先に食べていた父と妹と弟が、「これがカルボナーラか」と言う。「うぷっ、ってなるね」とも言った。「ばあちゃんには少しでいいかも」とも言った。私も食べてみて、うぷっと感じた。卵とチーズをたくさん使うカルボナーラは、うぷっとする食べものなんだねと、皆で合意した。「カルボナーラ風スープスパゲッティ」の「カルボナーラ」の部分を、私を含め誰も知らなかった。うぷっとなるので、リピはなかった。

    18歳で上京した。大学近くの五右衛門が、パスタの広い世界の入り口だった。実家といっしょだ、箸で食べる。トマトソースにモッツァレラチーズが入ったのが好きだった。チーズにもいろいろあるのだと、むにむに噛みながら知った。メニューにカルボナーラを見つけても、これはうぷっとする食べもの、とみなして頼まなかった。

    スーパーにレトルトのパスタソースが売られているのを見つけたときは怖かった。ボロネーゼ、ポモドーロ、アラビアータ、ボンゴレビアンコ。知らないカタカナ語が並んでいる。東京はレトルトソースですら眩しく見える。嘘つきのキューピーのほうがまだ親しみやすい。そんなことを考えていたら、おばあさんが私の横からすっと手を伸ばし、落合務の「予約でいっぱいの店のパスタソース ボンゴレビアンコ」を2箱取って行った。あのおばあさんは、レストランの予約が取れないからスーパーで買うんだろう。おばあさんでも買うということは、うちのばあちゃんには少しでいいと言われたカルボナーラのような「うぷっ」はないのかもしれない。

    そして私は落合ボンゴレを覚えた。おいしくて繰り返し買った。名古屋に引っ越したとき、最寄りのスーパーでまず確認したのは、落合ボンゴレの有無だった。

    私はレトルト落合のおかげで、ボロネーゼ、ポモドーロ、アラビアータ、ボンゴレビアンコを知った。外食で「ランチパスタセット A ボロネーゼ B ボンゴレ」などを見ても動揺せず注文できるようになった。

    最寄りのスーパー2店が日清製粉の営業力に負けたのか、レトルト落合が「青の洞窟」シリーズに替わった。落合ボンゴレに飢えた私は彼の著書を買った。落合はフレンドリーに話す。「ほら、こうするんだよ」「○○がポイント。簡単でしょ」「ぼくはいつもこれ」と話しかけてくれる。落合ボンゴレ目当てで買った本には、いろんなパスタのレシピが写真つきで載っていた。他社勢力に負けじとレトルト落合を追いかけていた私には、自由でカジュアルな世界が新鮮だった。

    本に載っていた落合カルボナーラは黄色だった。レトルト落合でもカルボナーラは避けてきた。しかし本を買って数年経った先週、突然思った。ねえ、落合、私、カルボナーラ作ってもいいかな。イマジナリー落合は、本に載っている顔のまま、口を開けて大きく笑った。レシピを読むことすら避けていたけど、あらためて向き合ってみると、ボンゴレより簡単そうだった。冷蔵庫にあった卵、ベーコン、粉チーズで作った。落合が「黒こしょうたっぷりめで」と言ったので、多めにした。卵液が固まらないように気をつけた。できあがったカルボナーラは、黒こしょうとチーズの香りが広がって、おいしかった。黙々と、早々に食べ終わった夫は、どこか不機嫌そうだった。言いにくそうに、「麺が足りない」と言った。私たちはうぷっとならなかった。

    キューピーと家族の「うぷっ」の記憶を、落合といっしょに書き換えた。サラダに記念日があるのだ。カルボナーラにもあっていい。1回目は落合のガイドについていくことで精いっぱいだった。でももう大丈夫。作りかたもコツも覚えた。気持ちの余裕がある。スパークリングワインとサラダを合わせて、特別な夜にしよう。

    カルボナーラをふたりぶん、白い皿に盛りつけた。少し高い位置からミルを挽き、皿の余白に黒こしょうを散らす。お店みたいだ。ダイショーの味塩こしょうですべての料理が同じ味になるのが不思議だったころから、ずいぶん腕を上げた。

    私を急かすように、夫がワインのコルクを抜いた。

  • 春休み、大学の図書館は長期貸出をしてくれる。返却期限が2週間の一般貸出とは別枠だ。私は長期貸出でフルに借りたかったけれど、授業の指定図書は一般貸出扱いなので、その2冊を一旦返してまた借りるために図書館に通っている。

    長期貸出の2冊が不要になって返すついでに、新しい本を借りることにした。ハンナ・アーレントについての学術書で、買うと高いやつ。金曜日の朝、OPAC(検索システム)で調べ、所蔵があることを確認し、図書館へ向かった。

    新年度の準備が始まったのか、学生がキャンパスに戻ってきている。健診用の大型車。はちきれそうな桜のつぼみ。

    スマホを手に2階へ行く。ひいきにしているのは地下2階の、暗くて迷子になりやすい棚なので、まずフロアに日光が入っているだけで新鮮。

    専門分野の本を探し当てるのは速い。専門外の本は、分類番号を知っていてもあわあわする。このあたり、をようやく見つける。借りたい本の1冊目がない。番号的に近くにあるはずの2冊目、もない。あれ?

    今朝はあったじゃん、と、OPACのページをリロードする。2冊とも「貸出中」になっていた。

    今朝、正確には2時間前にはあったのだ。私が来たときにはもう借りられていた。誰かが私と同じ行動を、同じ日の、同じ時間帯にした。とっても人気の本かというとたぶんそうでもない。だからどこか心強い入れ違いだ。

    入門レベルの本は読み終わったんでしょう。そこから気になることがあってこの2冊。わざわざ春休みに来て借りるということは、熱心に研究している人ですよね。お先にどうぞ、私は次に。

    予約して帰ろうとシステムを開いたら、今借りている人の返却期限が2027年の1月だった。ひっ。院生か先生だ。おてあげ。がんばってください。

    とはいえ必要なので、別の図書館に行って借りた。翌日から読み始めた。演習授業でクラスメイトと同じテキストを読み合うことを、勝手にイマジナリーでやっている気分だ。ふと、ある作家について研究することは、他の研究者にこういう親近感や連帯感を覚えるものなのかしらんと思っていたら、当たり前に集中が切れ、それまで読んでいた文章が飛んだ。

© 2026 川瀬紺 / Kon Kawase