
家を出て、水路沿いに歩き、角の地蔵様に手を合わせたあと、狭くて暗い道がある。小学4年生になっても、何度通っても慣れない道だった。道沿いに、瓦と土と苔が積み重なった小さな草むらがあり、その奥に、口を開けたままの防空壕があった。お化けと蛇が怖く、目をぎゅっとつむってダッシュしていた。行きも帰りも。
大きな犬に吠えられる家の前を抜ければ、通学路は田んぼの中のあぜ道が続く。道路沿いを歩けば速いのにと、いつもうらめしかった。平和学習の登校日だろうが別の日だろうが、太陽の下、変わらない道を歩くことに飽き飽きしていた。小石を水路に落とさないように蹴り続ける遊び、頭を垂れた稲穂から米をしごきとり、水路に撒いて追いかける遊びをしていた。時間はつぶすべきもの。自販機も、駄菓子屋も、歩行者用の信号もない町。
中学生になって、オレンジの連絡帳に、英語の日記を書き始めた。担任の英語教師が3年間添削してくれた。母の冷やし中華がおいしくないとか、好きな歌手がミュージックステーションで新曲を歌ってた、プールに行って疲れたけど楽しかった、バスケで突き指した、作文コンクールで入賞したけど来月の全校集会でみんなの前で表彰されるのが嫌、文房具屋で新しいシャープペンを買った、など、どうでもいいことを簡単な単語と文型で書いていた。英語で日記を書くためのガイド本をもっていたので、中学卒業の時点で、高校で学ぶ文法をひと通り使ってみていた。幼稚園の時、ももぐみのKくんがかっこいいと言ったことを、母は私が高校生になっても忘れず、「Kくんのこと好きなんでしょ~」と茶化してきた。料理をまずいと思うのは私の味覚がおかしいせい、畑の野菜を食べて喉がイガイガするのは贅沢病、歌手は山口百恵に比べたら全部大したことない、体育で疲れるのも突き指するのも与えた体をうまく使いこなせない私が悪い、私がコンクールで入賞したら中身ではなく功績を集落全体に自慢して回る人だった。私は生き延びるために、彼女が読めない英語で日記を書いていた。彼女に読まれてもたいしたことじゃない、と思われるかもしれないが、当時の私には死活問題だった。彼女にとって、私は自我をもってよい人間ではなかった。私が死ねば、また新しい子を産めばいいと思っている節すらあった。
実家を出て、大学に入り、フランス文学とヒューマニズムを知った。渡辺一夫先生は、戦時中の日本を経験した仏文学者だ。大江健三郎の師としても有名。終戦少し前から終戦後まで書き溜めた日記がある。日本政府にまったく同意できず、絶望し、死の危険にさらされ、自死の考えにも何度も至り、しかし、自分の愛する仏文学とそれに従事する反骨心のある学者が生き延びることは戦後の日本に必要なはずだと希望を捨てなかった。東大の特設防衛団の副団長だったため、妻と子どもを疎開させ、空襲の中の東京に残った。
いうまでもなく授業のできる状態ではなかった。大部分の学生は戦線あるいは軍需工場・農村に駆り出され、僅かに残った病弱者は研究室図書の松本の疎開に従事するという有様だった。前途ある青年を上司の許可なく図書管理の名目で松本に留まらせ、空襲の激しい東京に呼戻さなかったのは先生だった。
二宮敬「解題 渡辺先生の『日記』について」(渡辺一夫『敗戦日記』、ちくま学芸文庫、p.265)
日記は、検閲を避けるため、フランス語で書かれていることが多い。没後、日本語に訳されて、『敗戦日記』として出版された。


私は、渡辺先生の本をできるだけ集めている。市販の文庫を少しずつ買うことから始め、古本の単行本と続き、全集も買った。帯や付録などがついた綺麗なもので、さすがによい値段しただけある、と思っていたのだが、発送時の小さなミスのお詫びにと、古書店主は渡辺先生の直筆サイン入りの別の本も同梱してくださった。こう書くと、古本マニアみたいな感じだけれども、ここまで古書を集めているのは、渡辺先生のものだけである。
『ヒューマニズム考』や『フランス・ルネサンスの人々』は2冊あったと思うが、『敗戦日記』には及ばない。単行本があり、全集があり、ちくまの全集があり、昨年出版されたちくま文庫も買い、私の家には『敗戦日記』が4冊ある。現代仮名遣いにしたもの、先生の写真が追加になったもの、解説が増えたものなど、時代ごとの新情報があるのだ。
夏になるといつも読みたくなる。外国語で書いていた切迫性は、先生には到底及ばないが、似たものを感じ、自分に英語があってよかったと思う。先生は下記のように書き残していた。少しでも多くの人に読まれることを願い、あとがきに筆を執った諸先生方に応答するつもりで、私は今日の文章を書いている。
1945年3月1日
渡辺一夫『敗戦日記』、博文館新社、p.8
今日、僕はあらためて日記の筆をとることにした。気持が変ったのは、筆をとらしめるに足る説得的な理由、いささかの希望を見出したからである。ここに記す些細な、あるいは無惨な出来事、心覚えや感想は、わが第二の人生において確実に役立ってくれよう。僕が再生し、復讐するその時に。こういう言葉が、ごく自然に出て来たが、それほど決意は固く、かつ熟慮の上ということだ。
1945年6月6日
渡辺一夫『敗戦日記』、博文館新社、p.30
この小さなノートを残さねばならない。あらゆる日本人に読んでもらわねばならない。この国と人間を愛し、この国のありかたを恥じる一人の若い男が、この危機にあってどんな気持で生きたかが、これを読めばわかるからだ。
1945年8月18日
渡辺一夫『敗戦日記』、博文館新社、p.69
母国語で、思ったことを何か書く歓び。始めよう。
英語でも日本語でも、もっと書けるようになりたい。私の文章には両言語ともvoiceがある、と昨年英文学の先生に言われ、初めてその視点で自他の文章を批評する目をもち、へえ、これがvoice、となった。voiceを見つけたのであれば、次に行こう。両言語とも、言葉の綺麗さは求めていない。何度も味わいたい美文みたいなものに興味がない。結果的にそうなってもいいが、どこに目をつけるか、切り取るか、どう深められるか、どういうリズムや口調にするか、誰に届けようとしたいか、何に一石を投じたいと思うかなどを考えるほうが私には大切である。
広告代理店でインターンをしていたときに、「刺さる広告」「ターゲットに刺さるように」という言葉を聞いた。取引先の人がslackで、「忙しすぎて脳死してます」と言っていた。熊本地震の数日後、地下鉄の駅で、近くの人が「ガチャ爆死した」と愚痴っていた。私はできるだけ、こういう言葉を選ばないようにしている。これは自覚のある過剰であり、人に強制するものではない。他者のそういう言葉に触れて不快に思うこともしない。ただ、私はよくも悪くも根がフォーマリストである以上、私の文章ではその志向をできるだけよい方向に使いたい。自分のvoiceが力を発揮するように、痛みのあるメタファーは、必然性があるときに使いたい。
「致命的」と書き、いや、これは命に関わるようなことではない、とデリートボタンを押す。そのような手つきを、渡辺先生から学んでいる。







