大学で出会った若い人が、何度か連絡をくれて、そのたびに褒め言葉をくれた。優しくてきれい。私の内面というよりは、外から見えるものだったので、何か誤解されてそうだと思った。違いますからね、と軽く伝えた。外から見える情報で判断していないということだったけれども、それ以上知り合わないまま、連絡は途絶えた。研修生制度に応募した日、「友達できるかなあ」と冗談で言ったとき、夫から「友達作りが目的じゃないじゃん」と言われて笑ったのを思い出した。友達関係以前に、若い人たちに混ざって授業を受けることの難易度が高かった。私を含め、おのおのがおのおのに対して何かを思い、想像したり無視したり場をつないだりして通り過ぎ、学期が終わった。
文芸のことを話していた流れで、指導教官に「ふたりでごはんを」を読んでもらったことがある。まだ出会って2ヶ月くらいのころだ。何を言われるか予想できなかった。メールが届いた。批評用語を使ったコメントのあと、彼は読後がcoldだと言った。ヒヤッとしたなのか、冷たかったなのか、ゾクッとしたなのか、どういうcoldなのかはわからない。私はヒュッと寒気を感じて、そのあと笑った。この作品は、あたたかい気持ちになったと言われることが多い。けれど、実は私は冷たい作品だと思っている。自分の感情をたいして書いていないから。書かないのではなくて、書けない。あたたかいと言われるのも、冷たいと言われるのも、どんな言葉でもうれしいのに。
1月末に論文の骨子を出して、フィードバックが来た。来年度のことも話した。年に4~6回、個人セッションの時間を設けてもらえる。彼は私を修士の学生のように扱い、自発的な探究を求めると言った。イギリスの院はこういうスタイルらしい。この半年間、彼の授業を受け、おたがいにかなり話し合いながら、誤解と理解を繰り返し、関係を作ろうとしてきた。彼はその間に私の志向性やパターン、スキルの強弱を見極めたんだろう。学部生用の教育をするか、修士用の指導にするか、あるいはそれ以外か。試用期間が終わったみたい。汗ばむ額をハンカチで拭ったら、春風が吹いたような。
学部研修生でどういうふうに学ぼうかと思っていたから、関係が構築できたうえで、基本的には自発的にやって(ただしアカデミックの型は守って)と野に放たれたのはうれしい。到達したい姿がある、書きたいことがある、仮説がある、そのために調べたいことがある、手に入れたい資料がある。読みたいと思って読んでいるうちに、あれ、これって?となって脱線したり、迂回したり、道に迷って立ち止まったりする。論文を指導教官に提出する、という目標があるだけで、生活にいいぐあいの制限がかかり、安心して没頭できる。数年はこの仕組みの中にいる。駅から大学へ続く道も、図書館も、静かな陽だまりみたいだ。
暮らしに新しい構造ができてきている。その流れで、何か新しいものを日本語でも英語でも書きたいと思っている。日本語の書きものには発表する場所があるので、今のペースとやり方を続けるとして、ニュースレターのようなルーティンもほしい。無料版は更新のお知らせや軽い読み物、暮らしや考えの断片など。本を作りたいけど後回しになってるから、有料版の仕組みを使って、ウェブサイトでは発表しない新作も書きためたい。どうやったら無理なくできるかなと海外のニュースレターを調査している。編み物の先生には「早くやっちゃえ」と背中を押されている。きっとそのうち突然始める。大学の友達のように、「購読してくれる人、いるのかなあ」と思うけれど、夫は絶対に購読してくれるはずというかすべきなので、他の購読者がいない場合、毎週彼にだけ手紙のようなメールを熱心に送ることになる。それはそれでおもしろい。


