
「close reading(精読)ができるようになりたい」と思い続けてきた。何が精読かわからないまま。大学2年生の時、初めて小説の原典を読み、グループワークをした。私の読みを話した。エピグラフにある “Only connect!” という言葉が、全44章中の第22章にある。小説のモデルになった家は9つの部屋があり、登場人物の赤ちゃんが家の真ん中で生まれたのは、5という数字が関係すると思う。第5章にベートーヴェンの交響曲第5番が出てくるのは偶然じゃないと思う。細かいところから、全体を解釈した。クラスメートは顔をしかめた。教授は私を黙って見つめてきた。何か読み方が違うのだと思った。授業のあと、教授とのお茶会で笑うクラスメートを見て、文学のゼミには行けないと思った。違う読みをしてしまう。それはどうにかして直さなきゃいけない。正しくならなければ。
20年後、別の大学で、研修生になって最初に書いた詩の論文には、あまり精読の結果を書かずにいた。過剰な読みとか、変とか言われるのが、たぶん無意識に怖かったのだと思う。だけど、今の指導教官は頭が切れるのである。「精読をもっと見せて」と言われ、逃げられなくなった。
私には、授業で扱われた詩が、周りの学生が言うような暗い詩には思えない。暗い、ねちっこい音もあるけれども、そのわりには遊び心のような、浮遊感のある音が多すぎる。詩人が「自殺した」という事実に引っ張られて、死の前兆のように見えるが、その日に致命的な瞬間が訪れて境界を越えてしまっただけで、彼女は空想の中で、もう何度も軽く死んでいたのではないか。それが、「また死んでリセットしちゃお」くらいにも取れる、軽い感じで。
正しくないのだろうと、苦い顔をされるのだろうと、びくびくしながら自分の読みを見せた。明らかな誤解やミスで先生の手を煩わせたときよりもずっと怖かった。私がこう読むのは、こう読んでやろうではなくて、こう読んでしまうであり、精読がわからないままずっと来た、文学のゼミを一度諦めたぶん、存在に直結している。なんかそんなの重すぎるだろうと自覚はあるけれど、この感じで来てしまったので仕方ない。
先生は “tremendous sensitivity” と言った。この “tremendous”、「すさまじい」は、引いている感じがあるが、文脈的に褒め言葉だった。自分で何をやってるかわからない、と言う私に、先生は「精読、できてるよ」と言った。そうか、これが精読なのか、と受け入れるのは時間がかかった。習ってないので、何が精読かわからないが、手元にあるのは精読らしい。大学2年生の時のレポートを読んだら、今のとたいして変わらないように感じた。ずっと同じことやってるだけなんですけど、これが精読なんですか、と聞いた。先生は「当時もできてる。今の方がアカデミックに統制が取れてる」と言った。
そうか、これが精読なのか、と思って、来年はこれを突き詰めたいと思った。何をやってるのかもっとわかりたい。楽しみたい。その申し出を先生は許可しなかった。「もっと先に行きなさい」「何のために読むのか、そういうふうに読むことがどういう力をもつのか、考えるべきだ」。せっかく自分が何してるかわかったのにと、煮え切らない私に、先生は “add adjectives to your formalist close reading”(あなたの形式主義的な精読に形容詞をつけなさい) と言った。形容詞は、たとえば、マルクス主義的、フェミニズム的、クィア理論的、脱構築的、などがあるよ、自分で選んで、と。
私の得意な精読は、音や意味や品詞や文法など、ミクロなところに着目する。私は根っからのformalist、形式主義者。形式主義的な精読はテキストで完結してしまうという意味で、他に接続しない。クラシックな読みであり、批評理論史的には古い読みだ。そこから次に行くことは、そういう精読を否定して、新しいものを学ぶことだと思っていた。だから抵抗していた。けれど、先生は「形容詞をつけなさい」と言った。形容詞は、修飾先の名詞が必要。形式主義的な精読という名詞は維持していい。維持しなさい。そのうえで、修飾語のバリエーションを増やしなさい、形式主義的な精読の使い方を研ぎなさい。
(なんか淡々と書いているが、実際の頭の中はもっとぐちゃぐちゃしていた。できていると言われたことを素直に受け止められない自分。ようやく自覚できたのにそこにい続けるべきではないと示唆されたこと。ここまで20年かかったこと。引かれたときの空気。あの小説で響き続ける “Only connect!”。つなげばいい、つなぐだけでいい、つなぐことさえできれば。正しい訳はどれ。ココイチうまい。音楽を大音量で聞きながら泣いた。ヘッドフォンにこもる音で自分を落ち着かせようとするみたいに)
翌日、再度研究室を訪れた。自分で選んだ形容詞、来年度の計画を持って。先生はそれを承認したうえで、「その形容詞を学ぶなら、これと、これと、あとこれも学ぼう」と地図をほいほいくれた。
自分が何をやってるかわからない、やってることが望んでいたものだとわかった、もっとそこにいたい、と、ある意味で守りに入ろうとする私に、先生は「出ろ」と言った。でも破壊的な無理強いではなく、「形容詞」と言った。「あなたが『形容詞をつけろ』と形式主義的な言葉をつかったのは、形式主義者の私が受け入れやすいようにと考えたからですか。意図的な選択でしたよね」とたずねたら、先生は「うん」と笑った。
<論文で取り上げた詩と日本語訳>
In the Black Forest – Amy Levy
I lay beneath the pine trees,
And looked aloft, where, through
The dusky, clustered tree-tops,
Gleamed rent, gay rifts of blue.I shut my eyes, and a fancy
Fluttered my sense around:
“I lie here dead and buried,
And this is churchyard ground.“I am at rest for ever;
Ended the stress and strife.”
Straight I fell to and sorrowed
For the pitiful past life.Right wronged, and knowledge wasted;
Wise labour spurned for ease;
The sloth and the sin and the failure;
Did I grow sad for these?They had made me sad so often;
Not now they made me sad;
My heart was full of sorrow
For joy it never had.
松の木の下にごろんと横たわって、
上を見上げてみる。
うっそうと茂る梢のすき間から、
ちぎれた青空が、明るく、きらきらと覗いている。
目を閉じると、ちょっとした空想が
私の感覚のまわりを、ひらひらと飛びはじめる。
「私はもう死んで、ここに埋められているんだ。
ここは教会の墓地なんだ」って。
「これでもう、ずっと眠っていられる。
しんどいことも、争いごとも、全部終わり」
そう思うなり、私はさっそく悲しみに取りかかった。
惨めだった、これまでの人生のために。
踏みにじられた正しさ。無駄にした知識。
楽なほうに流れて、蹴っ飛ばした大事な仕事。
あの怠惰と、あの罪と、あの数々の失敗。
私が悲しくなったのは、ほんとうにこれらのため?
そんなことには、さんざん泣かされてきた。
でもあのとき私を悲しませたのは、もうそれじゃなかった。
私の心をいっぱいに満たしていたのは、
この心が、一度も持ったことのない「喜び」のための悲しみだった。
<今年書いた論文からの抜粋(オリジナルは英文)>
詩「In the Black Forest(黒い森にて)」は、植物のイメージを用いることで、光と闇を「同じ一つの生命の営み」の表裏として共存させています。語り手もまた、この植物のあり方に倣うようにして、森の中にある「完全には名付けようのないもの」のそばにとどまることを選びます。
第1行の「pine(松)」という言葉は、「切望する(pine)」という動詞の意味とも響き合っています。この言葉は歴史的に強いネガティブなニュアンスを含んでいましたが、著者のレヴィの時代までには、より中立的な「憧れ」を意味する言葉へとニュアンスが和らいでいました。語り手は冒頭から、自分自身を木々と同じ生命の営みの中においています。木々が光に向かって空へと伸びていく(第2行の「looked aloft(上を見上げてみる)」)まさにその時、生い茂る梢は足元に暗闇を作り出します。この逆説によって、光と闇は対立するものではなく、同じ生命の営みがもたらす二つの側面となるのです。第4行の「rent(ちぎれた)」からは、木陰を引き裂いて差し込む光の様子が伝わってきます。
第16行の「Did I grow sad for these?(私が悲しくなったのは、ほんとうにこれらのため?)」にある「grow」という動詞は、自動詞として「感情が植物のように育っていくこと」を意味すると同時に、他動詞として「自分のなかに生まれる感情を、自らの手で育てる意志」をも暗示しています。松の木と同じように、語り手もまた、光を追い求めるプロセスの中で闇を蓄積していく存在なのです。
第4連の「Right wronged, and knowledge wasted; / Wise labour spurned for ease; / The sloth and the sin and the failure;(踏みにじられた正しさ。無駄にした知識。楽なほうに流れて、蹴っ飛ばした大事な仕事。あの怠惰と、あの罪と、あの数々の失敗)」は、摩擦音や鼻音、接近音が連なり、まるで長く絡み合う根のように複雑にねじれています。そこへ、物憂げにつまずくような母音 [æ] を持つ「sad(悲しい)」という短い単語が、唐突に響きます。この言葉の最後にある「d」の音は、過去分詞の「d」の響きと重なり合い、積み重なった過去の失敗の重みをそこに繋ぎ止めるかのようです。その一方で、「a fancy / Fluttered my sense around(ちょっとした空想が私の感覚のまわりを、ひらひらと飛びはじめる)」(第5-6行)というフレーズや、詩全体に見られる女性終止(アクセントのない音節で終わる行末)は、軽やかで遊び心のある浮遊感を生み出しています。
第19-20行の「My heart was full of sorrow / For joy it never had(私の心をいっぱいに満たしていたのは、この心が、一度も持ったことのない「喜び」のための悲しみだった)」では、「sorrow(悲しみ)」が「aloft(高く)」や「heart(心)」と響き合う豊かな母音を持っています。一方で「had」という過去形は、「喜びの不在」をあくまで過去のものの中に閉じ込め、その先に広がる未来を閉ざさずに残しています。「fancy(空想)」のなかで、語り手は「dead and buried(死んで、埋められて)」(第7行)いますが、これは過去とともに一度軽やかに死ぬことを意味します。
森において、死は終わりを意味しません。枯れたものは分解されて土に還り、そこからまた新しい命が育ちます。この森という環境において、「full of sorrow(悲しみで満ちている)」という状態は、不毛な終わりではなく、悲しみと喜びの双方を内包した「これからの蕾」として機能しているのです。過去形を使って語られていることは、語り手が今も生き延びていることの証です。語るという行為そのものが、生き続けていることの証明にほかなりません。
レヴィはこの詩を通じて、矛盾を強引に解消するのではなく、そのまま抱え込んで生きる姿勢を肯定しています。それは、当時の社会が求めた信仰、ジェンダー、職業といった硬直した枠組みにはまることのできなかった彼女にとって、生きていくための極めて重要な戦略だったのです。











