
胃炎っぽさからの病み上がり。治ったか試すためにちょっと重めのものを食べたい。揚げ物、酸味、香辛料はいらない。脂ののった魚ならいいんじゃないかとスーパーに行ったら、うなぎの蒲焼きがタイムセールで安くなっていた。「3割引」「美味しいたれ」というシールが貼ってある。
買って帰って、うなぎの蒲焼きに水をかけ、たれを落とす。鍋にみりんと酒を入れ、火にかけ、アルコールを飛ばし、砂糖と醤油を加える。このたれにすると、お店っぽいうなぎになる。
たれを煮詰めているあいだ、何か気楽に観れるものを探し、Netflixでランキングに入っていたドラマを再生する。伏線っぽいゴリゴリのメタファーが積み重なる環境で、登場人物たちが言葉でおのおのの人物造形を進めていく。表現方法がこってり説明的な感じがして、あまり好きではない。流しながら料理するのはちょうどよい。
登場人物が不倫をしているのか否かと話題になったあたりで、私はうなぎをグリルで焼き始めた。夫が台所にやって来て、手を洗う。これは「さーて、ぼくもなんか手伝っちゃうよ!」の合図。
ねえ、きみは浮気しないの、と聞いてみた。聞いてみたつもりだったが、ねえ、きみはうなぎしないの、と発声していた。疲れている。彼は即座に「ぼくはうなぎする」と返した。そうだ、私たちは今、うなぎしているし、これから本格的にうなぎする。
いや、違、きみは浮気しないの、と言い直す。すると、「そろそろしちゃおっかな。がんばったほうがいいかな」と言われる。
登場人物たちが複雑な感情の機微を意見交換している。私は、ねえ、私たちも複雑な話をしよう、と言った。彼は、炊き上がったごはんをしゃもじでよそいながら、ふーむという顔をして、「住宅ローンは√2だよねえ」と言った。
√2って何。
「√2ってなんだかしってる?」
2乗したら2のやつでしょ。
「そうかなあ。そうだっけ」
合ってる?
「うーん」
住宅ローンが√2って何。
「√3でもいいね」
住宅ローンって√使って算出されるの?
「しらん」
形而上学的で意味不明、とでも言いたいの?
「ぼくは√ナポリタンがすき」
えっ。
「√オムライスでもいいよね」
そうだ、明日はオムハヤシにしよう。
「はやくねなきゃね」
うなぎできたよ。
ローン、投資、車、保険、子育て、などを選ばない時点で、人生の複雑化が避けられているような気もするし、選ばなかったがゆえに別の方向に複雑化している気もする。ドラマの登場人物たちの大人な感じに憧れつつ、Xで流れてくる考察ポストには少し身構える。それっぽい専門用語やラベルを使って、言語化して、わかった!すっきり!みたいな感じのやつ。
この前、ベテランの哲学者が「私は、○○について、最近までよくわからなかった」と書いている本を読んだ。何かを「わかりきった」と言えることなんてないから、「わかった」も「部分的にわかった」であって、「わからない」ままでいることが基本なんだとすれば、おたがいよくわからないまま、わからない世界を生きること自体、それがいかに軽いふざけた見た目でも、中身は複雑なんだろうなと思う。
留学に行っている21歳の友人が、刺激的で楽しいけれどもいろいろなことで悩んでいるっぽいLINEをくれた。寂しいともつぶやいた。私は彼女がわからない。わからないので、LINEが届いたときに訪れていた図書館で、大学創設者の写真を撮った。この大学の学生ならなじみのある、何か思案している横顔。もしかしたら創設者ロスかもしれないから送っとくね、と返した。すると「それだけはない笑笑笑笑」と来た。あ、もしかしてこっち系だった?ごめんごめんと、別の創設関係者の写真を送った。すると、「そっち系でした、、、」と来た。嘘つけ。
休みの日、映画館へ向かう道中。Lispって言語、なんで「神の言語」って言われてるのと彼に聞く。
「神なんだよ」
だから、それはどうして。具体例見せて。
「ほーら。神でしょう」
と、AIで出した例を見せてくれる。
あー。何言ってるか全然わかんないけど、このカッコの複雑さが恐ろしいのは伝わってくるね。


ねえ、そういえばこういう詩を書いたことあるよ。このまえ先生から涼しそうなトーンのメールが来たんだけど、その内容が「3週間で、国際学会で発表×2、平行して試験の採点、出版の原稿締切の対応、飛行機で数ヶ国の移動、ロスバケ」だったの。事前に聞いてた感じより多忙だったから、はああああああ?とあきれちゃって、なんだそのすまし顔、と思って、叫ぶような大文字と、ツッコミの小文字とカッコで詩を書いて返信にしたんだよ。見て。
夫はその英詩を見て笑う。詩に興味がない彼でも笑った。特に感想を言うわけでもなく。先生もそんなふうに吹き出してるといい。
以前、論文で扱う詩を読んでいて、うまく言語化できない何かがある、 “nameless(名前がない)” とメールしたとき、先生は返信でそれを “something not fully nameable(名前をつけきれないもの)” と言い換えていた。どちらもわかりやすい名前がないのは同じだけど、前者が「ない」と切るような、思考停止や欠落のニュアンスがあるのに対して、後者は「どうにか名づけようとしている」という、現在進行形の試行錯誤のニュアンスがある。わからない、わからない、なんて言えばいいのかわからないと悩むとき、すっきりしたいとき、その言い換えのメールの空気を思い出して、慢心も諦めもせず揺られていようと、自分を整える。
夫のことも、先生のことも友人のことも、自分のことも、よくわからないまま、オムハヤシを食べる。√オムライスって何。









