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  • きみが先生のもとに行ってから、数日が経った。元気かな。たくさん赤入れされないといいなとも、それはそれで鍛えられるなとも思うよ。とにかく今日はきみが帰ってくる日で、朝から落ち着かない。今年の成果がきみであるのか、あるいは別人になるのかはわからないけれど、きみと遠出した日のことを残しておく。

    私と夫ときみは、突然大阪に行くことにした。私たち夫婦は、いつもこうやって、ちょうどいい特別感で旅に出るんだ。観光スポットとか名物とか、そういうのはいらない。ふらっと出て、いつもと違う街の日常に浸って帰ってくる。そういうのでいいというか、そういうのがいいんだ。このところしばらくきみと過ごしてばかりだったから、きみを家に置いて行こうと思ったけれど、書きあがったはずのきみが、何かまだ言いたそうな気がして、プリントアウトしていっしょに連れて行くことにした。左上をホッチキスで止めたの、痛かった? ピアスの穴を開ける仕事の人って、いつもこんなふうに、一瞬、あっ、とか思うのかな。

    デスクトップパソコンのワードファイルに縮こまっていたきみは、新幹線のテーブルを占領してのびのびしていた。しゅっと通過して行く窓の外の景色。田植え前の、水を張った田んぼの光がきれいだったね。マンションの最上階の洗濯物が飛んだのも見た。きみのことを何度もゆっくり読んだ。言葉選び、文章の長さ、論理の構築、英語のトーンなどを細かく考えた。好きな人と過ごす時間はあっというまというのはよく聞くけど、どうなんだろう、新大阪にはすぐに着いた気がする。新大阪の駅は好きだよ。ホームから出る電車がだいたい大阪駅に停車するから迷わない。並んで待っている間、後ろにいた、にぎやかな家族の話が聞こえてきた。母親とその娘ふたり、母親の友だちの女性とその娘ひとり。かばんやスマホやネイルにはキャラクターがたくさんついている。母親のひとりが、「今日はガチだから、まじかるぷーさん」と言ったんだ。私はすごく、「まじかるぷーさん」って何だろうって思った。だって、プーさんなら千葉のはずだからね。「ねえ、ユニバ行きたい」って言う娘に、「今行ってるところじゃん」って返すお母さん。私は夫と笑いをこらえていたよ。大阪駅の花壇が元気だった。

    物理的にあまり遠くに行かなくていいというか、行きたくないのは、本が好きだからかもしれない。大きな本屋に行って、ここの品ぞろえはどんなものかしらん、どんな棚を作っているのかしらん、とか歩きまわるのは、いつだって新しい世界の探検。買った本の帯やチラシは捨てる派だけど、新しい世界を知りたいときの、「ここはこんな感じですよ」と声をかけてくれる帯は頼もしい。本屋に入る前はちっとも買う気がなかったのに、よりによって重たい本に惹かれてしまって買った。きみは小声で言ったんだろうね、ねえまだ論文終わってないじゃんって。そういうことじゃないんだ。頭の中の、言葉になる前の段階でたゆたっているものが、外的な触媒を得て現れた、ということが大切なんだ。また奥のほうに戻って見えなくなる前に、物理的に残しておくんだ。粉が水分を含んでダマになると、ふるいにかけても下に落ちないでしょう。そういうことだよ。

    昼は寿司屋に行った。なんてことない、チェーン店。でもすごくおいしいんだ。わざわざ観光で行く店じゃないだろうから、たぶん混んでないだろうって、いつでも自信をもって言えるよ。私たちはそういう安心感が好き。いつもはなんばの店でテイクアウトして、帰りの近鉄線の中で食べるんだけど、今回は店に行ってみようってなった。地下街のホワイティというところにあるんだけど、だいぶ困った。歩いても歩いても辿り着かないんだ。見ると、ホワイティの中にFARURUという看板があって、そのFARURUの中にもお店が入ってる。入れ子構造が過ぎるよ。ようやくたどり着いた寿司屋には、やっぱりすぐに入れた。

    私と夫は製造業の会社の同期だから、製品がどのように作られるかとか、どういうパーツかとか、収益構造とかがとっても気になる。回転寿司の店は、テイクアウトの店と形態が違った。全然違った。手元のタブレットに出てくるメニューは一般的だよ。旬やネタでカテゴリー分けされていて、さび抜きかどうかを選べる。つぶ貝と鉄火巻をとりあえず頼んで、お茶を淹れて、寿司の回転を眺める。そして気づくんだ、回転しているのはタブレットに出てこないメニューばかりだって。サーモン、えび、いか、玉子、といった低価格帯のネタに、ネギ塩、ネギマヨ、明太マヨ、生姜ネギ、チーズ、しそ、蒸し焼き、とびっこのせ、レモンおろし、ゆず、ゆず胡椒が組み合わさっていた。お客さんがどんどん手に取っていくし、店員さんもどんどん製造していく。私たちはそのクリエイティビティと戦略にいたく感激した。しらふなのに愉快だった。100円のするめいかが、ゆずするめいかになると190円になるんだ。ふつうのいか190円は、ゆず胡椒いか270円になる。私たちは店を入ってすぐの、右端のカウンターに座っていた。そこからだと、左手側の少し先に、回転道路の曲がり角が見える。たとえば「ネギマヨえび」というネームプレートが載った皿のあとに、ネギマヨえびの団員が続くわけだけれど、そのゆっくりとした登場が、スポーツ大会の入場行進みたいでかっこよかったんだ。

    チーズケーキと飲みものを買って、ホテルにチェックインした。ケーキの箱を広げて、お皿代わりにした。ケーキ屋でスプーンをもらっていてよかった。寝るためだけのお安めホテル、期待してはいけない。夫はね、こういうケーキを3口で食べるんだよ。ひどいときはふたくちだよ。ムードもへったくれもありゃしない。昼寝しちゃうかもねと話していたら、ふたりとも昼寝した。旅先なのにね。自由でいいよね。

    夕方、アラームで目が覚めて、支度して、ミニシアターに行った。「ライスボーイ」っていう映画。どうしても夫と見たかったんだ。小さな映画館の狭い待ち合いスペースに、人が並んでいた。思いのほか混んでるんだなと思っていたら、ドアが開き、拍手が起こり、並んでいた人たちが入っていった。別の映画の舞台挨拶だった。舞台挨拶の人たちってこんなふうに並んで待機するんだ!と新鮮だった。ソファで座って開場時間を待つ。「お水飲む?」と聞かれて、「うん」と言って、アルプスの天然水を飲み、異世界ホラーのポスターを眺めたりした。そのときは、予想もしてなかった。きみが映画に出てるなんて。びっくりしたよ。きみはいくつかのイメージからできてる。松の木、夕暮れ、野原。光、闇、生、死、若さ、老い。すべてが、映画の重要なイメージとして出てきた。気づいたのは中盤あたり、松の木の話からだよ。あれ?と思った。そこから少しずつ、きみと、目の前の映画がリンクしていく。あるいはきみが目の前に現れてくるのを見る。初めての感覚だった。私がきみを書いたから、こじつけで見ているだけと言われればそこまでなんだけど、活字にしたときに手を離れ始めて何かと有機的に結びついて独立するような感じが、そのときもあったんだ。松の木は英語で “pine tree” だよね。木は光を求めて上に伸びる。森で木が成長して密集するほど、下の方には闇ができる。私はあの詩の名詞の “pine” には、動詞の「切望する」ってイメージも重なるって思ってる。あの詩の松の木、この映画の松の木、そしてきみは、何を切望しているんだろう。

    ミニシアターで映画を観終わって、20時くらい、夜の街。薄手の長袖がちょうどいい。なんか無敵って感じがする。夫は、映画がさっぱりわかんなかったって。その自分のわからなさと、私が(自分なりに)わけがわかって「うおー!」と興奮するギャップをたいそうおもしろがるんだ。彼の好みじゃないかもなーと予感しつつ彼を連れていく私も、自分の好みじゃないかもなーと予感しつつ私に着いてくる夫も、奇妙だよね。私はきみが映画にいた話をがんばって彼にしたんだけど、えっ・・・( ゚д゚)ぽかーん って感じだったよ。日曜の夜だからか、出歩いている人は少なかった。手をつないだり、離したり、横断歩道をダッシュしたりして、けらけら過ごした。夕飯はバーで日本酒とおでん。メニューに、「おでん屋ならでは」という謳い文句の、大根天ぷらとポテトサラダがあった。きっと、2日目以降のおでんの大根と玉子とじゃがいも。こういう部品の共通化はすごく美しいよねと、夫と盛り上がった。いっしょにいると、何でも酒のつまみになるんだよ。

    翌朝、先に起きた夫が放送大学の番組を見ていた。余因子行列。掃き出し行列。ベッドの端に座り、「えー。ふしぎー」とか言いながら見入っている。チャンネルを変えた教育テレビでも算数のことをやってた。7と5と0を書くと、750になるよ!みたいな。それを聞いた夫が、「いま、じゅうようなことをいわなかった。ぜろをつけるということだよ。ないということを、ないというきごうでしめさなければ、ないということがなくなる。ぜろがなければ、75になる」。あとでよく考えようと思って、言葉をそのままLINEのメモに残した。

    夫の趣味に付き合って、ヨドバシカメラのコンピューターのパーツ売場に行った。私にはまじですべてが同じに見えるんだけど、ぜんぶ違うんだって。グリスを選ぶときに、選び方を説明してくれたんだ。私は自分で買うことは永遠にない気がするけど、丁寧に説明してもらったので、いざとなったら自分で買えると思う。グリス1gの差、ファンの大きさ、汎用性、そういう細かーいことを確認してこだわって選ぶのは、私がきみのパラグラフの動詞や名詞をどの言葉にしようかなと、うきうき悩んでたのと似てるんだよ。そういえば、パソコンのパーツの値札が、賞味期限みたいになっててよかった。円マーク取ったら、たしかに10万単位まで同じシール使えるもんね。

    家に帰ると、きみの様子が変わっていた。論理の飛躍を見つけた。その部分を書き直して、関連する別のところも書き換えた。1文削った。それからしばらく休んでもらって、着替えさせて、きみを見送った。

  • 今月の本棚を眺めると、タイトルよりも著者の名前が大きく印刷された本があると気づく。トワイラ・サープの本は彼女の名前のほうが大きい。舞踏家の心身管理の話。2011年初読から、私も彼女も年齢を重ねた。その距離は変わらないのに、彼女の近影は昔よりもかっこよく見える。私のロールモデルのひとりは、株主に洗練されたプレゼンテーションするような起業家でもなく、プラダを着た悪魔でもなく、自分のスタジオでトレーニングを続けるトワイラだ。週に1度、エッセイを発表し、ニュースレターを送ったあと、また書斎にひとりでこもるような。

    ハントケコレクションは、彼がノーベル文学賞を獲ったから出たものだろう。長らく絶版だった「幸せではないが、もういい」をようやく読めた。自殺した母親の人生を書き綴ったもの。285ページの、「けれども私は、それは違うと確信している」という、「確信」のところでだけ、急に頭痛がした。彼がなぜそう思ったかを、おそらくわかっていて書かない選択をしたように、私もなぜ頭痛がしたかをおそらくわかっているけどここには書かない。同じ本に収録された、「長い別れのための短い手紙」は、「幸せではないが、もういい」と違って、読み終わるまでに時間がかかった。語り手がいろいろなことを考え、話し、出来事や他者を通過しながら進んでいくのだが、どこに行けばいいのかよくわかってない浮遊感に私も飲み込まれ、なんだかだるいような、でも先に進まなきゃいけないんだ、何かがこの先にあるのはわかってるから、みたいな時間を過ごした。ソファで足を組み替えたり、体育座りでのぞきこんだり、途中で休憩のつもりが昼寝しすぎたりして付き合った。楽しくないのに読ませる吸引力。読み終えて、やっと終わったと思った。それから2日して、メモした言葉のいくつかがつながり、言葉以前の何かになり、置き配の荷物のように私に到着した。夫は絶対にこの作品が好きじゃないと思う。

    『本なら売るほど』の新刊を読み、1巻目の、本の葬送を思い出す。本好きだった人が亡くなり、残った本の処分を頼まれる古書店主の話。「処分」の言葉だけが強烈に残り、強制収容所のことが浮かび(この時点で、もうマンガのことは頭にない)、何か読もう、そういえば小川洋子が話していたことをもう一度聴きたい、ハントケのあとならたぶん昔と違って聞こえるはずだ、と連想する。『物語の役割』で言及されていた「リンデンバウム通りの双子」を収録した『まぶた』が絶版で、大学の図書館にもなく、『フリードル先生とテレジンの子どもたち』は大学のどこかの研究施設にはあるが行ったことなくて面倒、というか最近暑くて新しい場所に行くのが億劫と相成り、大きな本屋で買った。古書店の店主が大量の本を日没までに査定して、買い取るぶんを精いっぱい箱に詰めたこと。双子の兄のカールが、花束を作ったり、チョコレートの包みを雨に濡れないように胸に抱える手つき。初期バウハウスで活躍した芸術家のフリードル先生が、収容所に向かう前、色紙や布やクレヨンをトランクに詰め込んだときに考えていたこと。

    『海が走るエンドロール』が完結した。夫と死別後、美大生になって映像を専攻する主人公。65歳。彼女の周りにいる若い同級生との空気がうらやましいと思っていたら、彼らが食べていたすき焼きが食べたくなり、わざわざ少し歩く肉屋まで行き、夕食をすき焼きにした。大学の授業で知り合った若い学生からLINEが届いて、ああ、うらやましいとかじゃなく、私も大学に通い直しているんだったと思い出す。「文学のことよくわかんないけど、詩を授業で読んでみたらめっちゃおもしろかった」と話すその人は、目下、試験期間中だ。就活と留学準備も並行していて、うがー(叫)みたいな感じだが、こちとら他人だし、年が離れているのもあって、呑気に見守っている。6月に会う約束をした。

  • 食後に息苦しくなったので、救急車を呼んだ。震えや痙攣が止まらない。動脈血も静脈血も点滴も、血管がうまく見つからず、何度もぶすぶす刺される。医師が「無理じゃね?」「浮いてこない」と言い合うのが聞こえる。血管の位置とか太さくらい、人並みだったらよかったのにと思う。検査を受けた。処置を受けた。家に戻り、窓を開け、ベッドに倒れ込む。

    向かいの家の小学生の女の子が、友達とボールを突いて遊んでいる。頭に響くのでやめてほしい。

    ひとりが、「あ、そうだ」と言った。紙の音がしたので、たぶん手紙を取り出した。ゆっくり、「りさちゃん、いつもありがとう。だいすきだよ。これからもなかよくしてね」と読み上げた。いきなりウェット。今?

    「りさちゃん」は「ありがと」と乾いた声で言った。そのあと、「ねえ、学校のプールっていつから?」と言った。それはまるで、「え、マーケ会議って2時からだよね?」みたいな、大人びた口ぶりだった。

    この前読んだ、イギリスの初等教育の本を思い出した。イギリスの人々は、幼いころからたくさん書く。事実もお話も書く。

    地理の授業では「砂漠」や「ベドウィン族」等の生活様式を詳しく扱った。興味深いのは、理解を確かめるために話を書かせることだった。北極地域のことを学んだ後「グリーンランドの海岸でたった一人で座礁したと想定し、どのようにしのいだかを書きなさい」という問題が出た。

    山本麻子『書く力が身につくイギリスの教育』 p.63

    これは著者の息子が10歳くらいのときの話だ。グリーンランド。グリーンランド。ひとりで、座礁したとして、と思いながら、だるさに沈む。緩んだ体の隅々に、眠気が染み込む。力の入らない手足が溶ける。

    目覚めたら18時を過ぎていた。カーテンの隙間から見えた景色はまだ明るかった。ボールの音はしない。机の上に、本や文房具が広がっている。お昼過ぎに放り出した場所。椅子が少しベッドの方向を向いていた。

    座礁したら泣けばいい。潮にして水深の不足を満たす。自然と浮揚する。今日は夜風が涼しい。

  • intellectualise
    動詞
    ~を知的にする
    ~を知的に処理する、知的に話す、思索する

    最近の興味はもっぱら「圧縮」である。

    3月、指導教官の書いた論文が出版された。先生の研究者としての実績のほとんどは、国際的な出版社から出ている。私は学者じゃないけれど、たぶんすごい人なんだろうと思っていた。新作を読んで痛感した、だいぶすごい人だ。

    私は今期、彼の英詩の授業を受け、そこで取り上げられた詩人の中からテーマを決めて論文を書いている。彼が論文で取り上げたのも同じ詩人だった。そして論の方向性も似ていた。数年かけてその詩人を授業で扱ってきて、並行して論文を書いていた。その出版を控えた年度に、たまたま私が入学を希望して、たまたま彼のもとで研究生として学ぶようになり、たまたまその詩人を選んだ。先生の授業を聞いているわけだから、論点が似るのは当たり前でしょうと思われるかもしれないが、彼はいろいろな情報を評価せずに等しい粒度で提供していて、そこから選んだのは私だ。なのでたまたま言いたいことの根っこに重なりがあった。

    秋に先生から出されたお題が私にとっては難しく、これまでに3回出した。3回ともまるっきり別の論文だ。4月中旬、3回目のバージョンにフィードバックがあった。私は論文にABCという3つの要素を含めていた。私はCだけを選んで4回目を書くことにした。ああなるほど、ようやくおっしゃる意味がつかめたような気がしますよ、書き直しますね、あー、あの本が必要、という思考を経て、図書館に行ったところ、先生の新作を見つけた。図書館の棚の間で読んだ。先生はABCのうちのBの部分を、もっと精密に処理して、もっと深く考えて、いらないものを徹底的に削って本題を研ぎ、かつ私とは別の文脈で書いていた。

    たぶんいわゆる世間的なイメージの「教授」と「学生」のロールで事務的にやりとりしたのは、去年の夏の最初のメールだけだ。この関係では・・・コードを・・・変えられ・・・ます・・・ね?みたいな了解があった。わざとか、素なのか、英語のメールがどんどん難解になっていく。難しい言葉を使った長文ではない。先生が専門にしている英詩のように、短く、しかし多層的な読みができるメールが届く。そのまま読むと文学の話なのだが、これまでのやりとりの文脈(授業、および個人的な話)、対面での話(記録が残らない)とメール(記録が残る)での間接性の違い、英語のトーンなどを踏まえると、別の読みができる。この多層性があるうえに、私が質問したことに対して直接触れられないということもある。これは経験上、直接触れられていないということをきちんと読み取れという、すさまじくエネルギッシュな不在だ。

    全力でメールを読み解き、返信を書く。誤解が怖いので言葉を慎重に扱う。長くなる。推敲しても削れないのでそのまま送る。そうすると、しばらくして多層性と不在を含んだ短いメールが郵便のようにふわっと届く。いつも、本当によくこんなに情報を圧縮できますね、それもこんなに美しく、と思う。

    このベースがあっての春、新作だ。先生の圧縮をずっと見てきた。論文には彼の哲学や授業のエッセンス、キーワードが入っていた。私は先生の授業がいかに入念に設計されているか、都度微調整をかけられているかもわかる。いつ、どういうルートで日本に来て、何年教えていて、いつからこの詩人の授業をしているかは公開情報だ。詩人の作品も、バックグラウンドも、研究の潮流も、主要論文も、先生には到底及ばないが読んだ。個人的な話も交わした。そういうのがすべて詰まった論文、薄い本の1チャプターを読んだのは初めてだった。自身の知識、経験、存在をこのレベルで知的処理している人に会ったことがない。いつものメールよりも当たり前に専門的で、射程が広く、精密だった。いつものメールのように深く、多層的で、倫理的で、美しかった。

    1月の個別指導の時間、私は既存の研究潮流に単純化しすぎな傾向があるんじゃないかとぷりぷり怒っていた。ある単語を聞いて、先生は吹き出した。今思えば、もうその頃には脱稿していたんだろう。まだ話していない論文のキーワードが、突然研究生の口から、子どもっぽい感情吐露レベルで出てきたのだ。私のその怒りのロジック自体に、先生は何も言わなかった。言葉を選び、なだめるように、「まずはブロック引用を減らそうか」と言った。

    新しい論文を見つけて読みましたよ、と、図書館の帰り道でメールした。もっと早くに読めていたらと思いました、というのは、裏を返せば荒ぶる子どもの私アゲインである。先生はそれを正しく読み取り、「思考の流れに影響を与えたくなかったのでね」と書いてきた。「興味深いと思ってくれてうれしい」とも書いてあった。軽く、抑制された、気取らない雰囲気で。あの論文のどこが “interesting” 1語で済むのか。どうしてそうやって済ませようとするのか、国際編著だよ、すごいよ、てかいつもすごいよ、少しは祝わせてくれと思いながら、圧縮した短いメールを送った。

  • 先月末に言っていた読書管理アプリができた。

    読書管理のアプリを使いたいのですが、好きなものがありません。日本語の本も海外の本も情報が出てきてほしい。zineをよく読むので、手入力もしたい。UI(見た目や使いやすさ)がカラフルじゃないもの・ややこしくないものが欲しい。キャラクターはいらない。静かなものがほしい。海外のものは好きなデザインのものがあるけれど、日本語の本の情報が出てこなくて、むうとなります。

    日曜日、自分で作っちゃおうと生成AIのClaudeをいじり始めました。私は課金組です。Opusが好きです。Gemini proがサブ(学割で無料)。以前夫が「自分でアプリ作っちゃいなよ」と言ったからClaudeといっしょに作り始めたのに、出てきたファイルは私では動かせませんでした。彼に「仕方ないな、作ってあげる。仕様書送って」と言われ、目的、欲しい機能、UI、Claudeと作ったモックを送りました。

    私たちは、おもしろいくらい補完的な関係です。役割分担が明確で、得意・不得意が逆。彼はコードを書けるけれど、UIには無頓着。私はコードを書けないけど、UIを考えるのが得意。それと、「こういうのがどうしてもほしい。既存のものに満足できない」みたいな、最初の声をあげるのも大体私。だから、コードを書くのがどれだけ難しいことだろうと、私は彼と対等のつもりでいます。自分を下げない。

    1日中作っていて、ほぼ完成したとのこと。さすが。パソコンから使えるブラウザアプリなら、こんなに速いのねと驚きました。これをスマートフォンで使いたい、他の人が使えるようにしたいとなると、一気に次元が変わって、すべきことが山積みになります。そこまではしない。上手く作れたら、コードを公開しておいて、他の人も自分で作れるようにしよう、と話しています。どうなるかな。

    4月20日のニュースレターより

    ホームの本棚はこんな感じ。

    ISBNの横断検索で、日本の本も海外の本もおおむね出てくるようになっている。ISBNのない本、画質が荒い本は写真を撮って添付すればよい。

    読書中はタイマーで管理できる。今は使いながら、細かいバグ取りをしているところ。2時間読んだのに統計ページで15分って表示される、とか。

    「紺ちゃんのアプリを作ってあげます」と優しさを振りまく一方で、夫は無料のAIでどこまで作れるのかを真の研究テーマにしていた。会社ではClaudeの有料版を思いっきり使えるらしいが、家では課金していない。無料と有料の違いはどれくらいなのかを、無料のAIをいろいろ使い倒して検証していた。私が軽くリクエストした仕様に対して、彼はしばらく部屋にこもって作業したあと、「これは有料版だったら20分くらいだろうけど、無料版だと終わりが見えない」とたいへん愉快そうに笑っていた。バグを見つけて嬉々として興奮するのはどうして(会社のチームでバグ取りした日は、「みんなで退治したー!」と言って帰ってくる)。アプリが一旦完成し、私がおおむね満足したあとも、彼は要素技術開発のように研究を続けている。「部屋の本棚を写真に撮って、全部一気に読み込んで登録できたらいいよね」とか言われて、いや、使わないよそんな機能、と返しても、「背表紙単体の読み込みはねー、うまくいくんだよねー。複数になるとむずかしいんだよねー」と話を聞いてない。自分の興味におおいに愉快に熱中できる人と暮らすのは、おおいに愉快だ。ごはん以外で顔を合わさなかったとしても、さみしくならない。安心して私も自分の興味におおいに愉快に熱中できるから。興味の具体物は共有できない。おたがい異分野にいて、それ自体にはあまり関心はない。でも、「おおいに愉快に熱中」のエネルギーは熱く共有できる。

    今日も「本の背表紙認識」をもりもり開発中だ。お昼前、私は彼の部屋に行き、読書後の体をベッドで伸ばしていた。デスクから「ほら紺ちゃん、見てごらん。AIがアホになった。けろけろ言い始めた」と声をかけられた。肩が小刻みに震えている。けろけろってなんやねん、と起きてモニターを見たら、本当にずっとけろけろ言っていた。ふたりでけらけら笑った。表示されてほしいのは「けろけろけろっぴのおりがみ」

    AIに書かせたコードは美しくなく、Githubの自分のアカウントで公開するのは許せないらしい。Claude codeを動かせる人には、zipファイルを渡せば使ってもらえるらしいが、いかんせん私が面倒で嫌である。

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