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  • 下界

    23時。夫の部屋の扉から、オレンジの灯りが漏れている。
    私「(まだ起きてるんだな。ゲームやってんのかな)」

    23時半。直感が働く。静かすぎる。
    私「(起きてないな)」
    部屋を開けると、ベッドの上で膝を抱えてすぴーっと寝ている夫がいた。
    私「あー。もう。起きなよ。お風呂入んなきゃ」
    夫「いま、いいところなの」
    カーテンを揺らす風が涼しい。雨上がりの匂い。そうね。いいところね。
    私「そろそろ日が変わるよ。お風呂!」
    まあそのうち起きるだろうと、彼の部屋を出る。

    0時。彼はまだ起きてない。
    私「ねえ、起きて。お風呂入って。先に入ってくれないと私が入れないじゃん」
    本当は先に入れる。でも彼を置いて寝てしまうのが嫌で、「きみのせいで私の睡眠が奪われる」という論理で脅す。彼はやさしいので、これでたいてい起きる。
    夫「はいる。はいるよ」
    私「起きて」
    夫「おきてる」
    私「どう見ても寝てる。起きて。私お風呂入れないじゃん、寝れないじゃん」
    段階的に声をかけ、徐々に覚醒していくよう仕向ける。彼の部屋を出る。

    0時半。彼はまだ寝ている。
    私「ねえ、起きるよ。日付変わったよ。ねえーー!」
    彼はすのこの低いベッドフレームに、マットレスを敷いている。
    私はその上に乗り、膝で立ち、彼の肩をゆさぶり、脇腹をくすぐり、ほっぺに指を突きさす。
    こちらが豪快に挑むと、豪快に抵抗されるのは知っている。
    しばらく豪快に攻撃したあと、ベッドを降りて、床に正座する。
    私「・・・・・・そろそろさ、起きたほうがいいと思うよ」
    豪快な攻撃のあとにしんみり黙ると、もぞもぞ動き出すのが彼だ。
    私は声のトーンを抑えているだけで、彼の変わりように静かに笑っているのだが。
    立ち上がり、彼の頭を撫で、「ほら、時間だよ」と言って退室する。

    1時。いつまで寝てんの。
    私「起きて。お風呂。ねえ。私お風呂入れないじゃん、寝れないじゃん」
    夫「・・・・・・」
    私「(話聞いてんのかな)私お風呂入っちゃったよ」
    夫「ん?」
    私「(話聞いてんじゃん)起きろ」
    夫「うーん」
    私「起きる気ある?」
    夫「まあね」
    私「落とすぞ」
    彼の腰のあたりを持ち、体を斜めに動かしていく。足先が少しずつベッドからはみ出す。
    夫「きゃー」
    私は彼の両ふくらはぎをつかみ、下に引きずり落とし始める。彼は「きゃー」「ひどーい」「えーん」と言って抵抗する。そのあいだにも、彼は少しずつずり落ちていく。ずり落とすのが楽しくて、もう少し遊んでいたくなり、彼の胴体を上に引き上げて戻し、またずり落とし、を繰り返して楽しむ。おたがいがこの深夜のばからしさに笑ってしまったあたりで、仕上げだ。彼をベッドからずり落としきった。両手を上げ、上半身をベッドに伸ばし、腹を出し、下半身が床に着地した状態で、彼は「げかい」と言った。きみは神なのか?

    彼は風呂に入り、水を飲み、私におやすみを言いに来た。お風呂から上がった、ひげのないちゅるちゅるほっぺは、確かにこの世のものとは思えない尊さだ。指でぷにぷに触っていると、頭の中でスピッツが流れる。

    「何かを探して何処かへ行こう」とか
    そんなどうでもいい歌ではなく
    君の耳たぶに触れた感動だけを歌い続ける

    なぜ「耳たぶ」なのか理解できずにいたけれど、「ほっぺ」に置換すればすっかり私の歌だった。天啓。「いまごろきづいたのか」と言い捨て、神は天界に戻った。

  • 大学図書館のOPACで本を検索すると、何茶等甘茶等研究所図書室に配架されていることがある。これは私の雑な当て字だけど、とにかく漢字が連なる硬い名前の場所にあるということだ。私の推測では、何茶等甘茶等研究所図書室がどこにあるかはなんとなく知っていても、実際に行ったことがある学生、利用したことがある学生は多くないと思う。図書館の本館と、何茶等甘茶等研究所図書室両方に配架がある場合、私は迷わず本館で借りる。しかし私の志向や立脚点の関係で、ここのところ立て続けに、何茶等甘茶等研究所図書室にしかない本が必要になった。これはもう抗えないと、病院の帰りに大学に寄り、未知の場所への探検を始めた。

    平日、午後2時あたりのキャンパスは、ちょうど3限が始まった頃で、歩いている人が少ない。向こうから学科長が歩いてくるのが見えた。下手に通り過ぎるのも、隠れるのも身が危ないので、声をかけて挨拶する。「ああ、川瀬さん」「来年度も継続されますか」と言われた。以前少しお話しただけなのに、今夏で研修が終了すると知っているということは、秋学期入学者と知っているということで、なんでそんな些事を覚えていらっしゃるのかと言えば、学科の研修生が他にいないからである。指導教官ではないから、授業を受けてないから、授業外の時間だから挨拶せずに通り過ぎてよいのではなく、それがゆえに挨拶しておいたほうがよい。

    「今日は面談ですか」と聞かれて、いえ、何茶等甘茶等研究所図書室に行きますと答えた。「ああ、それは結構」とほほほんと言われたので、やっぱり挨拶してよかったと思った。何茶等甘茶等研究所図書室がある建物を聞くと、「ああ、何茶等甘茶等研究所図書室笑」と、ほほほん言われた。目線を追う。すぐそばだった。

    普段、人があんまり来ないんだろうなという感じの、独特な建物、フロアだった。エレベーターから出てすぐのところに、「何茶等甘茶等研究所図書室」という看板の扉が3つあった。その先に、扉が開いた部屋があった。学科長と話したあたりから汗をかいていたので、ハンカチを取り出してぬぐう。夏の火照った体は、すぐには落ち着かず、息を吐くたびに汗も出る気がする。治まらねえ、静まらねえ、あーーー、暑い。リュックを開け、ペットボトルを取り出し、フタを開け、水を飲み、フタを閉め、ペットボトルをしまい、リュックを閉める。

    その一連の音と、空気の動きを察知したのだろう、扉が開いた部屋から、職員らしき年配の女性が飛び出してきた。私は落ち着いてから行きたかったのに、何茶等甘茶等研究所図書室の使い方がわからず困って落ち着かないと思われたのだろう、ていねいに、「何茶等甘茶等研究所図書室へ御用ですか。大丈夫ですよ、こちらです」と扉の空いた部屋に案内された。私は「え、あっ、はい」と流され、指示に従う。自分の挙動不審に耐えきれず、「あの、ここ、うかがうの初めてで。よくわかんなくて。すみません」と切り出した。職員さんがゆっくりにこーっと笑う。「大丈夫です。ご案内します」

    人が来るのが珍しいのか、マニュアル説明がまったく機械的じゃなく、冷たくない。「まずは学生証をお預かりします」と言われて渡した学生証を、両手の指をそろえて受け取られた。「続いて、ロッカーにお荷物を預けていただきます」と言われる。本館では荷物を預けるなんてしない。やはりここは何茶等甘茶等研究所図書室。硬いんだな、厳重だな、あーとか緊張する。OPACの画面を開いたスマホを手元に残し、荷物をロッカーに入れて鍵を閉める。グリーンのプラスチックタグがついた鍵。

    「それでは参りましょう」と言われ、私たちは部屋を出る。彼女は扉を閉めて、ジャラジャラと音の鳴る鍵束の中から鍵を選び、鍵穴に差し込んで回す。カードでピッ、タイプの出入りではないのだ。何茶等甘茶等研究所図書室の本体は5歩先にあるというのに、彼女はワンオペゆえに、また設備投資がされないゆえに、都度鍵を開け閉めしないといけない。

    何茶等甘茶等研究所図書室は3部屋あり、すべてジャラジャラ系の鍵で施錠されている。「何茶等甘茶等研究所図書室を利用されるときは、お渡しする鍵で開け閉めしていただきます」と教えてもらう。私がこれまで鍵を使ったことがないかのように、イエローのプラスチックタグのついた鍵を両手で私に握らせる。差し込んで左に回すのを見守られる。うまく、というか鍵を開けるのにうまいも下手もないのだけど、うまく開いたとき、彼女は「そうです!」と言った。何茶等甘茶等研究所図書室に来るには、多かれ少なかれ勇気が必要だ。彼女はそれを誰よりもわかっている。ここに来ることが、鍵を開けることが、どれくらい当たり前じゃないことなのか知っている、と言いたげな所作に、背筋が伸びた。

    本棚に、見事にいかつい本が並んでいた。「ほらこうやって」と、彼女は本棚の横のレバーを回してみせる。「狭い部屋なので、こうやって都度動かしてください」と言った。本棚と本棚の間に空間ができる。「退室する時は鍵を使ってくださいね」と言われながら、私は目当ての本を見つけてしまった。なので、ふたりで扉を開け、鍵を閉め、5歩歩き、受付の部屋の鍵を開け、扉を開けた。彼女は本の貸し出し手続きを始める。私はロッカーの鍵を開ける。

    「ごめんなさいね。図書室が狭いので、お荷物を預けていただいたほうが動きやすいんですよ」

    何茶等甘茶等研究所図書室という名前、人を見かけない建物、薄暗いフロア、青白い光、5歩でもかけるジャラジャラの鍵、いかつい本。この文脈で、ロッカー設置の理由が、「狭いから」だった。私はいたく感激した。何茶等甘茶等研究所図書室が何茶等甘茶等研究所図書室という名前でよかった、おかげでやさしさのコントラストが眩しい。

    手書きのレシートを挟んだ本を両手で渡され、両手で受け取った。

  • さて、この絵は何の絵でしょう。

    何を聞かれてるのか、困っちゃったかもしれないけど、これは、いろんなものの絵でありうる。たとえば―
    これは、ぼくの気持ちとしては「この部屋にはパンダがいない」という絵なのだけれど、もちろん、「この部屋には噴水がない」という絵でもありうる。もちろん、「この部屋には金塊の山がない」という絵でもありうる。そしてもちろん―
    というわけで、いろんなものの絵でありうる。

    野矢茂樹『はじめて考えるときのように』

    2004年が初版だから、もう20年以上前に出た本だ。田町駅前の、改装前の本屋で買った。タイトルに「はじめての」とか「20代の」とか書いてあると、「呼ばれてる?」とか思う、自意識過剰な大学生。そういうときはたいてい、こちらが求めている。

    余白が多く、たまに2色刷りのイラストが入る、哲学者の本だ。私はこの前に、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を読んでいた。箇条書きの薄い本なのに、そのまま読んでも意味がわからない。ウィトゲンシュタインが言葉の定義をひとつずつ重ねて書いているとおりに、こちらも知っている言葉の意味を一旦捨てて、彼の定義についていかなければならない。『論考』の訳者でもあり、『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』という手引書の著者でもあるのが、野矢先生だ。私は、ウィトゲンシュタインの言葉の2行がわかっただけでも喜んだ。2ヶ月かかってようやく読み終えたときはウメッシュを開けた。今思えば、当時はそこまでわかってなかったように思うが、私は岩波文庫の青帯のように、堂々と青かった。エクセルシオールカフェで、同級生と先輩がB’zの稲葉さんの熱狂的ファンだと聞いたとき、「私は野矢先生のファン」と返して、「誰」と言われた。『はじめて考える時のように』を読んだあと、mixiの日記にこう書いた。


    テレビドラマを見ながら母が言うこと。演技じゃなくて、ほんとに泣いてるひとっていうのはね、鼻水が出てるもんなのよ。

    かたりくちがすきだ。

    「論理と言うのは、前提と結論をつなぐ道筋の正しさにかかわっている。前提や結論がそれ自体として正しいか、まちがっているかということは、論理の持ち分じゃない」

    大学の図書館は寒い。

    「論理は考えないためにある」

    目が乾く。

    「思い込みを捨てて、与えられた情報の意味するところだけをきちんととらえていく。論理ってのはそういうもんだ」

    目をこする。

    「問題にとらえられて、「ヘレウーカ」の呼び声に耳を澄ます。そのとき、ある観察はぜんぜんきみの心に飛びこんでこないけれど、この観察は敏感になったきみの琴線に触れる。かすかな音がする。いける。いけるかもしれない。観察や論理は問題を解くときに欠かせない素材だ。だけど、それを問題に合わせて、捨てたり、選びとったりしていかなくちゃいけない。「ヘレウーカ」の声を待ちながらそんな作業を続けていく、それが「考える」ってことだ」

    鼻の奥がつんとする。

    「「考える」ってのは何したっていいんだ」

    椅子のうえで正座。

    「「非論理的な夢」って、どんな夢のことだろう。自分の家にいたはずなのにドアを開けるとジャングルだったとか、水をすくって飲んだら若返ったとか。いや、そんなのぜんぜん非論理的じゃない。単に非現実的で不自然ってだけだ。論理的な可能性なら、ぼくだって酒池肉林三昧だし、ブタだって気持ちよさそうに空を飛ぶ」

    いいぐあいの水分。目からうろこ。コンタクトとれそう。うろこんたくと。

    「ことばがなければ可能性はない」

    「つめこんで、ゆさぶって、空っぽにする」

    彼の「考える」と私の「つくる」がいっしょだった。 鼻水が止まらない。 最大級の賛辞である。


    当時の青い付箋を貼ったままの本を再読した。付箋の箇所のいくつかが特に響き、mixiに書いたようだった。今の私は「ほー」と思った。ここで?そんなに?はて? 

    再々読で簡素な部屋の絵と「パンダがいない」のあたりに戻ったときに、わけがわかって笑った。この本に書いてあることが、ほぼ、血肉になったのだ。ここに書いてあることを当たり前に頭の中に入れているせいで/おかげで、はじめてのような湿り気がなかった。私の語り口や言葉の組み立てに、先生が影響していると気づいた。先生が「ほー」と言いそうな感じなので、私も今ここに「ほー」と書いているし、先生が「どうだ」と言うから、私も夫に「どや」と言う。私の思想の家系図を作るなら、先生はだいぶ祖のほうの人だ。家系図にパンダはいない。

  • 論文が、指導教官からの高評価を受けて帰ってきた。「完了とみなすけど、もっと〜についても読んでみたかった」との付記があった。一旦、「え、いやです(ここまでで精一杯なの見てましたよね?そんな無茶振りしないでください)」と返した。が、締め切りまで時間が余っているし、最低限の目標はクリアして気が楽になったしで、「いやって言ったのやめます。やります」となった。研修生の学びは学位に接続しないので、どうしてもよりよくしなければならないという外圧はない。もうひとつ挑戦して、失敗したとして、何も失うものがない。「ない」だらけ。

    私は感性と論理の融合を目指すのが好きだ。書き上がって、疲れて、自分の限界を実感して、「これ以上無理!」という気持ちがいっぱいになっても、書いたものに思い入れがあっても、翌日、あるいは翌々日には嬉々として、それをロジカルに刺したり切ったり消したりする。感性的に膨らませ、論理的に削る。感性的に飛び、論理的に追う。論理的に積み上げ、感性的に圧縮する。

    英詩を精読してアカデミックエッセイをまともに書くのは今年度が初めてだ。大学で授業は取っていたけれど、中世英語の詩だった。精読というか解読に近く、「松田先生、よ、読みました(パタッ)」みたいなレポートを書いた。教科書も、レジュメも、レポートも、フィードバックも、全部残してある。「この視点は重要」「good」などの言葉が、当時の私よりも今の私に響く。今の指導教官に、「韻律はどこで学んだ?」と聞かれて、松田先生を思い出した。

    『カンタベリー物語』では、さまざまな身分や職業の人が、自分の知っている話を順番に語っていきますが、話のジャンルは多岐に渡っていて、なかには猥雑な話も含まれています。19世紀の読者は、猥雑な話を好まず、本から削除したりしたのですが、20世紀には、逆に猥雑な話だけが翻訳されたり、映画化されたりしました。このように近代の読者は、話に優劣をつけて分けて読む傾向があります。ところが、中世の読者は読みたい話を読みたい順番で読んでいました。近代では文学は高尚なものという見方が出てきますが、中世では読者が自分自身の基準でもっと自由に作品を楽しんでいたのです。

    作品は作者が生み出すものですが、読者はそれぞれ自分の背景を持って作品を読み直します。時代や地域を越えて多くの読者に読まれることで、読者が作品の世界を広げ、作品自体を大きく育てることがある。そうした読者と作品の関係を、これからも研究したいと考えています。

    https://www.keio.ac.jp/ja/flet/research/interview/report-matsuda/

    この言葉も、当時の私よりも今の私に響く。去年の夏の私は、基礎知識はあっても、「詩って何なのか、まだよくわからん。用語で分析したところで、だから何?って思う」という感じだった。今の指導教官のもとで、多面的・多層的な読みをするための文脈を学んだ。2025年の年末に、自分で英詩を書いてみたときに、うしろから頭をばちーんと殴られたかのように、突然、強烈に、詩が何か、詩人が何なのかを理解した。細かい分析用語は、あとから生まれて授業で体系的に教示されているだけだ。私には、詩人が詩で何をしようとしているかの身体的実感が先に必要だった。言葉で言葉以前のものを表現したい、言葉にならないものに言葉で肉薄したいという点は、私にとって、何を書こうと、何を作ろうと、つまり表面の形が何であれ引き継がれる、引き継いでしまう、根本的な設定であり、人と共鳴しうるものだ。これに気づいて、詩人との距離が縮まった。書かれた時点、あるいは発表された時点で、詩は読まれるのを待っている。「わからん」という先入観を捨てて、耳を傾けてみる。「なんか知らんけど気が合う気がする」人がいたり、「こっちの話はまあわかるが、あっちの話のテンションにはついていけねえよ」という人がいたりする。期待せずに会ってみて、気が合ったらラッキー。

    私は1年かけて、イギリスのある女性詩人の全集を読み、先行研究を読み、エッセイを書いた。20代で自ら命を絶ち、かつ偉大な文学史に現時点で載るような人ではない彼女には、「暗い詩が生きづらさや自殺願望の現れ」とか「同性の友人に宛てた愛の詩があるから同性愛者」といった短絡的なラベルが貼られている。「彼女は幸せを見つけることはなかった」と言い切る学者もいる。私はひととおり読み終わってから、「え、まともなエビデンスないじゃん」と思った。いや、あなた、勉強し始めて1年でしょ?と言われるかもしれないが、若くして亡くなったので作品が多くない。マイナーゆえに先行研究の数も知れている。学者は何かしら自分のポジションや思想があって研究するのだろうが、私は自分の都合に合わせて、学問という論理で死者や生者を雑に切り刻むことには同意しない。

    「同意できない論文に自分の論文で反論しなくていい。無視。言及しないということが立場」という教えにもとづき、学問的に何のしがらみもない場所から書く。「この詩人の先行研究の大半に同意できねえ」と思いつつ、新しい読みの論拠と文脈を少し増やした。それによりエッセイのエネルギーが少し増した。表面的にはたいへん穏やか、ルールも厳守、しかし中身でバチバチにキレてるエッセイになった。

    最近発売されたこの曲がよかった。イタリアのバンドなので、毎度最初は何を言ってるかわからんが、なんかポップな感じとMVのストーリーテリングが好きだ。翻訳で知った歌詞の意味も好き。私も彼女に、懐中電灯の光を一瞬さっと向けるくらいはできてるといいなと思う。隣に座っていっしょに音楽を聴くならどんな感じかな。いそがしいとき、どんなもの食べてたのかな。

    MVのラストシーンみたいな感じが、研修生1年目でたどり着いた空気感。松田先生の授業からここまで来れたことがありがたくて、ヘッドフォンをつけて何度も観ている。

  • きみが先生のもとに行ってから、数日が経った。元気かな。たくさん赤入れされないといいなとも、それはそれで鍛えられるなとも思うよ。とにかく今日はきみが帰ってくる日で、朝から落ち着かない。今年の成果がきみであるのか、あるいは別人になるのかはわからないけれど、きみと遠出した日のことを残しておく。

    私と夫ときみは、突然大阪に行くことにした。私たち夫婦は、いつもこうやって、ちょうどいい特別感で旅に出るんだ。観光スポットとか名物とか、そういうのはいらない。ふらっと出て、いつもと違う街の日常に浸って帰ってくる。そういうのでいいというか、そういうのがいいんだ。このところしばらくきみと過ごしてばかりだったから、きみを家に置いて行こうと思ったけれど、書きあがったはずのきみが、何かまだ言いたそうな気がして、プリントアウトしていっしょに連れて行くことにした。左上をホッチキスで止めたの、痛かった? ピアスの穴を開ける仕事の人って、いつもこんなふうに、一瞬、あっ、とか思うのかな。

    デスクトップパソコンのワードファイルに縮こまっていたきみは、新幹線のテーブルを占領してのびのびしていた。しゅっと通過して行く窓の外の景色。田植え前の、水を張った田んぼの光がきれいだったね。マンションの最上階の洗濯物が飛んだのも見た。きみのことを何度もゆっくり読んだ。言葉選び、文章の長さ、論理の構築、英語のトーンなどを細かく考えた。好きな人と過ごす時間はあっというまというのはよく聞くけど、どうなんだろう、新大阪にはすぐに着いた気がする。新大阪の駅は好きだよ。ホームから出る電車がだいたい大阪駅に停車するから迷わない。並んで待っている間、後ろにいた、にぎやかな家族の話が聞こえてきた。母親とその娘ふたり、母親の友だちの女性とその娘ひとり。かばんやスマホやネイルにはキャラクターがたくさんついている。母親のひとりが、「今日はガチだから、まじかるぷーさん」と言ったんだ。私はすごく、「まじかるぷーさん」って何だろうって思った。だって、プーさんなら千葉のはずだからね。「ねえ、ユニバ行きたい」って言う娘に、「今行ってるところじゃん」って返すお母さん。私は夫と笑いをこらえていたよ。大阪駅の花壇が元気だった。

    物理的にあまり遠くに行かなくていいというか、行きたくないのは、本が好きだからかもしれない。大きな本屋に行って、ここの品ぞろえはどんなものかしらん、どんな棚を作っているのかしらん、とか歩きまわるのは、いつだって新しい世界の探検。買った本の帯やチラシは捨てる派だけど、新しい世界を知りたいときの、「ここはこんな感じですよ」と声をかけてくれる帯は頼もしい。本屋に入る前はちっとも買う気がなかったのに、よりによって重たい本に惹かれてしまって買った。きみは小声で言ったんだろうね、ねえまだ論文終わってないじゃんって。そういうことじゃないんだ。頭の中の、言葉になる前の段階でたゆたっているものが、外的な触媒を得て現れた、ということが大切なんだ。また奥のほうに戻って見えなくなる前に、物理的に残しておくんだ。粉が水分を含んでダマになると、ふるいにかけても下に落ちないでしょう。そういうことだよ。

    昼は寿司屋に行った。なんてことない、チェーン店。でもすごくおいしいんだ。わざわざ観光で行く店じゃないだろうから、たぶん混んでないだろうって、いつでも自信をもって言えるよ。私たちはそういう安心感が好き。いつもはなんばの店でテイクアウトして、帰りの近鉄線の中で食べるんだけど、今回は店に行ってみようってなった。地下街のホワイティというところにあるんだけど、だいぶ困った。歩いても歩いても辿り着かないんだ。見ると、ホワイティの中にFARURUという看板があって、そのFARURUの中にもお店が入ってる。入れ子構造が過ぎるよ。ようやくたどり着いた寿司屋には、やっぱりすぐに入れた。

    私と夫は製造業の会社の同期だから、製品がどのように作られるかとか、どういうパーツかとか、収益構造とかがとっても気になる。回転寿司の店は、テイクアウトの店と形態が違った。全然違った。手元のタブレットに出てくるメニューは一般的だよ。旬やネタでカテゴリー分けされていて、さび抜きかどうかを選べる。つぶ貝と鉄火巻をとりあえず頼んで、お茶を淹れて、寿司の回転を眺める。そして気づくんだ、回転しているのはタブレットに出てこないメニューばかりだって。サーモン、えび、いか、玉子、といった低価格帯のネタに、ネギ塩、ネギマヨ、明太マヨ、生姜ネギ、チーズ、しそ、蒸し焼き、とびっこのせ、レモンおろし、ゆず、ゆず胡椒が組み合わさっていた。お客さんがどんどん手に取っていくし、店員さんもどんどん製造していく。私たちはそのクリエイティビティと戦略にいたく感激した。しらふなのに愉快だった。100円のするめいかが、ゆずするめいかになると190円になるんだ。ふつうのいか190円は、ゆず胡椒いか270円になる。私たちは店を入ってすぐの、右端のカウンターに座っていた。そこからだと、左手側の少し先に、回転道路の曲がり角が見える。たとえば「ネギマヨえび」というネームプレートが載った皿のあとに、ネギマヨえびの団員が続くわけだけれど、そのゆっくりとした登場が、スポーツ大会の入場行進みたいでかっこよかったんだ。

    チーズケーキと飲みものを買って、ホテルにチェックインした。ケーキの箱を広げて、お皿代わりにした。ケーキ屋でスプーンをもらっていてよかった。寝るためだけのお安めホテル、期待してはいけない。夫はね、こういうケーキを3口で食べるんだよ。ひどいときはふたくちだよ。ムードもへったくれもありゃしない。昼寝しちゃうかもねと話していたら、ふたりとも昼寝した。旅先なのにね。自由でいいよね。

    夕方、アラームで目が覚めて、支度して、ミニシアターに行った。「ライスボーイ」っていう映画。どうしても夫と見たかったんだ。小さな映画館の狭い待ち合いスペースに、人が並んでいた。思いのほか混んでるんだなと思っていたら、ドアが開き、拍手が起こり、並んでいた人たちが入っていった。別の映画の舞台挨拶だった。舞台挨拶の人たちってこんなふうに並んで待機するんだ!と新鮮だった。ソファで座って開場時間を待つ。「お水飲む?」と聞かれて、「うん」と言って、アルプスの天然水を飲み、異世界ホラーのポスターを眺めたりした。そのときは、予想もしてなかった。きみが映画に出てるなんて。びっくりしたよ。きみはいくつかのイメージからできてる。松の木、夕暮れ、野原。光、闇、生、死、若さ、老い。すべてが、映画の重要なイメージとして出てきた。気づいたのは中盤あたり、松の木の話からだよ。あれ?と思った。そこから少しずつ、きみと、目の前の映画がリンクしていく。あるいはきみが目の前に現れてくるのを見る。初めての感覚だった。私がきみを書いたから、こじつけで見ているだけと言われればそこまでなんだけど、活字にしたときに手を離れ始めて何かと有機的に結びついて独立するような感じが、そのときもあったんだ。松の木は英語で “pine tree” だよね。木は光を求めて上に伸びる。森で木が成長して密集するほど、下の方には闇ができる。私はあの詩の名詞の “pine” には、動詞の「切望する」ってイメージも重なるって思ってる。あの詩の松の木、この映画の松の木、そしてきみは、何を切望しているんだろう。

    ミニシアターで映画を観終わって、20時くらい、夜の街。薄手の長袖がちょうどいい。なんか無敵って感じがする。夫は、映画がさっぱりわかんなかったって。その自分のわからなさと、私が(自分なりに)わけがわかって「うおー!」と興奮するギャップをたいそうおもしろがるんだ。彼の好みじゃないかもなーと予感しつつ彼を連れていく私も、自分の好みじゃないかもなーと予感しつつ私に着いてくる夫も、奇妙だよね。私はきみが映画にいた話をがんばって彼にしたんだけど、えっ・・・( ゚д゚)ぽかーん って感じだったよ。日曜の夜だからか、出歩いている人は少なかった。手をつないだり、離したり、横断歩道をダッシュしたりして、けらけら過ごした。夕飯はバーで日本酒とおでん。メニューに、「おでん屋ならでは」という謳い文句の、大根天ぷらとポテトサラダがあった。たぶん、2日目以降のおでんの大根と玉子とじゃがいもでできてる。こういう部品の共通化はほんとうに美しいよねと、夫と盛り上がった。いっしょにいると、何でも酒のつまみになるんだよ。

    翌朝、先に起きた夫が放送大学の番組を見ていた。余因子行列。掃き出し行列。ベッドの端に座り、「えー。ふしぎー」とか言いながら見入っている。チャンネルを変えた教育テレビでも算数のことをやってた。7と5と0を書くと、750になるよ!みたいな。それを聞いた夫が、「いま、じゅうようなことをいわなかった。ぜろをつけるということのいみだよ。ないということを、ないというきごうでしめさなければ、ないということがなくなる。ぜろがなければ、75になる」。あとでよく考えようと思って、言葉をそのままLINEのメモに残した。

    夫の趣味に付き合って、ヨドバシカメラのコンピューターのパーツ売場に行った。私にはまじですべてが同じに見えるんだけど、ぜんぶ違うんだって。グリスを選ぶときに、選び方を説明してくれたんだ。私は自分で買うことは永遠にない気がするけど、丁寧に説明してもらったので、いざとなったら自分で買えると思う。グリス1gの差、ファンの大きさ、汎用性、そういう細かーいことを確認してこだわって選ぶのは、私がきみのパラグラフの動詞や名詞をどの言葉にしようかなと、うきうき悩んでたのと似てるんだよ。そういえば、パソコンのパーツの値札が、賞味期限みたいになっててよかった。円マーク取ったら、たしかに10万単位まで同じシール使えるもんね。

    家に帰ると、きみの様子が変わっていた。論理の飛躍を見つけた。その部分を書き直して、関連する別のところも書き換えた。1文削った。それからしばらく休んでもらって、着替えさせて、きみを見送った。

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