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  • おたより帳

    栄の本屋を出たら、階段で女性がうずくまっていた。思わず声をかけると、「ちょっと歩きすぎちゃったみたいで。くらくらして。大丈夫です」と言われた。こういうときに限って、コンビニやドラッグストアが近くにない。茶葉もビールも違う。何かあるだろうと入った韓国雑貨店の奥で、飲んだことのないペットボトルのサイダーを買い、さっきの女性のところに戻って渡す。こんなに人が行き交う場所なのに、誰も彼女に気をとめないのが不思議だった。だけど、たとえばその人たちも、「あと少し」と思いながら涼しいところに向かっているのかもしれない。何事もなさそうに体が動いているから、他者から気をとめられないだけなのかもしれない。

    ということが、先月は2回あった。2回目は自販機まで走ってポカリを買った。私は夏が嫌いなので、外出の予定は極力抑える。抑えているのに、そのわずかな数の外出日に、体調不良の人に会ってしまい、これは外出すると事件を見つけてしまうコナンくんなのではと思った。が、『ひらやすみ』のドラマで、心身の限界が来ているヒデキに、ヒロトが「俺はいつでも暇だかんな」と肉まんをひょいっと渡すシーンを思い出し、私もヒロトのようにあろうと決めている。

    イギリスの文芸誌 Granta のニュースレターで、Summer Reads 2026という記事が届いた。寄稿者や編集者が、この夏、本とどんなふうに過ごしているか。輪郭を奪う暑さの中、溶けそうなときに人が求めるのは、涼しさではなく構造なのかもしれない。

    AEA VARFIS-VAN WARMELO
    I’m looking for structure and accountability this summer so I have founded and will be running a two-person book club where we will read one book and one book only: Grapes of Wrath. I’m not sure why I want to read this so badly that I’m willing to let admin (the enemy of pleasure) get involved, but it’s possible that London’s rolling heatwaves have made me feel some kinship with the Dust Bowl, or perhaps they’ve laid the ground for the broad and biblical moral theatre Steinbeck excels at.

    この夏は構造と責任が欲しいので、ふたりだけの読書会を立ち上げて運営することにした。読むのは1冊、『怒りの葡萄』だけ。どうしてこの本をこんなに読みたくて、事務仕事(楽しいことの敵)までやろうとしている気になっているのかはわからない。ロンドンの繰り返す熱波のせいで、ダストボウル(『怒りの葡萄』に出てくる大規模な砂嵐)に親近感を覚えているのかもしれないし、その熱波が、スタインベックが得意な壮大で聖書的な道徳劇の下地を作ってしまったのかもしれない。

    https://granta.com/summer-reads-2026/

    本屋で買ったのは『哲学史入門』シリーズの4冊だった。分析哲学のあたりで、そういえばラッセルとかの原典を読書会で読んでいる先輩たちがいたなあと思い出す。構造を求める友人がいるっていいな。主催は、難しい英語を読むのが趣味の人だった。ある日、突然倒れた。数年分の記憶を失くした。それでも言語能力は残り、活躍なさっている。彼がどこかで、「昨日の自分と今日の自分がなぜ同じと言えるのか」と話していたことをよく覚えている。

    私は過去と現在の連続性の感覚が、おそらく他者と比べてとても薄い。記憶を失くすのではないのだけど、何か自分に蓄積していく感覚みたいなものがない。蓄積していってはいるだろうに、その自覚がないというか。細切れの瞬間瞬間を生きているようで、いろいろなことをすぐに忘れる。

    私の時間は蓄積しない。時間が蓄積する結果できあがる自己認識や自信が私にはない。自分になりそうなものをかき集めても、少しの振動で吹き飛ぶ。点と点をつなぐと線になり、それが通常らしいが、私は今ここの点だけだ。医者は「点として輝け」と言う。私は便宜上「私」と言っているが、「なんだ私って」といつも思っている。

    2023-12-02 飛散する私への言葉

    自分の認知パターンをたくさん分析して、対策を試行錯誤した。だから「見える化」と「見えない化」が得意だ。見えると忘れない、見えると忘れられない、見えないと忘れる、見えないと忘れられる。やりたいことや予定やメモはすべてノートに書き出し、閉じずに、机に広げておく。朝起きて、それを読み、続きを書いていく。私がアプリなどを極力使わないのは、その会社がつぶれた時に困るというリスク回避もあるけれども、パソコンやスマホを閉じると、充電が切れると、電波が途切れると、見えていてほしいものが見えなくなるから。目の前に何もないと、「ただ見えないだけ」なのに、ぼーっとして、やることがわからず、ノートを開けばいいということもわからず、「自分は何もできてない」と思って落ち込み始める。

    言われたことは目に見えずに透明だから、覚えておきたいことは書いておく。放置すれば忘れられる。たとえば誕生日の数字とか、テレビの野球中継とかのイメージに嫌な記憶がついている場合は、時が経っても突然再起動しやすい。そういうのはできるだけ見えなくする。時計はデジタルではなくアナログ、テレビは買わない、みたいに。

    小川洋子の小説を読んだ。語り手が「わたし」と書いていた。私は「私」がいい。ひらがなは飛散してしまいそうで、私に合わない。三文字もいらない、一文字でいい。漢字の重さが欲しい。

    最近、ハビットトラッカーの代わりに、「おたより帳」を始めた。過去の自分から、現在の自分に引き継ぐイメージ。1日1ページ、何を勉強したか、ポモドーロを何回まわしたか、どれくらい運動したかを書く。増えていく、書き終わったページの厚みが、自分の蓄積の見える化になる。ハビットトラッカーの、余裕のないみちみちした鎖で自分を縛っていたところから、少し風通しをよくした。年々暑くなっていく世界で、ずっと冷たいままの私に、ひょいっと差し入れするような感じ。コンビニの肉まんのように、すぐに冷めてしまうけど、ある瞬間には確実に温かいような、やわらかい動き。

  • 大学生の時、池内紀『ゲーテさんこんばんは』を読んだ。ゲーテの名前や著作から、いかめしい人だと思っていたので、「なじみの店でお酒飲んでそうなおじさん」みたいなゲーテの人物史とその書き方に、おおなるほどと思ったのだった。以来、なんかいかめしいなと思う作家や哲学者には「さんづけ」をする。ウィトゲンシュタインさんはすごく偏屈で、でもなんか必死で生きてたんだなと思った。ショーペンハウアーさんは、「天才以外死ねばいい」みたいな感じだが、同時代に人気の学者に嫉妬していた一面も知ると、人間味のあるぶっとんだおじさんになる。

    研修生継続が承認されれば、秋から批評理論と文学を学ぶことになる。制度上は学部研修生なんだけど、大学院生扱いされている。自走できる、モチベーションが下がらない、自分のテーマをもってる、書き続けていて読者がいる、という意味で、大学院で教わるべきことは身についているらしい。先生との関係づくりのために1年目は彼の授業を取ったけれど、それはイレギュラーで、基本は年4~6回の個別チュートリアルをもとに自走して論文を書く。

    批評理論といって出てくる人は何人もいるが、聞いただけでは、まあいかめしい。「さんづけ」をするために、大学生のときにウィトゲンシュタインとサルトルだけ学んでいたところから、哲学史への接続を作ろうと思った。誰が誰に影響されたか、なぜそういうことを考える必要があったのかを押さえれば、近づきやすいだろう。

    何事も師との出会いが大切だ。いかめしいそうなものをいかめしく語っている人に教わって、いかめしいなと思うのは当たり前である。いかめしさに何度もくじけ、ビビりまくっている初学者に、自分で噛み砕き、自分の言葉で伝えようとする学者が好きだ。私は山内志朗先生の本を昔読んでいて、その「穏やかな語り口なのに、たまに小さな爆弾仕込んでる」みたいなやさしさと反骨精神みたいなものが好きだった。NHK出版の『哲学史入門』シリーズの著者のひとりだったので、たぶんこの本は大丈夫そうだと手に取った。昔読んだ、「言っていることは正しいのかもしれないが、暴言が多くて、ゼミの先生だとしたらとても苦痛」という学者が入ってなかったのも大きい。他者をばかにするなら、ショーペンハウアーさんくらい突き抜けていてほしい。

    千葉雅也先生が、こう言っていた。

    現代の感覚をあてはめて理解しようとしてはダメなんです。ものすごく異質な思考が昔の世界にはある。過去の世界には、私たちとは大きく異なる独特の思考スタイルが存在していたと考えるべきです。「昔はこういうことがありました」という暗記ものではなく、自分自身の脳や体の感覚までもが巻き込まれていくような冒険であり、ジャングルの中でしばらく生活するみたいなものとして古代や中世に潜っていく。

    『哲学史入門 ①』 p.29

    この感じ。今、現代で自分がもっている言葉の定義や思考や感覚で読んではいけない。アリストテレスさんも、カントさんも、ヘーゲルさんも、それぞれの時代に、それぞれの言葉で、知性をフル活用して書いたのだから、とっつきにくくてわからんと思ってしまうのは当たり前なのだ。指導教官が、「close readingは、文章のダイナミズムに身を任せることだよ」と言っていたように、わからん思考のダイナミズムに身を任せると決め、言葉をひとつずつ確認し、ついていく。

    その訓練をある程度していたからか、『哲学史入門』はおもしろかった。ハイデガーさん、絶対難しいんだろうなあ~と思っていたら、フッサールさんの経由で近づくと、なんか感覚がつかめたような気がする。

    この文は真です、偽です、みたいな文章を読んでいたら、嘘について何か読みたくなり、『嘘解きレトリック』というマンガを再読し始めた。人の嘘が、鈍い金属音のように聞こえる少女が主人公の話。自分の能力が、気持ち悪がられる、人の迷惑になるとしか思ってなかった彼女が、村を出て、理解のある人たちに出会って変わっていく。嘘って、ああ、こういう面もあるのね、なるほどねーとか思っていると、案外哲学者も、日常生活で「〇〇って、××かも」と直感的に思いつき、それを証明せねばならず、証明するには言葉や数学などを使うしかなく、なんかゴリゴリ硬くならざるを得なかったのもしれないと思ったりした。それは自分の考えを証明したい、誇示したい動機のものもあったかもしれないし、単にライバルを打ち負かしたいとか、学問や世界に少しでも貢献したいとかだったかもしれない。

    『あたらしいともだち』という、『ひらやすみ』の作家さんが帯を書いているマンガの短編集の中に、あるマンガが好きな少女のこんなセリフがあった。

    このマンガがはじめから特別だったんじゃなくて 
    私がまりちゃんと出会った日に 
    偶然同じ光に照らされてそこにあっただけで 
    私たちが特別な友達になるのと一緒に 
    このマンガも少しずつ特別になっていった 
    まりちゃんの顔も声だって 
    はじめは全然とくべつじゃなかった 


    そうか 
    そうだとしたら 
    見慣れないこの街にも 
    いつか自分にとって大切になりうるものは 
    今日の日差しの中に 
    充満しているのかもしれない

    今年度最後のチュートリアルで、指導教官に「来年度学ぶ批評理論を自分で選びなさい、例えば『脱構築』、『マルクス主義』、『フェミニズム』、『クィア』などの中から」と言われた。何にしようかな、ぜんぶ難しそうじゃん、と思いつつ、軽く調べ、たぶん脱構築理論を先に学ぶと、その子供や孫としての他の理論を学べそうな気がした。論理的、実利的な理由。そのあと、デリダの概要を探ってみると、あれ、私この人の言葉を知らないだけで、ふだん、わりに脱構築的にものを見ている気がするぞ、私は彼のように二項対立を壊して終わりじゃなくて、そのあとに何かしら修復をするような志向性があるように思うけど。そんなことを思っていたら、デリダがカミュを読み込んでいたと出てきた。出てきちゃった。デリダさん!私もカミュ、よく読むの!となり、頭と心の意見が一致し、デリダにすることにした。指導教官は最初の選択こそ「自分で選べ」と言ったけど、私がデリダにしますと言ったら、「じゃあ他のも学ぼう」と、前日に私に例示した理論と、プラス、ポストコロニアリズムの計画を渡してくれた。結局ぜんぶやるんじゃん、なんだけど、「デリダさん!!」と偶然思えて、そこから始められるのはなんかいい。きっと難しいんだろうな。でも、いつか、私にとって大切なもののひとつになってるといい。

  • 今週は書くことがない。

    金曜日、膀胱炎の兆候があったけれど、現実にならないように、ならないようにと、祈っていた。

    土曜日、夫と、「セールスマンの死」愛知公演を観に行った。タイトルそのままに、セールスマンが死ぬ話だ。舞台の前にはいつも、原作のあらすじなどを説明しておくけれど、今回は不要だった。

    かつて敏腕セールスマンだった男。年老いて、会社からは煙たがられている。地方営業で疲れ果てた彼を支える妻。自立してない息子ふたり。マイカー、マイホーム。彼の死に向かって進む物語は、明るいかつての回想を経て、どんどん壊れて荒れていく。

    観劇というのは、お金のかかる趣味だ。1人1万円以上かかる。愛知は往々にして飛ばされる。どうしても観たい作品が、東京だけ、あるいはかろうじて大阪にも、というのはよくある。しかし、毎年何本も観るのはかなわないので、愛知飛ばしは歓迎だ。厳選された作品がたまに来てくれるくらいがちょうどいい。

    「セールスマンの死」はクラシックな戯曲だ。今年はちょうど同じ作者、アーサー・ミラーの「みんな我が子」を観ることになっていたので、ミラーの年にしようと飛びついた。生きているうちに、別の演出やキャストで、再度味わうことができるように。そういう作品がいくつか、夫との記憶にあるのはいいでしょう。タイトルだけで、チケットの先行予約に飛びついた。前から6列目という、なかなかいい席を取れて喜んでいたけれど、劇場に行ってみたら満席じゃなくて、まあそうだよねと思った。昼公演の1階席が埋まってない。フロントの両端の席も空いている。システム側の、チケットの販売設定、埋め方が気になる。5列目のいちばん端と、6列目の真ん中寄りなら、後者に座らせてくれるであろうシステム。

    今回のキャストは渋い。ポスターも渋い。なので観客も渋いのかと思いきや、大半は、おめかしした明るい女性たちだった。ぬいぐるみをもってポスターと記念写真を撮っている。お手洗いで様子をうかがっていると、どうも息子役のキャストが、「俳優業に専念するために某大手事務所のアイドルグループを卒業した人」で、かつ「結婚発表直後」だったらしく、推しに会いたい、応援したい、変わらず応援し続けていることを伝えたい、席を埋めたい、というような話が、列に並んでいるとき、手を洗っているとき、メイクをなおしているときに聞こえてきた。「どうしよ、私、これからも好きでいれるかな」と、お祝いしたい気持ちと受け入れがたい気持ちを出し入れしながら小さなパニックを起こしている人もいた。主人公の老人が死ぬか否か(いや、死ぬんだが)、そんなことは関係なく、推しへの気持ちを絶やすべきなのか否かを、ここで、こんなぎりぎりに葛藤するのかと思った。好きな人を応援するプロフェッショナル。

    この作品は、基本的に不穏で、けんかしている。冷静に考えて、1万円払って、3時間、親子げんかをみんなで観ているのは不思議だ。早起きゆえに朝食を抜き、電車に酔ったゆえに早めの昼食も抜いた夫は、横でお腹を密かにぐーぐー鳴らしている。役者が、ホールに声を響かせる。小さな言いよどみがあり、役者同士が内心(おっとっと)と言うかのように目配せし合い、台詞を微調整して軌道に戻す。数メートルしか離れていない場所で、芝居を仕事にしている人の仕事っぷりを生で見る。オフィスで、同僚の仕事を3時間見つめ続けることなんて許されないので、やはり不思議な感じだ。

    セールスマンが抱えるトランクの中身は明かされない。自分を売って、買ってもらわなければならない。気に入ってもらえるよう、注目してもらえるよう、立派だと思ってもらえるよう、尊敬してもらえるよう、夢を掲げ、大口をたたき、見栄を張り、嘘をつく。ほころびをごまかし、隠し、知らないふりをする。

    私は、ダブリングという、ひとりの役者が数役かけ持つ演出が好きだ。たとえば「ハムレット」で、国王の亡霊だった人が、しばらくして、町に訪れた旅劇団の役者になり、そのあと墓掘りになる。綺麗な衣装から始まって、少しずつ汚れていく。舞台裏でのメイクなおしとは逆の、汚していく方向。「セールスマンの死」では、セールスマンの雇い主である社長役の人が、のちのシーンで、レストランのウェイターとして現れた。こういう、階級間の颯爽とした移動が、本当に好きだ。今回はカーテンコールまで気づかなかった。スタンディングオベーションの中、私はミラーとダブリングの役者メインで拍手をしていた。

    東海市芸術劇場は、名古屋駅から特急で1本の、太田川駅に隣接している。3階建てで、乗車位置がちょっとわかりにくい。ひつまぶしと味噌かつを食べようと話していた人たちが、2階のホームで立ち止まった。3階から階段を下りてきた駅員さんに、「名古屋駅への特急はどこかしら」と聞いた。駅員さんは、時計を見ず、迷いなく、さっと、「3階です。あと30秒で出ます」と言った。まじか、あと30秒、と、彼らといっしょに急ぐ。階段を駆け上がりつつ、秒数を測っていた。30秒くらいだった。それを即答できた駅員さんがかっこいい。

    電車の中で、ねえ、きみはどうなの、と聞く。夫が「ん?」と言う。嘘をつくような仕事をしているんじゃあないだろうねえ。実はやましいことがあって隠し続けているんじゃあないだろうねえ。きみは中身のある仕事をしているのかね。夫は、笑わないように、でも閉じた唇の端をぴくぴくさせながら、「どうかなあ」と斜め上を見上げる。私が「嘘はよくないよ」と言ったら、私を見つめ、「そうだ、嘘はよくない」とキリッと言った。彼が舞台についていけて、かつ堂々と感想を言えるのは珍しいことなので、「うん、嘘はよくない」と返した。私は夫のモナカアイスを食べたとき、「食べてない」と言う。

    膀胱炎は、徒競走のピストルのように、ある瞬間を迎えたら最後、できるだけ速く病院に行かなければならない。病院の処方薬でしか治らない。処方薬さえあれば、体内の菌が死滅するのを待つだけで、気が楽になる。一度なってしまうと繰り返す病気だ。免疫が下がるとかかりやすい。金曜日の夜に初期症状を覚えるというのは、たいへんよくない。考えたくないワーストケース。ひと晩越えて、土曜の午前中を逃せば、しばらく病院が開いてない。でもいざというその瞬間直前まで、自分では本当に膀胱炎なのか判断できない。市販の漢方は、治癒はできなくても、その瞬間が訪れるのを先延ばしにしてくれる感じがする。土曜日、クリア。日曜日、日中クリア。夜、あやしい。23時に寝て、月曜日の4時に異変で起きた。来た。急がなきゃ。だいじょうぶだ、落ち着け、まだいける、病院に9時、出発は7時30分、あと3時間ちょい。いける、大丈夫。

    寝るに寝れないので、水をがぶがぶ飲み、YouTubeプレミアムの学割に申し込むことにした。学生証の写真を撮り、認証システムに送る。はじかれる。送る。はじかれる。在学証明書の写真を撮って送る。はじかれる。上限に達したので送れなくなった。仕方ないのでコンタクトフォームから問い合わせる。I attached my student ID as instructed. It is valid until September 15, 2026, so it is still active today, July 26, 2026. Could you please review it again? 自動返信で、「数日待って」と言われる。が、3分で担当者のSさんから連絡が来た。私の名前のアルファベット表記が間違っていたので、手打ちしてくれたんだなあと思う。「これからドキュメンテーションをチェックする作業に入ります」と書いてある。お待たせして申し訳ありませんではなくて、 “Thank you for your patience.” (あなたの忍耐強さに感謝します)という言い回しが英語の定型句。そうなの、私は今、とても忍耐強いの。10分後、Kさんから承認のメールが届く。 “Please don’t hesitate to reply to this message if you have any further questions regarding your student verification. We are here to help.” 「私は助けるためにここにいる」と言える仕事ってかっこいいな。ありがとう。広告なしでスムーズになったYouTubeを観る。ウェザーニュースのキャスターと視聴者。「ちなみに沖縄は何番ですか」と問いかけ、視聴者の言葉をアドリブでキャッチする、崩れるようで崩れない言葉。平和。

    夫が起きてきて、私は出発しようとする。こういうとき、ただただ私を心配してくれるのがデフォルトの人は、「大丈夫?」とか「心配」とかわざわざ言わない。彼は「紅茶を買って来て」と言いながら、紅茶代以上のお金をもたせてくれる。いざという瞬間の接近に怯える私の意識を、病院後のランチに向けさせる。

    バスに乗り、アプリで婦人科の予約をする。9時台が空いてなくて、9時30分台にした。8時45分に到着したら、受付が始まっていて、「おつらいでしょうから」と開診時間を早めてくれた。なじみの先生は、年上なのに、マインドセットがギャルなのがすごくいい。薬を飲めば楽になる。だけど診察が早く終わっても最寄りの薬局が開いてない。それを知っていて、雑談してくれる。「見て。この前買ったの、これ」と見せられた、シャネルのココクラッシュ、ゴールド、たぶんミディアム。爪はネイルなし、短く切りそろえられている。

    薬局で薬を飲んだ。終わったのでエビを買って帰ります、と夫にLINEした。エビのトマトクリームパスタを作って食べるぞ!と意気込む。「えあこんのたいまー、14時くらいにしてあるので早く帰るならタイマー解除してね」と返信が届く。帰ったら、ほんとうにエアコンのタイマーが設定してあって、私は彼の妻にふさわしいんだろうかと思いながら写真を撮った。そして、これを書き始めた。

  • スタートレックおたくの夫と、その熱量に引き気味の妻。長年の壁を越える、愛と勇気と成長の記録。2018年の文章を一度英語にして、日本語で改稿。言語の行き来で気づいたこと、やめたこと、できるようになったことが詰まっています。

    公開日:2018年9月20日
    英訳日:2026年5月9日
    日本語版改訂日:2026年7月20日


    夫はとてもスタートレックが好きだ。中でも「新スタートレック」というシリーズのキャラクター、ピカード艦長が大好きだ。ピカード艦長がアールグレイティーを飲むので、彼も毎日アールグレイティーを飲む。ちょっとした会話の中で、格言めいたものが必要な場合、スタートレックの台詞を引用する。私は「よく覚えてるなあ」と思いながら、話題を変えようとする。スタートレックがこの世に存在するのがうれしいのか、台詞を言えて悦に入っているのか何なのか、話を変えられても楽しそうなままである。

    私は食わず嫌いだ。SFって難しそうなのだ。宇宙に技術にエイリアン。それに長そうだ。彼の部屋の棚の上、ドラマのBlu-rayボックスを見るたびに、そんなに観れないよと目をそらす。会ったこともない艦長からのプレッシャーに疲れていた。義理の祖父なの?なんで宇宙じゃなくてうちに居座ってんの?

    ある日、「500ページの夢の束」という映画が公開されるのを知った。スタートレック好きの女の子の話。予告を観て、いいタイミングだと思った。いっしょに観に行くのを目標にして、スタートレックの勉強をしよう。親しみをもってみよう。スタートレック好きの夫に近づいてみよう。自分のために、「スタートレック 上陸ミッション」を組んだ。まずは刺繍から始めて、残りのことは進めながら考えた。

    スタートレック 上陸ミッションログ
    1 刺繍する
    2 映像を観る①
    3 本を読む
    4 バルカンあいさつを練習する
    5 iPhoneを活用する
    6 クリンゴン語を学ぶ
    7 映像を観る②
    8 「500ページの夢の束」を観る

    1 刺繍する
    夫の誕生日が近づいていた。スタートレックのグッズを買いたかったけれど、私の気に入るものが見つからなかった。私にとって針は、自分で何かを作るしかない時のための、デザインソフトやカメラ、ペン、ノートと同じレベルの道具のひとつ。手作りとは、明確な目的を持ったガチプロジェクト。やるからには、全力でやる。

    ■クロスステッチ
    イタリアのCloudsfactoryから、スタートレックのクッションカバーの図案を買った。昔は、刺繍でアルファベットを覚えた時代があったらしい。現代は刺繍がスタートレックを教えてくれる。同じ作業を繰り返すのは楽しいし、少しずつふっくらとしていく刺繍を撫でるのが好き。各モチーフの意味はわからないのに、50cm×50cmの大物、何日も刺していると、次第に愛着が出てくる。アメリカのドラマ、イタリアの図案を日本で刺しながら、多くの人に愛されている作品なんだなあと思いを馳せていた(そしてよく刺し間違えた)。

    ■トートバッグ
    ちょうど、キャンバス製のバッグが欲しいと言われていた。会社の拠点間、PCを入れて持ち歩く用。市販のは生地が薄いとか、値段が高いとかで渋っていた。中にポケットが欲しいとも。そこで、ピカード艦長の決め台詞をスタートレックのフォントで刺繍したトートバッグをつくることにした。 “MAKE IT SO!” は、「発進」とか「そうしてくれ」など、ピカード艦長が策を進める時に使う。11号の黒いキャンバス地に製図。スタートレックフォントを印刷、トレースして、白のサテンステッチで塗りつぶした。 エンドロールでよく流れるらしい名言も、内ポケットに刺繍した。

    Space: the final frontier. These are the voyages of the starship Enterprise. Its continuing mission: to explore strange new worlds, to seek out new life and new civilizations, to boldly go where no one has gone before.
    (宇宙、そこは最後のフロンティア。これはUSSエンタープライズが、任務を続行して、新世界を探索し、新しい生命と文明を求めて、人類未踏の地に航海した物語である)

    ピカード艦長のクルーの一員として、新しい技術開発に挑むエンジニアのためのバッグ。クッション同様、制作時点でピカード艦長がどんな人だか知らなかったけれど、気分は宇宙艦隊、心の中では、私はピカード艦長と彼のエンジニアを見守る宇宙艦隊の小道具係だった。

    2 映像を観る①
    いいぐあいに親しみを感じてから、いよいよ作品を観る。数シーズンのドラマが、数シリーズある。映画は数本だけど、全部観るには長すぎる。そこで、夫に「厳選ウォッチングリスト」を依頼した。リクエストと返信は次のとおり:

    リクエスト
    ・初心者でもついていける
    ・主要キャラクターとおぼしきカーク船長とスポックの関係を知ることができる
    ・夫が好きなピカード艦長のことを知ることができる
    ・スタートレックの世界観や思想のポイントをおさえられる

    厳選ウォッチングリスト
    ・スタートレック:ディスカバリー
    ・スタートレックII カーンの逆襲
    ・スタートレックIII ミスター・スポックを探せ!
    ・スタートレックIV 故郷への長い道
    ・スタートレックVI 未知の世界
    ・ジェネレーションズ
    ・ファーストコンタクト

    リストをもらってもなお、「本当におもしろいのか……?」と訝しんでいた人の感想:

    ・スタートレック:ディスカバリー
     3話分を一気に観てから夫の部屋に行き、「たいへん申し訳ございませんでした」と謝った。彼がふふんとドヤ顔で偉そうにふるまうのを許した。「なにこれ、こんなにおもしろいなら早く観ればよかった」という感じ。スタートレックデビューに最適。脚本すげええ。映像かっこいい。エイリアン=没個性的な着ぐるみと思いきや、俳優の目や体を活かしたデザインが施されていた。地球人も、エイリアンも、個性や感情を表現する時間が充てられている。技術用語も、「仕組みはよくわからんけど、なんか動力なんだろうな」くらいにとらえておけば気が重くない。夫が技術の話をし始めて、私が「へー」と受け流すのは、よくある夕食の風景だ。技術そのものではなく、困難を乗り越えられてうれしかったとか興奮したとかの、彼の気持ちのほうを追うようにしている。それと同じで、クルーが難しい言葉で延々と話していても、「ん-。要するに出発ね」ととらえ、ハラハラし始めるクルーの気持ちに共感できれば、話は十分追えるのだ。長年の訓練の成果がここで発揮されるなんて。

    映画は、そもそもドラマを観てない人も楽しめるようにつくられている。

    ・スタートレックII カーンの逆襲
     カーク船長とスポックの関係を知るには見逃せない作品。作品が作られたのは、カーン1982年、ディスカバリー2017年なのだけど、時代設定的にはディスカバリー2256年、カーン2285年と、ディスカバリーのほうが先。ディスカバリーの次にカーンを観ると、技術的なギャップを楽しめる。宇宙船や各種技術が、30年で超劣化している。ドラマ「SPEC」を観たあとに、「水戸黄門」を観て、30年しか経ってないんですよと言われる感覚。

    ・スタートレックVI 未知の世界
     映画でいちばん好き。侵略ではなく探索、戦いではなく和平交渉、という宇宙艦隊の思想をよく学ぶことができる。敵対し合っていた者たちの和平条約が、キトマー条約。荒々しいだけの印象だったクリンゴン人の見方が変わる。最後の、 “no man” を “no one” に言い換えるところが、ほんとうに好き。前者だと人間しか表さないけれど、後者だと異星人やアンドロイドが含められる。ジェンダーインクルーシブ、人種インクルーシブ、種族インクルーシブ。終わりのナレーションで言い換えられたその一言に私が泣き始めた時、夫は驚いた顔をした。私が理由を説明すると、彼は目を丸くした。この映画を何度も観ていたくせに、その言い換えに全く気づいていなかった。え、待って。文学好きの初心者が、ベテランのおたくエンジニアに教えられることがあるってこと?

    ・ファーストコンタクト
     人類が初めてワープを成功させた日と、一筋縄ではいかない異星人ボーグとの戦い。ボーグはあらゆるものを取り込んで同化させる、機械の生命体。怖いけど美しくて見とれた。

    3 本を読む
    100円で入手。キャラクターのおさらい。各民族の特徴、マーク、関係性の学習。映画で観た知識の定着をはかりながら、新しい「へー」を吸収。観てないシリーズのほうが多いものの、映画で足場を固めたことで困惑しなくなった。多くのキャラクターの中でも、初代のスールー、スコッティ、第2シリーズのデータ、ディスカバリーのバーナム、サルー、スタメッツが特に好きだと感じた。ついに推しメンができたのである。

    4 バルカンあいさつを練習する
    スポックをはじめ、バルカン人はあいさつの時、バルカン式あいさつをおこなう。中指と薬指のあいだを開き、てのひらを見せ合い、 “Live long and prosper(長寿と繁栄を)”と言う。作品の外でも、スタートレックの俳優や有名人があいさつや記念撮影でおこなうこともあり、ファンとしては練習しておくべきだと思った。夫はさすが長年のファン、たいへんスムーズにやれる。私は指を開くのに数秒かかるうえに、指先がぷるぷる震える日々が続いた。とはいえ人は成長するのだ。夫へのあいさつをバルカン式でやっていたら、うまくできるようになった。

    5 iPhoneを活用する
    Twitter(現X)の絵文字にしれーっと、バルカンあいさつの手がある。ファンの人がよく使っているようだ。コピーして、iPhoneの辞書に「ばるかん」で出るよう登録し、夫とのLINEで使うよう心がけた。ことあるごとに相手の長寿と繁栄を願うのは気持ちいい。しばらくして、そもそも「すぽっく」と打つと絵文字が出てくることに気がついた。無駄に思えるようなところにエネルギーを使えるなんて、なんて知的な仕事をする会社だろう。ネットサーフィンでSiri情報も得たので、確認しておいた。クルーは、任務で宇宙艦から惑星に上陸する時、転送装置を使う。宇宙船のシステムに向かって “beam me up”「転送してくれ」と言う。 “energizing”は「転送中」。どちらもよく出てくる言葉。

     

    6 クリンゴン語を学ぶ
    戦闘好きな部族として描かれるクリンゴン人が使う言語は、スタートレックオリジナルの言語だ。言語学者が発展させたもので、世界にはクリンゴン話者が一定数いるらしい。Googleでは表示言語で、Bingでは翻訳でクリンゴン語を選べる。使用者がいるということは、教育方法があるということだ。調べると、英語での学習限定だけど、辞書、文法書、オンライン教材があった。PC・スマホOKのDuolingoで勉強してみた。項目ごとに細かくレベルが分かれていて公文式みたい。反復練習をしばらくやると、なんとなく、語順と接続詞は判別できるようになった。だけど綴りが難しい。大文字と小文字が区別され、主語と目的語によって動詞が複雑に変化するのも学習の高い壁。

    例文に、スタートレックのクリンゴン人「ウォーフ」や、「私は私自身を称賛する」「私はあなたを称賛する」「AはBを殺す」「何が欲しい?」といったクリンゴン人らしい内容が出てくるのは楽しい。自他ともにクリンゴンを褒め称え、戦っている。

    Duolingoに音声データはなかった。YouTubeに「ドイツ出身のクリンゴン語の先生」がいらっしゃったので、少しレッスンを受けてみた。

    彼によると、クリンゴン語には “Hello” “Thank you” “Goodbye” にあたるものがない。直接的な物言いをする。あいさつに近い “nuqneH” は、”What do you want?”、「おまえは何が欲しいんだ」である。発音も独特だ。歯切れのよいハキハキ感。バルカンあいさつのようにとっつきやすいものを探して、 “Qapla’” を覚えた。読み方は「カプラ」、意味は “Success”。大事な戦いの日の朝に使っている。気づけばいつのまにか、クリンゴン人を好戦的だと思わなくなっていた。おたがいを正しく褒めることに本当に気を配っている種族。彼らはただ戦っているだけではない。

    7 映像を観る②
    映画だけでは夫の好きなピカード艦長の人柄をあまり知ることができなかったので、追加のウォッチリストをつくってもらった。映画は基本的に有事で、何かしら緊急事態、ミッション、戦いが起こるものだけど、ドラマはそうでもない。シーズンごとに数十作ある分、宇宙船でのクルーの日常、人柄がゆっくりと描かれている。原題と邦題の違いも興味深い。

    ・超時空惑星カターン
     名作と名高いらしい。敵の攻撃と思いきや、とてもいい話。私はこの話の挿入曲、The Inner Light が大好きになった。ティン・ホイッスル(ピカードの笛に似ているアイルランドの笛)を買って、最後まで吹けるようになるまで練習した。

    ・ギャラクシー・ロマンス
     ピカードさんも恋をする。

    ・運命の分かれ道
     原題 “Tapestry”。人生というタペストリー。若いころから今まで、ピカードさんに何が起きたのかを追える。

    8 「500ページの夢の束」を観る
    2018年9月7日公開。スタートレックが好きな女性、ウェンディが主人公。スタートレック脚本コンテストの原稿を書き上げたのに、郵送が間に合わない。直接パラマウント社に届けるべく、長い道のりをひとりで旅する話。予習がばっちり効いて、スタートレックを使った比喩で言おうとしていることが理解できた。映画のあと、焼肉を食べながら、夫とスタートレック絡みのシーンや感想を語り合えた。バルカンあいさつもクリンゴンカプラも出てきて、うれしかった。


    時は経ち、2026年。新しいシーズンやシリーズも増えた。ピカード艦長を主役にした「ピカード」というシリーズを早く観終わりたい。シーズン1だけ、いっしょに観た。年を重ねた艦長が、アールグレイティーを「デカフェで」と頼んだシーンにふたりして興奮した。私はアンドロイドのデータ少佐が大好きだから、途中からずびずび泣いていた。残りのシーズンがもったいなくて、昔の作品から順を追って近づいているところだ。

    私の趣味のひとつは、演劇を観に行くこと。演劇は夫の趣味ではなかったけれど、彼もいっしょに来るようになった。私が彼に近づいたように、彼は私に近づいてくれた。彼には彼なりの楽しみ方がある。彼が好きなのは、芝居の文学的な内容そのものではないことが多い。芝居を楽しんでいる私といるのが好きみたいだ。まるでシェイクスピアの、賢い道化を演じることに決めたかのように、観劇の前後の日々、彼は鋭い目で物事の核心をつかんで、ふざけて私を笑わせる。

    彼といっしょに暮らすことは、即興劇の劇団にいるようなものだと思う。結末だけが決まっているお題で、演者は二人、小道具はない。どちらが先に始めようか。仮に、一人が何かを熱心に磨き始めたとする。もう一人はそれを無視したり、「何?」と言ったりして、シーンを前に進める責任を相手に押し戻すことはできない。「Yes, and…」のルールのもとでは、目の前の人がやっていることを基本的に肯定し、その上に自分の表現を重ねなければならない。たとえば、「うわぁ!なんて綺麗な卵なの!?」というように。卵を磨くことが何につながるのかは、演者も観客も知らない。先の見えなさ。違い。恐れ。不安。だけど、おたがいを信頼し、瞬間ごとにいっしょにシーンを作り上げ、結末まで並走しようと努める。

    2018年にこのオリジナルのエッセイを書いた後、2019年の初めに、自分が独特の認知と身体感覚をもっていると知った。振り返ってみると、私の上陸ミッションはウェンディや夫だけでなく、私自身にもつながっていた。いろんなことのわけがわかった。私たちが出会った日から、彼は私のやり方や、物事を学ぶプロセスをおもしろがり、励まし、さらに燃料を投入して煽ってくれていた。私たちの間で何かうまくいかないことがあっても、私たちはできるだけ席を立たず、話し合って解決しようとしてきた。今ならその理由が分かる。彼は、まだ自分自身を自覚していなかった私に対して、交信チャンネルを開いたままにしてくれていた。そして、私たちが結んだ条約の性質も理解した。それは、私たちがおたがいに歩み寄った上に築かれた同盟であり、それが私と「いろいろなアイデンティティをもつ私」との間の和平条約だった。

    夫が真顔で私に近づいてくるときは、不意打ちのバルカンあいさつの合図だ。私はすぐに、ゆっくりと厳粛に返す。私が何か頼みごとをして、あるいは何かをいっしょに試そうとして、彼がためらう時には、私が「抵抗は無意味よ」とにっこり言う(ボーグが “Resistance is futile.”(抵抗は無意味だ)と無機質に言い放つのに対するオマージュ)。

    Marriage: one of the frontiers. This is our voyage. Its continuing mission: to explore strange new worlds, to seek out new life and new relationship, to boldly go where no one has gone before.

    結婚、それは開拓地の一つ。これは私たちの航海である。その継続的な任務は、未知の新しい世界を探索し、新しい生活と新しい関係性を探求し、誰も行ったことのない場所へ勇敢に行くことである。

  • 「close reading(精読)ができるようになりたい」と思い続けてきた。何が精読かわからないまま。大学2年生の時、初めて小説の原典を読み、グループワークをした。私の読みを話した。エピグラフにある “Only connect!” という言葉が、全44章中の第22章にある。小説のモデルになった家は9つの部屋があり、登場人物の赤ちゃんが家の真ん中で生まれたのは、5という数字が関係すると思う。第5章にベートーヴェンの交響曲第5番が出てくるのは偶然じゃないと思う。細かいところから、全体を解釈した。クラスメートは顔をしかめた。教授は私を黙って見つめてきた。何か読み方が違うのだと思った。授業のあと、教授とのお茶会で笑うクラスメートを見て、文学のゼミには行けないと思った。違う読みをしてしまう。それはどうにかして直さなきゃいけない。正しくならなければ。

    20年後、別の大学で、研修生になって最初に書いた詩の論文には、あまり精読の結果を書かずにいた。過剰な読みとか、変とか言われるのが、たぶん無意識に怖かったのだと思う。だけど、今の指導教官は頭が切れるのである。「精読をもっと見せて」と言われ、逃げられなくなった。

    私には、授業で扱われた詩が、周りの学生が言うような暗い詩には思えない。暗い、ねちっこい音もあるけれども、そのわりには遊び心のような、浮遊感のある音が多すぎる。詩人が「自殺した」という事実に引っ張られて、死の前兆のように見えるが、その日に致命的な瞬間が訪れて境界を越えてしまっただけで、彼女は空想の中で、もう何度も軽く死んでいたのではないか。それが、「また死んでリセットしちゃお」くらいにも取れる、軽い感じで。

    正しくないのだろうと、苦い顔をされるのだろうと、びくびくしながら自分の読みを見せた。明らかな誤解やミスで先生の手を煩わせたときよりもずっと怖かった。私がこう読むのは、こう読んでやろうではなくて、こう読んでしまうであり、精読がわからないままずっと来た、文学のゼミを一度諦めたぶん、存在に直結している。なんかそんなの重すぎるだろうと自覚はあるけれど、この感じで来てしまったので仕方ない。

    先生は “tremendous sensitivity” と言った。この “tremendous”、「すさまじい」は、引いている感じがあるが、文脈的に褒め言葉だった。自分で何をやってるかわからない、と言う私に、先生は「精読、できてるよ」と言った。そうか、これが精読なのか、と受け入れるのは時間がかかった。習ってないので、何が精読かわからないが、手元にあるのは精読らしい。大学2年生の時のレポートを読んだら、今のとたいして変わらないように感じた。ずっと同じことやってるだけなんですけど、これが精読なんですか、と聞いた。先生は「当時もできてる。今の方がアカデミックに統制が取れてる」と言った。

    そうか、これが精読なのか、と思って、来年はこれを突き詰めたいと思った。何をやってるのかもっとわかりたい。楽しみたい。その申し出を先生は許可しなかった。「もっと先に行きなさい」「何のために読むのか、そういうふうに読むことがどういう力をもつのか、考えるべきだ」。せっかく自分が何してるかわかったのにと、煮え切らない私に、先生は “add adjectives to your formalist close reading”(あなたの形式主義的な精読に形容詞をつけなさい) と言った。形容詞は、たとえば、マルクス主義的、フェミニズム的、クィア理論的、脱構築的、などがあるよ、自分で選んで、と。

    私の得意な精読は、音や意味や品詞や文法など、ミクロなところに着目する。私は根っからのformalist、形式主義者。形式主義的な精読はテキストで完結してしまうという意味で、他に接続しない。クラシックな読みであり、批評理論史的には古い読みだ。そこから次に行くことは、そういう精読を否定して、新しいものを学ぶことだと思っていた。だから抵抗していた。けれど、先生は「形容詞をつけなさい」と言った。形容詞は、修飾先の名詞が必要。形式主義的な精読という名詞は維持していい。維持しなさい。そのうえで、修飾語のバリエーションを増やしなさい、形式主義的な精読の使い方を研ぎなさい。

    (なんか淡々と書いているが、実際の頭の中はもっとぐちゃぐちゃしていた。できていると言われたことを素直に受け止められない自分。ようやく自覚できたのにそこにい続けるべきではないと示唆されたこと。ここまで20年かかったこと。引かれたときの空気。あの小説で響き続ける “Only connect!”。つなげばいい、つなぐだけでいい、つなぐことさえできれば。正しい訳はどれ。ココイチうまい。音楽を大音量で聞きながら泣いた。ヘッドフォンにこもる音で自分を落ち着かせようとするみたいに)

    翌日、再度研究室を訪れた。自分で選んだ形容詞、来年度の計画を持って。先生はそれを承認したうえで、「その形容詞を学ぶなら、これと、これと、あとこれも学ぼう」と地図をほいほいくれた。

    自分が何をやってるかわからない、やってることが望んでいたものだとわかった、もっとそこにいたい、と、ある意味で守りに入ろうとする私に、先生は「出ろ」と言った。でも破壊的な無理強いではなく、「形容詞」と言った。「あなたが『形容詞をつけろ』と形式主義的な言葉をつかったのは、形式主義者の私が受け入れやすいようにと考えたからですか。意図的な選択でしたよね」とたずねたら、先生は「うん」と笑った。

    <論文で取り上げた詩と日本語訳>

    In the Black Forest – Amy Levy

    I lay beneath the pine trees,
    And looked aloft, where, through
    The dusky, clustered tree-tops,
    Gleamed rent, gay rifts of blue.

    I shut my eyes, and a fancy
    Fluttered my sense around:
    “I lie here dead and buried,
    And this is churchyard ground.

    “I am at rest for ever;
    Ended the stress and strife.”
    Straight I fell to and sorrowed
    For the pitiful past life.

    Right wronged, and knowledge wasted;
    Wise labour spurned for ease;
    The sloth and the sin and the failure;
    Did I grow sad for these?

    They had made me sad so often;
    Not now they made me sad;
    My heart was full of sorrow
    For joy it never had.

    松の木の下にごろんと横たわって、
    上を見上げてみる。
    うっそうと茂る梢のすき間から、
    ちぎれた青空が、明るく、きらきらと覗いている。

    目を閉じると、ちょっとした空想が
    私の感覚のまわりを、ひらひらと飛びはじめる。
    「私はもう死んで、ここに埋められているんだ。
    ここは教会の墓地なんだ」って。

    「これでもう、ずっと眠っていられる。
    しんどいことも、争いごとも、全部終わり」
    そう思うなり、私はさっそく悲しみに取りかかった。
    惨めだった、これまでの人生のために。

    踏みにじられた正しさ。無駄にした知識。
    楽なほうに流れて、蹴っ飛ばした大事な仕事。
    あの怠惰と、あの罪と、あの数々の失敗。
    私が悲しくなったのは、ほんとうにこれらのため?

    そんなことには、さんざん泣かされてきた。
    でもあのとき私を悲しませたのは、もうそれじゃなかった。
    私の心をいっぱいに満たしていたのは、
    この心が、一度も持ったことのない「喜び」のための悲しみだった。

    <今年書いた論文からの抜粋(オリジナルは英文)>

    詩「In the Black Forest(黒い森にて)」は、植物のイメージを用いることで、光と闇を「同じ一つの生命の営み」の表裏として共存させています。語り手もまた、この植物のあり方に倣うようにして、森の中にある「完全には名付けようのないもの」のそばにとどまることを選びます。

    第1行の「pine(松)」という言葉は、「切望する(pine)」という動詞の意味とも響き合っています。この言葉は歴史的に強いネガティブなニュアンスを含んでいましたが、著者のレヴィの時代までには、より中立的な「憧れ」を意味する言葉へとニュアンスが和らいでいました。語り手は冒頭から、自分自身を木々と同じ生命の営みの中においています。木々が光に向かって空へと伸びていく(第2行の「looked aloft(上を見上げてみる)」)まさにその時、生い茂る梢は足元に暗闇を作り出します。この逆説によって、光と闇は対立するものではなく、同じ生命の営みがもたらす二つの側面となるのです。第4行の「rent(ちぎれた)」からは、木陰を引き裂いて差し込む光の様子が伝わってきます。

    第16行の「Did I grow sad for these?(私が悲しくなったのは、ほんとうにこれらのため?)」にある「grow」という動詞は、自動詞として「感情が植物のように育っていくこと」を意味すると同時に、他動詞として「自分のなかに生まれる感情を、自らの手で育てる意志」をも暗示しています。松の木と同じように、語り手もまた、光を追い求めるプロセスの中で闇を蓄積していく存在なのです。

    第4連の「Right wronged, and knowledge wasted; / Wise labour spurned for ease; / The sloth and the sin and the failure;(踏みにじられた正しさ。無駄にした知識。楽なほうに流れて、蹴っ飛ばした大事な仕事。あの怠惰と、あの罪と、あの数々の失敗)」は、摩擦音や鼻音、接近音が連なり、まるで長く絡み合う根のように複雑にねじれています。そこへ、物憂げにつまずくような母音 [æ] を持つ「sad(悲しい)」という短い単語が、唐突に響きます。この言葉の最後にある「d」の音は、過去分詞の「d」の響きと重なり合い、積み重なった過去の失敗の重みをそこに繋ぎ止めるかのようです。その一方で、「a fancy / Fluttered my sense around(ちょっとした空想が私の感覚のまわりを、ひらひらと飛びはじめる)」(第5-6行)というフレーズや、詩全体に見られる女性終止(アクセントのない音節で終わる行末)は、軽やかで遊び心のある浮遊感を生み出しています。

    第19-20行の「My heart was full of sorrow / For joy it never had(私の心をいっぱいに満たしていたのは、この心が、一度も持ったことのない「喜び」のための悲しみだった)」では、「sorrow(悲しみ)」が「aloft(高く)」や「heart(心)」と響き合う豊かな母音を持っています。一方で「had」という過去形は、「喜びの不在」をあくまで過去のものの中に閉じ込め、その先に広がる未来を閉ざさずに残しています。「fancy(空想)」のなかで、語り手は「dead and buried(死んで、埋められて)」(第7行)いますが、これは過去とともに一度軽やかに死ぬことを意味します。

    森において、死は終わりを意味しません。枯れたものは分解されて土に還り、そこからまた新しい命が育ちます。この森という環境において、「full of sorrow(悲しみで満ちている)」という状態は、不毛な終わりではなく、悲しみと喜びの双方を内包した「これからの蕾」として機能しているのです。過去形を使って語られていることは、語り手が今も生き延びていることの証です。語るという行為そのものが、生き続けていることの証明にほかなりません。

    レヴィはこの詩を通じて、矛盾を強引に解消するのではなく、そのまま抱え込んで生きる姿勢を肯定しています。それは、当時の社会が求めた信仰、ジェンダー、職業といった硬直した枠組みにはまることのできなかった彼女にとって、生きていくための極めて重要な戦略だったのです。

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