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  • スタートレックおたくの夫と、その熱量に引き気味の妻。長年の壁を越える、愛と勇気と成長の記録。2018年の文章を一度英語にして、日本語で改稿。言語の行き来で気づいたこと、やめたこと、できるようになったことが詰まっています。

    公開日:2018年9月20日
    英訳日:2026年5月9日
    日本語版改訂日:2026年7月20日


    夫はとてもスタートレックが好きだ。中でも「新スタートレック」というシリーズのキャラクター、ピカード艦長が大好きだ。ピカード艦長がアールグレイティーを飲むので、彼も毎日アールグレイティーを飲む。ちょっとした会話の中で、格言めいたものが必要な場合、スタートレックの台詞を引用する。私は「よく覚えてるなあ」と思いながら、話題を変えようとする。スタートレックがこの世に存在するのがうれしいのか、台詞を言えて悦に入っているのか何なのか、話を変えられても楽しそうなままである。

    私は食わず嫌いだ。SFって難しそうなのだ。宇宙に技術にエイリアン。それに長そうだ。彼の部屋の棚の上、ドラマのBlu-rayボックスを見るたびに、そんなに観れないよと目をそらす。会ったこともない艦長からのプレッシャーに疲れていた。義理の祖父なの?なんで宇宙じゃなくてうちに居座ってんの?

    ある日、「500ページの夢の束」という映画が公開されるのを知った。スタートレック好きの女の子の話。予告を観て、いいタイミングだと思った。いっしょに観に行くのを目標にして、スタートレックの勉強をしよう。親しみをもってみよう。スタートレック好きの夫に近づいてみよう。自分のために、「スタートレック 上陸ミッション」を組んだ。まずは刺繍から始めて、残りのことは進めながら考えた。

    スタートレック 上陸ミッションログ
    1 刺繍する
    2 映像を観る①
    3 本を読む
    4 バルカンあいさつを練習する
    5 iPhoneを活用する
    6 クリンゴン語を学ぶ
    7 映像を観る②
    8 「500ページの夢の束」を観る

    1 刺繍する
    夫の誕生日が近づいていた。スタートレックのグッズを買いたかったけれど、私の気に入るものが見つからなかった。私にとって針は、自分で何かを作るしかない時のための、デザインソフトやカメラ、ペン、ノートと同じレベルの道具のひとつ。手作りとは、明確な目的を持ったガチプロジェクト。やるからには、全力でやる。

    ■クロスステッチ
    イタリアのCloudsfactoryから、スタートレックのクッションカバーの図案を買った。昔は、刺繍でアルファベットを覚えた時代があったらしい。現代は刺繍がスタートレックを教えてくれる。同じ作業を繰り返すのは楽しいし、少しずつふっくらとしていく刺繍を撫でるのが好き。各モチーフの意味はわからないのに、50cm×50cmの大物、何日も刺していると、次第に愛着が出てくる。アメリカのドラマ、イタリアの図案を日本で刺しながら、多くの人に愛されている作品なんだなあと思いを馳せていた(そしてよく刺し間違えた)。

    ■トートバッグ
    ちょうど、キャンバス製のバッグが欲しいと言われていた。会社の拠点間、PCを入れて持ち歩く用。市販のは生地が薄いとか、値段が高いとかで渋っていた。中にポケットが欲しいとも。そこで、ピカード艦長の決め台詞をスタートレックのフォントで刺繍したトートバッグをつくることにした。 “MAKE IT SO!” は、「発進」とか「そうしてくれ」など、ピカード艦長が策を進める時に使う。11号の黒いキャンバス地に製図。スタートレックフォントを印刷、トレースして、白のサテンステッチで塗りつぶした。 エンドロールでよく流れるらしい名言も、内ポケットに刺繍した。

    Space: the final frontier. These are the voyages of the starship Enterprise. Its continuing mission: to explore strange new worlds, to seek out new life and new civilizations, to boldly go where no one has gone before.
    (宇宙、そこは最後のフロンティア。これはUSSエンタープライズが、任務を続行して、新世界を探索し、新しい生命と文明を求めて、人類未踏の地に航海した物語である)

    ピカード艦長のクルーの一員として、新しい技術開発に挑むエンジニアのためのバッグ。クッション同様、制作時点でピカード艦長がどんな人だか知らなかったけれど、気分は宇宙艦隊、心の中では、私はピカード艦長と彼のエンジニアを見守る宇宙艦隊の小道具係だった。

    2 映像を観る①
    いいぐあいに親しみを感じてから、いよいよ作品を観る。数シーズンのドラマが、数シリーズある。映画は数本だけど、全部観るには長すぎる。そこで、夫に「厳選ウォッチングリスト」を依頼した。リクエストと返信は次のとおり:

    リクエスト
    ・初心者でもついていける
    ・主要キャラクターとおぼしきカーク船長とスポックの関係を知ることができる
    ・夫が好きなピカード艦長のことを知ることができる
    ・スタートレックの世界観や思想のポイントをおさえられる

    厳選ウォッチングリスト
    ・スタートレック:ディスカバリー
    ・スタートレックII カーンの逆襲
    ・スタートレックIII ミスター・スポックを探せ!
    ・スタートレックIV 故郷への長い道
    ・スタートレックVI 未知の世界
    ・ジェネレーションズ
    ・ファーストコンタクト

    リストをもらってもなお、「本当におもしろいのか……?」と訝しんでいた人の感想:

    ・スタートレック:ディスカバリー
     3話分を一気に観てから夫の部屋に行き、「たいへん申し訳ございませんでした」と謝った。彼がふふんとドヤ顔で偉そうにふるまうのを許した。「なにこれ、こんなにおもしろいなら早く観ればよかった」という感じ。スタートレックデビューに最適。脚本すげええ。映像かっこいい。エイリアン=没個性的な着ぐるみと思いきや、俳優の目や体を活かしたデザインが施されていた。地球人も、エイリアンも、個性や感情を表現する時間が充てられている。技術用語も、「仕組みはよくわからんけど、なんか動力なんだろうな」くらいにとらえておけば気が重くない。夫が技術の話をし始めて、私が「へー」と受け流すのは、よくある夕食の風景だ。技術そのものではなく、困難を乗り越えられてうれしかったとか興奮したとかの、彼の気持ちのほうを追うようにしている。それと同じで、クルーが難しい言葉で延々と話していても、「ん-。要するに出発ね」ととらえ、ハラハラし始めるクルーの気持ちに共感できれば、話は十分追えるのだ。長年の訓練の成果がここで発揮されるなんて。

    映画は、そもそもドラマを観てない人も楽しめるようにつくられている。

    ・スタートレックII カーンの逆襲
     カーク船長とスポックの関係を知るには見逃せない作品。作品が作られたのは、カーン1982年、ディスカバリー2017年なのだけど、時代設定的にはディスカバリー2256年、カーン2285年と、ディスカバリーのほうが先。ディスカバリーの次にカーンを観ると、技術的なギャップを楽しめる。宇宙船や各種技術が、30年で超劣化している。ドラマ「SPEC」を観たあとに、「水戸黄門」を観て、30年しか経ってないんですよと言われる感覚。

    ・スタートレックVI 未知の世界
     映画でいちばん好き。侵略ではなく探索、戦いではなく和平交渉、という宇宙艦隊の思想をよく学ぶことができる。敵対し合っていた者たちの和平条約が、キトマー条約。荒々しいだけの印象だったクリンゴン人の見方が変わる。最後の、 “no man” を “no one” に言い換えるところが、ほんとうに好き。前者だと人間しか表さないけれど、後者だと異星人やアンドロイドが含められる。ジェンダーインクルーシブ、人種インクルーシブ、種族インクルーシブ。終わりのナレーションで言い換えられたその一言に私が泣き始めた時、夫は驚いた顔をした。私が理由を説明すると、彼は目を丸くした。この映画を何度も観ていたくせに、その言い換えに全く気づいていなかった。え、待って。文学好きの初心者が、ベテランのおたくエンジニアに教えられることがあるってこと?

    ・ファーストコンタクト
     人類が初めてワープを成功させた日と、一筋縄ではいかない異星人ボーグとの戦い。ボーグはあらゆるものを取り込んで同化させる、機械の生命体。怖いけど美しくて見とれた。

    3 本を読む
    100円で入手。キャラクターのおさらい。各民族の特徴、マーク、関係性の学習。映画で観た知識の定着をはかりながら、新しい「へー」を吸収。観てないシリーズのほうが多いものの、映画で足場を固めたことで困惑しなくなった。多くのキャラクターの中でも、初代のスールー、スコッティ、第2シリーズのデータ、ディスカバリーのバーナム、サルー、スタメッツが特に好きだと感じた。ついに推しメンができたのである。

    4 バルカンあいさつを練習する
    スポックをはじめ、バルカン人はあいさつの時、バルカン式あいさつをおこなう。中指と薬指のあいだを開き、てのひらを見せ合い、 “Live long and prosper(長寿と繁栄を)”と言う。作品の外でも、スタートレックの俳優や有名人があいさつや記念撮影でおこなうこともあり、ファンとしては練習しておくべきだと思った。夫はさすが長年のファン、たいへんスムーズにやれる。私は指を開くのに数秒かかるうえに、指先がぷるぷる震える日々が続いた。とはいえ人は成長するのだ。夫へのあいさつをバルカン式でやっていたら、うまくできるようになった。

    5 iPhoneを活用する
    Twitter(現X)の絵文字にしれーっと、バルカンあいさつの手がある。ファンの人がよく使っているようだ。コピーして、iPhoneの辞書に「ばるかん」で出るよう登録し、夫とのLINEで使うよう心がけた。ことあるごとに相手の長寿と繁栄を願うのは気持ちいい。しばらくして、そもそも「すぽっく」と打つと絵文字が出てくることに気がついた。無駄に思えるようなところにエネルギーを使えるなんて、なんて知的な仕事をする会社だろう。ネットサーフィンでSiri情報も得たので、確認しておいた。クルーは、任務で宇宙艦から惑星に上陸する時、転送装置を使う。宇宙船のシステムに向かって “beam me up”「転送してくれ」と言う。 “energizing”は「転送中」。どちらもよく出てくる言葉。

     

    6 クリンゴン語を学ぶ
    戦闘好きな部族として描かれるクリンゴン人が使う言語は、スタートレックオリジナルの言語だ。言語学者が発展させたもので、世界にはクリンゴン話者が一定数いるらしい。Googleでは表示言語で、Bingでは翻訳でクリンゴン語を選べる。使用者がいるということは、教育方法があるということだ。調べると、英語での学習限定だけど、辞書、文法書、オンライン教材があった。PC・スマホOKのDuolingoで勉強してみた。項目ごとに細かくレベルが分かれていて公文式みたい。反復練習をしばらくやると、なんとなく、語順と接続詞は判別できるようになった。だけど綴りが難しい。大文字と小文字が区別され、主語と目的語によって動詞が複雑に変化するのも学習の高い壁。

    例文に、スタートレックのクリンゴン人「ウォーフ」や、「私は私自身を称賛する」「私はあなたを称賛する」「AはBを殺す」「何が欲しい?」といったクリンゴン人らしい内容が出てくるのは楽しい。自他ともにクリンゴンを褒め称え、戦っている。

    Duolingoに音声データはなかった。YouTubeに「ドイツ出身のクリンゴン語の先生」がいらっしゃったので、少しレッスンを受けてみた。

    彼によると、クリンゴン語には “Hello” “Thank you” “Goodbye” にあたるものがない。直接的な物言いをする。あいさつに近い “nuqneH” は、”What do you want?”、「おまえは何が欲しいんだ」である。発音も独特だ。歯切れのよいハキハキ感。バルカンあいさつのようにとっつきやすいものを探して、 “Qapla’” を覚えた。読み方は「カプラ」、意味は “Success”。大事な戦いの日の朝に使っている。気づけばいつのまにか、クリンゴン人を好戦的だと思わなくなっていた。おたがいを正しく褒めることに本当に気を配っている種族。彼らはただ戦っているだけではない。

    7 映像を観る②
    映画だけでは夫の好きなピカード艦長の人柄をあまり知ることができなかったので、追加のウォッチリストをつくってもらった。映画は基本的に有事で、何かしら緊急事態、ミッション、戦いが起こるものだけど、ドラマはそうでもない。シーズンごとに数十作ある分、宇宙船でのクルーの日常、人柄がゆっくりと描かれている。原題と邦題の違いも興味深い。

    ・超時空惑星カターン
     名作と名高いらしい。敵の攻撃と思いきや、とてもいい話。私はこの話の挿入曲、The Inner Light が大好きになった。ティン・ホイッスル(ピカードの笛に似ているアイルランドの笛)を買って、最後まで吹けるようになるまで練習した。

    ・ギャラクシー・ロマンス
     ピカードさんも恋をする。

    ・運命の分かれ道
     原題 “Tapestry”。人生というタペストリー。若いころから今まで、ピカードさんに何が起きたのかを追える。

    8 「500ページの夢の束」を観る
    2018年9月7日公開。スタートレックが好きな女性、ウェンディが主人公。スタートレック脚本コンテストの原稿を書き上げたのに、郵送が間に合わない。直接パラマウント社に届けるべく、長い道のりをひとりで旅する話。予習がばっちり効いて、スタートレックを使った比喩で言おうとしていることが理解できた。映画のあと、焼肉を食べながら、夫とスタートレック絡みのシーンや感想を語り合えた。バルカンあいさつもクリンゴンカプラも出てきて、うれしかった。


    時は経ち、2026年。新しいシーズンやシリーズも増えた。ピカード艦長を主役にした「ピカード」というシリーズを早く観終わりたい。シーズン1だけ、いっしょに観た。年を重ねた艦長が、アールグレイティーを「デカフェで」と頼んだシーンにふたりして興奮した。私はアンドロイドのデータ少佐が大好きだから、途中からずびずび泣いていた。残りのシーズンがもったいなくて、昔の作品から順を追って近づいているところだ。

    私の趣味のひとつは、演劇を観に行くこと。演劇は夫の趣味ではなかったけれど、彼もいっしょに来るようになった。私が彼に近づいたように、彼は私に近づいてくれた。彼には彼なりの楽しみ方がある。彼が好きなのは、芝居の文学的な内容そのものではないことが多い。芝居を楽しんでいる私といるのが好きみたいだ。まるでシェイクスピアの、賢い道化を演じることに決めたかのように、観劇の前後の日々、彼は鋭い目で物事の核心をつかんで、ふざけて私を笑わせる。

    彼といっしょに暮らすことは、即興劇の劇団にいるようなものだと思う。結末だけが決まっているお題で、演者は二人、小道具はない。どちらが先に始めようか。仮に、一人が何かを熱心に磨き始めたとする。もう一人はそれを無視したり、「何?」と言ったりして、シーンを前に進める責任を相手に押し戻すことはできない。「Yes, and…」のルールのもとでは、目の前の人がやっていることを基本的に肯定し、その上に自分の表現を重ねなければならない。たとえば、「うわぁ!なんて綺麗な卵なの!?」というように。卵を磨くことが何につながるのかは、演者も観客も知らない。先の見えなさ。違い。恐れ。不安。だけど、おたがいを信頼し、瞬間ごとにいっしょにシーンを作り上げ、結末まで並走しようと努める。

    2018年にこのオリジナルのエッセイを書いた後、2019年の初めに、自分が独特の認知と身体感覚をもっていると知った。振り返ってみると、私の上陸ミッションはウェンディや夫だけでなく、私自身にもつながっていた。いろんなことのわけがわかった。私たちが出会った日から、彼は私のやり方や、物事を学ぶプロセスをおもしろがり、励まし、さらに燃料を投入して煽ってくれていた。私たちの間で何かうまくいかないことがあっても、私たちはできるだけ席を立たず、話し合って解決しようとしてきた。今ならその理由が分かる。彼は、まだ自分自身を自覚していなかった私に対して、交信チャンネルを開いたままにしてくれていた。そして、私たちが結んだ条約の性質も理解した。それは、私たちがおたがいに歩み寄った上に築かれた同盟であり、それが私と「いろいろなアイデンティティをもつ私」との間の和平条約だった。

    夫が真顔で私に近づいてくるときは、不意打ちのバルカンあいさつの合図だ。私はすぐに、ゆっくりと厳粛に返す。私が何か頼みごとをして、あるいは何かをいっしょに試そうとして、彼がためらう時には、私が「抵抗は無意味よ」とにっこり言う(ボーグが “Resistance is futile.”(抵抗は無意味だ)と無機質に言い放つのに対するオマージュ)。

    Marriage: one of the frontiers. This is our voyage. Its continuing mission: to explore strange new worlds, to seek out new life and new relationship, to boldly go where no one has gone before.

    結婚、それは開拓地の一つ。これは私たちの航海である。その継続的な任務は、未知の新しい世界を探索し、新しい生活と新しい関係性を探求し、誰も行ったことのない場所へ勇敢に行くことである。

  • 「close reading(精読)ができるようになりたい」と思い続けてきた。何が精読かわからないまま。大学2年生の時、初めて小説の原典を読み、グループワークをした。私の読みを話した。エピグラフにある “Only connect!” という言葉が、全44章中の第22章にある。小説のモデルになった家は9つの部屋があり、登場人物の赤ちゃんが家の真ん中で生まれたのは、5という数字が関係すると思う。第5章にベートーヴェンの交響曲第5番が出てくるのは偶然じゃないと思う。細かいところから、全体を解釈した。クラスメートは顔をしかめた。教授は私を黙って見つめてきた。何か読み方が違うのだと思った。授業のあと、教授とのお茶会で笑うクラスメートを見て、文学のゼミには行けないと思った。違う読みをしてしまう。それはどうにかして直さなきゃいけない。正しくならなければ。

    20年後、別の大学で、研修生になって最初に書いた詩の論文には、あまり精読の結果を書かずにいた。過剰な読みとか、変とか言われるのが、たぶん無意識に怖かったのだと思う。だけど、今の指導教官は頭が切れるのである。「精読をもっと見せて」と言われ、逃げられなくなった。

    私には、授業で扱われた詩が、周りの学生が言うような暗い詩には思えない。暗い、ねちっこい音もあるけれども、そのわりには遊び心のような、浮遊感のある音が多すぎる。詩人が「自殺した」という事実に引っ張られて、死の前兆のように見えるが、その日に致命的な瞬間が訪れて境界を越えてしまっただけで、彼女は空想の中で、もう何度も軽く死んでいたのではないか。それが、「また死んでリセットしちゃお」くらいにも取れる、軽い感じで。

    正しくないのだろうと、苦い顔をされるのだろうと、びくびくしながら自分の読みを見せた。明らかな誤解やミスで先生の手を煩わせたときよりもずっと怖かった。私がこう読むのは、こう読んでやろうではなくて、こう読んでしまうであり、精読がわからないままずっと来た、文学のゼミを一度諦めたぶん、存在に直結している。なんかそんなの重すぎるだろうと自覚はあるけれど、この感じで来てしまったので仕方ない。

    先生は “tremendous sensitivity” と言った。この “tremendous”、「すさまじい」は、引いている感じがあるが、文脈的に褒め言葉だった。自分で何をやってるかわからない、と言う私に、先生は「精読、できてるよ」と言った。そうか、これが精読なのか、と受け入れるのは時間がかかった。習ってないので、何が精読かわからないが、手元にあるのは精読らしい。大学2年生の時のレポートを読んだら、今のとたいして変わらないように感じた。ずっと同じことやってるだけなんですけど、これが精読なんですか、と聞いた。先生は「当時もできてる。今の方がアカデミックに統制が取れてる」と言った。

    そうか、これが精読なのか、と思って、来年はこれを突き詰めたいと思った。何をやってるのかもっとわかりたい。楽しみたい。その申し出を先生は許可しなかった。「もっと先に行きなさい」「何のために読むのか、そういうふうに読むことがどういう力をもつのか、考えるべきだ」。せっかく自分が何してるかわかったのにと、煮え切らない私に、先生は “add adjectives to your formalist close reading”(あなたの形式主義的な精読に形容詞をつけなさい) と言った。形容詞は、たとえば、マルクス主義的、フェミニズム的、クィア理論的、脱構築的、などがあるよ、自分で選んで、と。

    私の得意な精読は、音や意味や品詞や文法など、ミクロなところに着目する。私は根っからのformalist、形式主義者。形式主義的な精読はテキストで完結してしまうという意味で、他に接続しない。クラシックな読みであり、批評理論史的には古い読みだ。そこから次に行くことは、そういう精読を否定して、新しいものを学ぶことだと思っていた。だから抵抗していた。けれど、先生は「形容詞をつけなさい」と言った。形容詞は、修飾先の名詞が必要。形式主義的な精読という名詞は維持していい。維持しなさい。そのうえで、修飾語のバリエーションを増やしなさい、形式主義的な精読の使い方を研ぎなさい。

    (なんか淡々と書いているが、実際の頭の中はもっとぐちゃぐちゃしていた。できていると言われたことを素直に受け止められない自分。ようやく自覚できたのにそこにい続けるべきではないと示唆されたこと。ここまで20年かかったこと。引かれたときの空気。あの小説で響き続ける “Only connect!”。つなげばいい、つなぐだけでいい、つなぐことさえできれば。正しい訳はどれ。ココイチうまい。音楽を大音量で聞きながら泣いた。ヘッドフォンにこもる音で自分を落ち着かせようとするみたいに)

    翌日、再度研究室を訪れた。自分で選んだ形容詞、来年度の計画を持って。先生はそれを承認したうえで、「その形容詞を学ぶなら、これと、これと、あとこれも学ぼう」と地図をほいほいくれた。

    自分が何をやってるかわからない、やってることが望んでいたものだとわかった、もっとそこにいたい、と、ある意味で守りに入ろうとする私に、先生は「出ろ」と言った。でも破壊的な無理強いではなく、「形容詞」と言った。「あなたが『形容詞をつけろ』と形式主義的な言葉をつかったのは、形式主義者の私が受け入れやすいようにと考えたからですか。意図的な選択でしたよね」とたずねたら、先生は「うん」と笑った。

    <論文で取り上げた詩と日本語訳>

    In the Black Forest – Amy Levy

    I lay beneath the pine trees,
    And looked aloft, where, through
    The dusky, clustered tree-tops,
    Gleamed rent, gay rifts of blue.

    I shut my eyes, and a fancy
    Fluttered my sense around:
    “I lie here dead and buried,
    And this is churchyard ground.

    “I am at rest for ever;
    Ended the stress and strife.”
    Straight I fell to and sorrowed
    For the pitiful past life.

    Right wronged, and knowledge wasted;
    Wise labour spurned for ease;
    The sloth and the sin and the failure;
    Did I grow sad for these?

    They had made me sad so often;
    Not now they made me sad;
    My heart was full of sorrow
    For joy it never had.

    松の木の下にごろんと横たわって、
    上を見上げてみる。
    うっそうと茂る梢のすき間から、
    ちぎれた青空が、明るく、きらきらと覗いている。

    目を閉じると、ちょっとした空想が
    私の感覚のまわりを、ひらひらと飛びはじめる。
    「私はもう死んで、ここに埋められているんだ。
    ここは教会の墓地なんだ」って。

    「これでもう、ずっと眠っていられる。
    しんどいことも、争いごとも、全部終わり」
    そう思うなり、私はさっそく悲しみに取りかかった。
    惨めだった、これまでの人生のために。

    踏みにじられた正しさ。無駄にした知識。
    楽なほうに流れて、蹴っ飛ばした大事な仕事。
    あの怠惰と、あの罪と、あの数々の失敗。
    私が悲しくなったのは、ほんとうにこれらのため?

    そんなことには、さんざん泣かされてきた。
    でもあのとき私を悲しませたのは、もうそれじゃなかった。
    私の心をいっぱいに満たしていたのは、
    この心が、一度も持ったことのない「喜び」のための悲しみだった。

    <今年書いた論文からの抜粋(オリジナルは英文)>

    詩「In the Black Forest(黒い森にて)」は、植物のイメージを用いることで、光と闇を「同じ一つの生命の営み」の表裏として共存させています。語り手もまた、この植物のあり方に倣うようにして、森の中にある「完全には名付けようのないもの」のそばにとどまることを選びます。

    第1行の「pine(松)」という言葉は、「切望する(pine)」という動詞の意味とも響き合っています。この言葉は歴史的に強いネガティブなニュアンスを含んでいましたが、著者のレヴィの時代までには、より中立的な「憧れ」を意味する言葉へとニュアンスが和らいでいました。語り手は冒頭から、自分自身を木々と同じ生命の営みの中においています。木々が光に向かって空へと伸びていく(第2行の「looked aloft(上を見上げてみる)」)まさにその時、生い茂る梢は足元に暗闇を作り出します。この逆説によって、光と闇は対立するものではなく、同じ生命の営みがもたらす二つの側面となるのです。第4行の「rent(ちぎれた)」からは、木陰を引き裂いて差し込む光の様子が伝わってきます。

    第16行の「Did I grow sad for these?(私が悲しくなったのは、ほんとうにこれらのため?)」にある「grow」という動詞は、自動詞として「感情が植物のように育っていくこと」を意味すると同時に、他動詞として「自分のなかに生まれる感情を、自らの手で育てる意志」をも暗示しています。松の木と同じように、語り手もまた、光を追い求めるプロセスの中で闇を蓄積していく存在なのです。

    第4連の「Right wronged, and knowledge wasted; / Wise labour spurned for ease; / The sloth and the sin and the failure;(踏みにじられた正しさ。無駄にした知識。楽なほうに流れて、蹴っ飛ばした大事な仕事。あの怠惰と、あの罪と、あの数々の失敗)」は、摩擦音や鼻音、接近音が連なり、まるで長く絡み合う根のように複雑にねじれています。そこへ、物憂げにつまずくような母音 [æ] を持つ「sad(悲しい)」という短い単語が、唐突に響きます。この言葉の最後にある「d」の音は、過去分詞の「d」の響きと重なり合い、積み重なった過去の失敗の重みをそこに繋ぎ止めるかのようです。その一方で、「a fancy / Fluttered my sense around(ちょっとした空想が私の感覚のまわりを、ひらひらと飛びはじめる)」(第5-6行)というフレーズや、詩全体に見られる女性終止(アクセントのない音節で終わる行末)は、軽やかで遊び心のある浮遊感を生み出しています。

    第19-20行の「My heart was full of sorrow / For joy it never had(私の心をいっぱいに満たしていたのは、この心が、一度も持ったことのない「喜び」のための悲しみだった)」では、「sorrow(悲しみ)」が「aloft(高く)」や「heart(心)」と響き合う豊かな母音を持っています。一方で「had」という過去形は、「喜びの不在」をあくまで過去のものの中に閉じ込め、その先に広がる未来を閉ざさずに残しています。「fancy(空想)」のなかで、語り手は「dead and buried(死んで、埋められて)」(第7行)いますが、これは過去とともに一度軽やかに死ぬことを意味します。

    森において、死は終わりを意味しません。枯れたものは分解されて土に還り、そこからまた新しい命が育ちます。この森という環境において、「full of sorrow(悲しみで満ちている)」という状態は、不毛な終わりではなく、悲しみと喜びの双方を内包した「これからの蕾」として機能しているのです。過去形を使って語られていることは、語り手が今も生き延びていることの証です。語るという行為そのものが、生き続けていることの証明にほかなりません。

    レヴィはこの詩を通じて、矛盾を強引に解消するのではなく、そのまま抱え込んで生きる姿勢を肯定しています。それは、当時の社会が求めた信仰、ジェンダー、職業といった硬直した枠組みにはまることのできなかった彼女にとって、生きていくための極めて重要な戦略だったのです。

  • 「ふたりでごはんを」のつづき。

    基本的に夕食は夫と食べるので、私がひとりで夜遊びすることはまれだ。予定が入ったと言えば彼は嘆く。「ぼくの、ぼくの、ごはん・・・」「えーん」とふざけつつ寂しがる。彼にとって、ごはんは私の作るものか、私と作るものであり、私と食べるものがよい。この意味で、外食も、テイクアウトも、スーパーの総菜も、私が関わっていないという意味で同レベルだ。私が仕事や勉強で家事に手が回らないとき、「適当に買ってきて食べて」という台詞が続くと、彼は元気がなくなる。悪いことをしてこちらの気をひこうとするかのように、ジャンクフードに走る。私がいつもの食事に復帰すると、それだけで楽天パンダのLINEスタンプのように、きらきらと目を輝かせてよろこび、楽しそうにごはんを味わい、しらふなのに酔う。まあつまり、私はすごいということである。

    夜遊びの前日、ぱーっと料理することにした。雨でだるだるの気分と体調で、なんか読書も勉強も進まない。ドラマや映画でハラハラドキドキすることにも、じっくりストーリーを追って心を動かされることにも、頭を使いたくない。眠い。気分転換したい。手を動かしたい。さっぱりしたい。私の夜遊び中にも、彼にはおいしいものをわくわく食べてほしい。

    レシピノートをめくり、献立を考える。作り置き分も計算に含める。材料をメモして買い出しに行く。雨の日の午後のスーパーは、薄暗くて湿気がこもっている。目的をもって行けば、そこはきらめく冷蔵庫。カラフルな野菜、値引きシールが光るたんぱく質、冷えた乳製品を選び、かごを満たしていく。私の味覚の情操教育は、地方の田舎の小さなジャスコからなる。そこには成城石井のような洒落た野菜やハーブがない。結婚式のフードケータリングですら、「ジャスコにあるような食材」縛りにしたくらいだ。パプリカやマッシュルームを買うことは、大学生が「初めて海外に行きます。パリです!初飛行機!」と言うときの、期待と緊張が入り混じるような、初々しい背伸び感がある。だいたい、パプリカとかパスタとかパンチェッタとかパンナコッタとか、「パ」を発音するのも未だに少しそわそわする。ま、大人なのでパプリカ買えるけどね。赤と黄色をいっしょに買っちゃえるし。すごくない?

    手順をA4の紙1枚にまとめたり、材料を作業スペースに並べたりして、料理を始める。食べることもだけど、仕込みの時間も好きだ。目の前の食材に集中する。切ったり混ぜ合わせたりしていけば、ごちそうに辿り着くことが見えている。ナスに火を通し、マリネにして冷やし、カルパッチョとタリアータのソースを作った。今日は4品中、3品に酢を使う。すっきり、コク深い、あっさりのバリエーション。15時から始めて、19時にはできあがった。

    夫は、「あれを食べたい」「これを食べたい」はしょっちゅう言ってくるが、「料理しろよ」とイライラするような人でも、「女だから料理するのが当たり前」とか思っている人でもない。「紺ちゃんとごはんを食べたい」は、「紺ちゃんと共に生きたい」であり、極端な話、私と食べるなら何でもよく、料理のリクエストは、私の気分転換を促す呼び水だったり、私に栄養を摂らせる思いやりだったり、私に合わせてくれる。料理のスキルはなくても、その時々の私に合わせたリクエストのレベルは絶妙に調整できる。リクエストされるのはうれしいこと、「あれ食べたい」と定番料理を指名されるとちょっと誇らしいこと、料理を作って喜んでもらうのが好きなことを、知っている。

    つまり、食べものが重要なコミュニケーションツールだ。それも、私を優先してくれるコミュニケーションの。それがベースラインなので、「私といっしょにごはんを食べること」が、会って16年経ってもおそらく彼にとっては当たり前じゃない。その次に「私が(私と)作ったごはんを私といっしょに食べる」、があり、「私がつくったスペシャルなごはんを私といっしょに食べる」がある。

    彼は三重県生まれだ。お伊勢さんのご加護のもとで育った。あと、『おいしんぼ』の海原雄山の影響も相当に受けている。幼少期からの食事の話を聞くと、どうも私の田舎のジャスコと同じレベルのようなのに、舌が謎に肥えている。松阪牛も伊勢海老もありがたがらない。普段、スペシャルな料理をリクエストはしてこないのに(私に手間を強いたくないから)、私がいざ作ると、急に「食べ歩きが趣味です」みたいなグルメモードの男が現れる(特別感のあるおいしいものが実はとっても好きなので)。

    今夜のメニューはこれ。

    鯛のカルパッチョ。パプリカ、ピーマン、玉ねぎを刻んで、りんご酢とはちみつで作ったソースをかけたもの。

    ナスとミニトマトと生ハムのマリネ。こちらは普通の食物酢。

    牛肉のタリアータ。しめじ、エリンギ、舞茸のにんにくソテーの上に、焼き肉用の肉を6切れ、その上に三つ葉とマッシュルーム。粒マスタードとバルサミコ酢のソース。パルメザンチーズ。

    カリカリのフレンチフライ。塩を少し入れたホイップクリームつき。

    炭酸水をワイングラスに入れていただく。

    雨の日のお酢料理はとてもよかった。りんご酢のカルパッチョは、あまずっぱい。野菜がしゃきしゃきして楽しい。マリネは、想像通りの安定感のある味。タリアータは、三つ葉とバルサミコがおもしろい仕事をする。フレンチフライはディップが止まらない。

    グルメモードの彼が、酢のすばらしさについて語り始める。食べるスピードが速すぎて私に叱られる。「三つ葉がよいね」「ああ、この肉の赤身と脂身のバランスが最高」とか言う。隙あらば酢のすばらしさを称える。私がゆっくり食べているあいだに、彼の目はとろんとし始める。「ほんとうにおいしい、ほんとうに酢はいいよ」と言う。今日の推しはどれ?と聞いたら、「紺ちゃん」と言った。ねえ、推しはどの料理!ともう一度聞いたら、「酢」と言った。ヴィネグレットソース、まだあるよ。飲むか?

    ディナータイム終了。2人分で3900円。また気が向いたら開店します。

  • 太陽が沈むときに見れたら幸運が訪れる、緑の光線。”Green Flash”を論文のモチーフに使いたい。昔ミニシアターで観たエリック・ロメールの映画を、大学図書館の視聴覚コーナーでちんまり復習。元ネタのジュール・ヴェルヌの本も探す。誰にも開かれた形跡のない本を借りるのは緊張する。主人公が「緑の光線を見たい」と言って叔父を連れ回すので、私もそれについて行き、ユーモラスな会話と装画の景色を楽しむ。さすが恋愛小説、主人公がピンチのときのヒーローの現れ方がかっこいい。蘭ちゃんを間一髪のところで救出したコナン君(映画版)みたいなシーンと、それに続くラストシーン。わーお(都合がよい!)と思った。学者の視力が悪く、結局何も見えていないが、見えていないなりの活躍がある。

    たいへん気に入っていた有線イヤフォンを出先で落としてしまった。音響工学を専門にする夫が、ありあまるコレクションの中から、Bluetoothイヤフォンとヘッドフォンをくれた。かねてより「歌詞は好きなんだけど、なぜか聞き続けられない」音楽があったので、そういえばと相談したところ、「かまぼこ」とか「どんしゃり」とか、なんかおいしそうなことを言われた。ヘッドフォンをチューニングしてくれた。「なぜか聞き続けられない」と「なぜか聞き続けられる」の違いがわかった。なんか見えづらいな~と思ってたところ、不意に眼鏡の度数を変えてもらって視界が開けるような感じだった。コリラックマがヘッドフォンをつけて、目を閉じて踊ってるイラストが好きなんだけど、気持ちがわかる。音楽に没入できると、体って動くのね。初めてのノイズキャンセリング機能を使いながら、『ノイズキャンセルキャンセル』を読んだ。それはノイズキャンセルキャンセルキャンセル、つまりはノイズキャンセル。 「おおいに、ル、ル、ル」というエッセイの、おばあちゃんに向けた、「大人になったよ」「いろんな話、しようよ」「料理とかお裁縫とか、教えてよ」の「よ」。肩にやさしく、でも少し力を入れて触れ、揺らし、目線を合わせようとするような「よ」。行き場のない気持ちを、読者が『ペイ・フォワード』のように受け取っている気が。

    シェイクスピアの「から騒ぎ」を観に行く。指導教官に「ゼミのメンバーとA先生といっしょにどう?」と誘われたけど、予定が合わず、先に夫と観た。区立の文化センターの小さな円形劇場。異なる文化や背景のバイリンガル劇団による、英語と日本語がミックスされた演出。役者が日本語でしゃべっているときには英語の字幕が、英語でしゃべっているときには日本語の字幕が、舞台後方に映し出される。どたばたがっしゃん、わーいわい、みんなで踊ろうあはははは、みたいな喜劇。愉快な芝居を、芝居が大好きそうな人が演じているのを間近で見るのはぐっとくる。今、人生でいちばん忙しいらしい指導教官が、その多忙真っ只中に見る芝居が「から騒ぎ」、というのがおもしろく、「明日、舞台に上がって踊っちゃえばいいと思いますよ」と無責任な感想メールを送った。

    次の日はアーサー・ミラーの「みんな我が子」へ。イギリスの舞台を映画館で観られる「ナショナルシアターライブ」、ほんとうに好き。予備知識がなくてもおもしろいし、原作を読んでから行くのもおもしろい。原作を読んでいてストーリーは知っているのに、ああ、こういう演出するんだ、こういう表情の台詞だったんだ、光の使い方うんまっ!とかツッコミを入れ、最後の方はツッコミの余裕がなくなって圧倒されるまでがセット。7月は「セールスマンの死」の舞台チケットを取っている。今年はアーサー・ミラーの年。

    土曜日に「から騒ぎ」、日曜日に「みんな我が子」と続いたあと、翌週の土曜日朝9時から、「急に具合が悪くなる」を鑑賞。3時間半弱の映画じゃ行きたくないでしょう、でもきみと観たいと夫に言ったら、すんなりいっしょに行くことに。なんかそのすんなりぐあいがうれしかった。介護現場のユマニチュードを見て、フランスのヒューマニズム、ラブレー、渡辺一夫を思い出し、今年も『敗戦日記』を読む時期だなと思う。フランスの大学で哲学を学んでいた日本人と、日本の大学で人類学を学んでいたフランス人が、日本語とフランス語を交えながら話す。話し込む。これは「から騒ぎ」の英語と日本語ミックスの舞台にも感じたことに似ている。指導教官とコミュニケーションするときに似ている。母語と外国語が、両者入り混じる。熟考したうえで相手の言語で伝えようとするときもあれば、繊細なニュアンスを伝える自信がなくてこちらの母語にするときもある。勢いがついて、とりあえず思いついた言葉を言って、結果的に細かくコードスイッチングしあっているときもある。そういうときの私たちは、はたから見たらおそらくかっこわるい。言い淀んだり、間違えたり、誤解したり、無駄なことを言ったり。でも、おたがいがおたがいをかっこわるいと思ってない。表現しようとすること、伝えようとすること、聞き取ろうとすること、受け取ろうとすることで精いっぱいだから。カンヌで賞を獲るくらいの映画だ、綺麗だ、かっこいい。でも映像になっているのは、演者やスタッフが交わした言葉の蓄積のほんの少しの部分で、原作の本で残っているのは、著者たちが交わした言葉の蓄積のほんの少しの部分で、そのほんの少したちから、言葉にならないところを含めてたくさんのものに思いを巡らせることができるという意味で、開かれた、目線が同じの、作品群だと感じた。

    私は来週、今年度最後の面談で、先生とGreen Flashの議論を深める予定。Green Flashを書いた私と、読んでくれた先生と、これを読んで受け取ってくれたあなたに、ラッキーなことがあります。

  • 下界

    23時。夫の部屋の扉から、オレンジの灯りが漏れている。
    私「(まだ起きてるんだな。ゲームやってんのかな)」

    23時半。直感が働く。静かすぎる。
    私「(起きてないな)」
    部屋を開けると、ベッドの上で膝を抱えてすぴーっと寝ている夫がいた。
    私「あー。もう。起きなよ。お風呂入んなきゃ」
    夫「いま、いいところなの」
    カーテンを揺らす風が涼しい。雨上がりの匂い。そうね。いいところね。
    私「そろそろ日が変わるよ。お風呂!」
    まあそのうち起きるだろうと、彼の部屋を出る。

    0時。彼はまだ起きてない。
    私「ねえ、起きて。お風呂入って。先に入ってくれないと私が入れないじゃん」
    本当は先に入れる。でも彼を置いて寝てしまうのが嫌で、「きみのせいで私の睡眠が奪われる」という論理で脅す。彼はやさしいので、これでたいてい起きる。
    夫「はいる。はいるよ」
    私「起きて」
    夫「おきてる」
    私「どう見ても寝てる。起きて。私お風呂入れないじゃん、寝れないじゃん」
    段階的に声をかけ、徐々に覚醒していくよう仕向ける。彼の部屋を出る。

    0時半。彼はまだ寝ている。
    私「ねえ、起きるよ。日付変わったよ。ねえーー!」
    彼はすのこの低いベッドフレームに、マットレスを敷いている。
    私はその上に乗り、膝で立ち、彼の肩をゆさぶり、脇腹をくすぐり、ほっぺに指を突きさす。
    こちらが豪快に挑むと、豪快に抵抗されるのは知っている。
    しばらく豪快に攻撃したあと、ベッドを降りて、床に正座する。
    私「・・・・・・そろそろさ、起きたほうがいいと思うよ」
    豪快な攻撃のあとにしんみり黙ると、もぞもぞ動き出すのが彼だ。
    私は声のトーンを抑えているだけで、彼の変わりように静かに笑っているのだが。
    立ち上がり、彼の頭を撫で、「ほら、時間だよ」と言って退室する。

    1時。いつまで寝てんの。
    私「起きて。お風呂。ねえ。私お風呂入れないじゃん、寝れないじゃん」
    夫「・・・・・・」
    私「(話聞いてんのかな)私お風呂入っちゃったよ」
    夫「ん?」
    私「(話聞いてんじゃん)起きろ」
    夫「うーん」
    私「起きる気ある?」
    夫「まあね」
    私「落とすぞ」
    彼の腰のあたりを持ち、体を斜めに動かしていく。足先が少しずつベッドからはみ出す。
    夫「きゃー」
    私は彼の両ふくらはぎをつかみ、下に引きずり落とし始める。彼は「きゃー」「ひどーい」「えーん」と言って抵抗する。そのあいだにも、彼は少しずつずり落ちていく。ずり落とすのが楽しくて、もう少し遊んでいたくなり、彼の胴体を上に引き上げて戻し、またずり落とし、を繰り返して楽しむ。おたがいがこの深夜のばからしさに笑ってしまったあたりで、仕上げだ。彼をベッドからずり落としきった。両手を上げ、上半身をベッドに伸ばし、腹を出し、下半身が床に着地した状態で、彼は「げかい」と言った。きみは神なのか?

    彼は風呂に入り、水を飲み、私におやすみを言いに来た。お風呂から上がった、ひげのないちゅるちゅるほっぺは、確かにこの世のものとは思えない尊さだ。指でぷにぷに触っていると、頭の中でスピッツが流れる。

    「何かを探して何処かへ行こう」とか
    そんなどうでもいい歌ではなく
    君の耳たぶに触れた感動だけを歌い続ける

    なぜ「耳たぶ」なのか理解できずにいたけれど、「ほっぺ」に置換すればすっかり私の歌だった。天啓。「いまごろきづいたのか」と言い捨て、神は天界に戻った。

© 2026 川瀬紺 / Kon Kawase