Writings

New Essays Every Monday

  • ひとくぎり

    生活はつまらない。日記にしてもおもしろくない。そう思って5月から始めた私の日記。気づけば半年経っていた。

    書き始めて気づいたのは、捨てるものの多さ。事実列挙が嫌で心の動きも含めたところ、ただひとつの事柄で数行にもなった。それをいくつも組み合わせ、1週間分にすると、「誰が読むんだろう、少なくとも私は読まない」長さのものができあがった。たくさんのおもしろいことを取捨選択した。日記はおもしろいことがあるから書くのではなくて、書くから、おもしろいものが見つかるんだと思った。

    私と夫の日常をブログに載せると、生活がインターネットの波に飲み込まれるのではないか、思いがけない個人情報が出てしまうのではと心配していたことも、杞憂だった。読み返した文章に、私たちのことは1%も書かれていない。数分で読める用に切り取っただけの時間に生きていない。書いてないことや、あえて別のほうを書いてもう一方を隠したこと、声色、表情、光、匂い、暗黙知。どの日も当たり前に、日記よりも現実のほうが大きい。

    ちょっと日記を窮屈に感じるようになってしまった。枠を取っ払って、自由に書きたい。書きたいことがわんさかあるんだと気づかせてくれた日記という形、ありがとう。私の日記、ひとまずおしまい。

  • レシピは同じなのに、同じ味にならないことがある。たいていの料理は「まあいいか」とごまかしてきた。でも豚のしょうが焼きだけは許せなかった。中学生のとき、ケンタロウさんのレシピで初めて作ったときの感動が、週1くらいの頻度でばんばん再現されなければならない。思いも材料もあるのに、大学を卒業して以来なぜか同じものを作れない。バラ肉よりもロースを好むまで年月が過ぎてしまった。

    変化のきっかけは物価高騰だった。あれもこれも高い。野菜や魚や肉は買わざるをえないので、調味料を見なおした。「ん? 私、愛知の調味料で育ってないじゃん。実家になかったじゃん」

    社会人になって名古屋に来て、色気を出して買い始めたのが三河みりん。色が濃く、四角いビンに入っていて、お高い。「もしかしたらこれが原因かもしらん」と、なくなったタイミングを見計らい、黄色くて小さなボトルの本みりんを買った。

    ごま油で肉を焼く。しょうゆ、酒、水、砂糖、オイスターソース、白ごま、おろししょうが、そして黄色くて安いみりんを入れて絡める。長いこと会えずにいたしょうが焼きと再会した。千切りキャベツとマヨネーズが奏でるハーモニーは、まるで私たちを祝ってくれているかのようだった。料理家さんの本を読むと、上質な調味料を使う人と手軽に買えるものをすすめる人に分かれる。私は後者の弟子につく。

  • 11月6日(月)
    リスニングの教材として「新スタートレック」を見始めた。基本は英語音声と英語字幕。最近、日本語字幕が苦手になっている。「ああ、なるほど」「センスいいな」と思う作品もあるけれど、「ここを飛ばすのは手抜きじゃないか?」「たしかに、たしかに、要点はそれだけど、簡潔すぎやしない?」とか気にし始めるときりがない。たとえば、今日はある士官が艦長に”She left my quarters”と言ったのがわからなかった。quartersって何。ストーリーはわかる。文脈的に「部屋」っぽい。日本語字幕はどうなってるんだろうと確認したら、「出て行きました」だった。勉強にならない。辞書をひくと、複数形で「宿所、兵舎、軍事的宿舎」とあった。地味だけど英語で聴いて、英語を読んで、辞書をひく方法を続けるつもり。

    11月7日(火)
    Xのポストにたくさんいいねがついて、フォロワーがとても増えた日。このブログまで読んでいる人は多くないと思うので本音を書いておくと、あまり嬉しくない。鍵をつけた人や、タイムラインがリポストばかりの人が多くて怖い。自分の書いた言葉が、得体の知れないものになって浮いている感じ。何を求められているのかは知らないが、バズを再現しようとか実用的なことを書こうとか迎合せずに、いつもの自分でいようと思う。

    11月8日(水)
    ジムに行くのを再開した。本格的には1年ぶり。骨折やら手術やらで、行こうにも行けずにいた。普段、何かを習慣化するときのプログラム作成は得意である。会社の研修設計が専門だったので、目的を確認して、手段、目標、期間、手順、道具を決められる。挫折しないようなレベル設計もできる。体力を戻すのもその方法でやろうと思ったけれど、やめた。最短で健康を手に入れたくて、パーソナルトレーニングを申し込んだ。通っているジムの店長さんがボディビルダーで、パーソナル専門のお店より安い。朝電話して、夕方には受けられた。まだ始まったばかりだけど、正解だと思う。続きそうだし、健康になれそう。春までは、週1でパーソナル、週のどこかもう1日でセルフトレーニングの予定。

    11月9日(木)
    朝、私と夫は台所で会う。向き合って「おはようございます」と言う。彼が台所に来たとき、私はコンロの前でお弁当を作っていた。彼に向き合う。彼が腕を高く上げる。「頭をなでられるのかな、わくわく」と思っていたら、換気扇のライトをつけただけだった。向き合ったまま「むー」とふてくされていると、即座に頭をなでてもらえた。「私は頭をなでられてしかるべき存在」と自己肯定できるあたり、我ながら猫みたいだなと思った。健やかなメンタル。「むー」だけで私の意図を察知した彼もすごい。夜には昨日の筋トレの筋肉痛が来た。ちょっとした段差もきつい。それをおもしろがった夫が、私の行きたい方向に先回りし、自分のお尻を突き出してぺんぺんたたき、「早くここまでおいでよ、ひひひ~」と意地悪に言った。前言撤回。すごくない。

    11月10日(金)
    日曜日の文学の授業の予習をしている。短編を一度読み終わったので、わからなかった単語を細かく調べている。今日はsolutionがおもしろかった。「解決策」「解答」で覚えていたので、一読ではわからなかったけど、化学薬品の文脈では「溶剤」だ。辞書のいちばん下に載っていた。夕食の席で夫に共有した。こんな話に興味を持ってくれるのは彼くらいだ。それにしてもミルハウザーははずれない。どの作品もおもしろい。

    11月11日(土)
    昼食は牛丼にした。たれを作ったら、煮立たせないようにして、肉をしゃぶしゃぶのように入れて火を通す。食べながら、「久しぶりに松屋の牛丼を食べたいね」「でも注文&会計システムが粗悪だよね」という話で夫と盛り上がる。家の牛丼はどうしてもお店の牛丼の味に近づかない。食後しばらくして昼寝。起きてから、わからなかった単語を調べる作業の続きをやった。そのあと全体を読み直し。英語に触れていると気持ちが安らぐ。

    11月12日(日)
    文学レッスンの日。90分の予定なのに、いつも先生とふたりして時間が延びてしまうので、午後から午前に変更した。お昼になればお腹がすいて終えられるだろうとの算段。正確には、うちの夫が始まらない昼食に荒ぶることが予想された。私と先生は、今日こそ90分で終わるぞとテキパキした。今日の質問はあまり多くなく、ちょっとリラックスした雰囲気もあった。ふたりともいい具合に頭を使い、お腹をすかせた。最終的に10分オーバーだったけど、私たちにしてはすばらしい出来だ。「(ほぼ)時間通りに終わったよー!ごはん食べよー!」と夫の部屋に行ったら、ほたてチップスを食べていた。時間通りに終わると思ってなかったらしい。「えー」とがっかりしながら、1枚もらった。

  • 読書で疲れたり、だるくなったりする。
    たいてい、亡霊のせいだ。

    それは両親、特に母に似たキャラクターが出てくるとき。
    田舎の風景が広がるとき。
    いかにも昔ながらの男女像が描かれるとき。
    女性たちの井戸端会議が開かれるとき。
    ページが温和な母性や家庭で満たされるとき。
    酒や暴力に焦点が当てられるとき。
    亡霊がゆっくりと現れ、私の肩に手を乗せ、体重をかけながら、頭の中に侵入してくる。

    私は大切なことを忘れやすいので、自分に亡霊が訪れやすいことを忘れる。
    読書中の頭痛が激しくなったり、その日の眠りが浅かったりといった反応で気づく。
    医者は、なめらかなフラッシュバックと言う。
    今と過去、自他の境界線がなくなり、細胞が空気に飛散していく感じになる。

    読書好きな人が、「本が大好き」「昔から読書が避難場所だった」と言うのを聞くことがあるけれど、私は様子が違う。
    少なくとも、手放しに安全な場所ではない。

    春をして君を離れ 2023年3月

    相変わらず日本の小説やエッセイは読みにくい。
    光景の身近さや想像しやすさから、なめらかなフラッシュバックが起きやすく、読む速度が落ち、どうでもよくなる。
    ただここに来て(私にとっての)朗報である。
    英語力が上がった。

    中学からずっと英語は好きで、勉強していたが、この数年は読むのに行き詰まりを感じていた。
    文法はやった、英文解釈もやった、翻訳スキルもある、あとはなんだ、単語か、となり、こつこつ英単語を覚えてきた。
    合わせて、ネイティブの家庭教師を探して、細かい、本当に細かい疑問をつぶしてきた。

    すると今月、なんだかするする読めるということが起こった。
    聞くのもスムーズ。
    上達の突然の実感についていけない。
    昔からたまにこういうことは起こる。
    実感にTOEICは必要ない。
    ありありと、自分でわかる。
    上級レベルでもまだこんなふうに来るんだな、そしてこれが今まででいちばん強烈だなと思う。

    最近は、英語で読むといえばもっぱらミルハウザー。
    辞書は日本語とはいえ、翻訳を用意せず、英語に浸って読む。
    読み終わって、ああ楽しかったと思える。
    日本語の直接的な危険を英語では感じない。
    日本語で苦手だと思う描写も、英語だと外国語というバリアがあるらしく、まあまあ大丈夫だ(得意ではない)。

    私は実家から逃れるために大学に行き、今の場所に来た。
    私は日本語から逃れるためにずっと、英語を学んできたのかもしれない。
    英語を使うとき、私は安心していて、自由だ。
    英語で書いても、親族の誰にも伝わらなくてすむ。

    私にとっての英語学習は、ただ知的好奇心を満たすような勉強じゃない、言語的亡命だった。
    実体のない英語というものを、ぎゅっと抱きしめている。

  • 10月30日(月)
    肉じゃがを作ったら、じゃがいもが消えた。小さく切りすぎた。これでは「肉じゃが」ではなくて「肉」だわ……と落ち込む。おまけにストウブの底が焦げていて、落とすのに苦労した。失うものが多かった日。

    10月31日(火)
    病院と区役所、帰りに花屋へ。もうすぐ夫の誕生日。リクエスト通りにすると食卓が真っ白なので、せめてもの彩りにとオレンジのカーネーションを買った。花びらの中のほうと端とで微妙に色が違う。綺麗。今日はハロウィンだが、善行を積んでも悪いことをしてもお菓子をもらえなさそうなので、買い置きしておいたアイスを食べた。ら、夜、帰ってきた夫がハーゲンダッツをくれた。「これで1年間いい子にしてるんだよ」と言った。それにしては数が少なくない?と思ったけれど、言うとそもそも1つもくれなさそうなので、大きくたくさんうなずいておいた。

    11月1日(水)
    新米の日と決めていた。西塚農場から届いたつや姫。先月仕込んだイクラを思い出し、冷凍庫から出す。夫の好きな煮物を作ろうとして、そういえばストウブの焦げが残っていたことに気づき、重曹で掃除するところから始めた。結局長くかかりすぎて、別の鍋でかぼちゃの煮物を作った。そんな手間も、すべては新米のためと思うと苦じゃない。

    11月2日(木)
    ポトフを作ったら、じゃがいもが消えた。大きく切ったのに。夫はきたあかりが好きなのだけど、「それはもうよくないよ、溶けるよ、小さくたって大きくたって溶けるよ。煮物にはメークインにしよう。あーあ」と思いながら、リビングで彼の帰りを待った。会議が延びていて、英単語がはかどった。今夜のディナーは、キャベツとにんじんとウインナーのじゃがいもスープ煮込み。

    11月3日(金)
    リバティプリントの花柄ワンピースを買った。ずっと探していたyaecaのもの。見つかったとて、手が出ないお値段だろうと思っていたもの。古着でお安く手に入れた。

    11月4日(土)
    ワンピースが早速届いた。合うかドキドキしながら着て、鏡を見た。かわいい。ワンピース単独じゃなくて、ワンピースを着てる私がかわいい。布がたっぷり使われている丁寧な縫製で、スカートの部分がふわっと広がる。「ねえ、見てー」と夫を呼んだ。しばらく無言だったけど、「ぼくの好みです」と言いたげなほうの無言だと顔に書いてあった。だいぶ好みらしい。私たちは好みが似ていて平和でよい。ワンピースはもっと集めたい。その上で、自分で編んだニットを合わせたい。

    11月5日(日)
    夫の誕生日。朝5時に目が覚めて、トイレに行って戻ったら、夫が布団の中で起きていた。いつもと違う様子になんとなく、祝福を求められているように感じた。ゴールデンレトリバーにするようなイメージで、大きく彼をなで回しながら、「おめでとうね」と伝えた。プレゼントは4つ用意していて、3回に分けて渡した。パトリック・スチュワートの本のハードカバーとオーディオブック、部屋用のリラックマのパーカー、H TOKYOの刺繍入りハンカチ。パーカーは、耳付きフードと丸いしっぽがついている茶色い起毛タイプ。似合う。彼がかわいさを覚醒させたのは私に会ってからなので、この状況を義母が見れば「うちの息子にこんなの着せて」と苦言を呈しそうだけど、強調しておきたいのは、彼が照れながらも嬉しそうなことである。若いうちにしか着れないと思って買ったものの、おじいちゃんになって着ててもよさそう。

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