Writings

New Essays Every Monday

  • Do you remember when we were two beautiful birds?
    We would light up the sky when we’d fly
    私たちが2羽の美しい鳥だった頃を覚えてますか
    私たちが飛ぶと、空がキラキラ輝いたものです

    普段暮らしていて、夫を夫と思うことがない。
    出会った頃から「好きな人」のままだ。
    LINEが届いたら、「好きな人からだ!」と心がきゅっとする。
    それが「これからー(帰る)」という事務的なものでも、無料のスタンプの使い回しでも。
    どんなに作りこまれた本や記事や映像でも、「好きな人」の登場のほうが勝ってしまう。
    毎朝、顔を見れてうれしい。

    LINEを「好きな人から」と思うのは彼も同じらしい。
    昔のブログも今のブログも、携わっている仕事も、私の作るものにはいつも関心を寄せてくれる。

    You said you loved all the songs that I’d sing
    Like nothing that you’d ever heard
    And I said I loved you with all of my heart
    When we were two beautiful birds
    知ってる曲が全然ないのかと思うくらい
    あなたは私が歌う曲を全部好きだと言いました
    私たちが美しい鳥だった頃
    私はあなたに「大好きですよ」と言いました

    この曲を聴くと、こんなふうに過去形を使う日が来るんだろうかと思う。
    過去形であっても、思い出しておしゃべりの種にする日が、どれくらい続くんだろうか。
    過去形にならないまま、何かの拍子に消えてしまうことがあるかもしれない。

    今日も、無事に帰ってくるのを待っています。

  • 5月10日(水)
    夫が摘んできてくれた野花を一輪挿しに飾っている。もう2週間になる。花屋で買ったガーベラは10日で散ったのに。ベランダに出しておくと、水や花瓶の温度が上がるからか、すぐにしおれる。慌てて冷たい水を入れ替え、ほどよい日差しの入る窓辺に移動させると復活する。素直。

    5月11日(木)
    ジム。この前買った日傘をおろしたけど、風が強めだったのですぐに閉じた。長袖の選択も間違えた。暑かった。1時間、Netflixで「賢い医師生活」を観ながらウォーキングした。夏のうちに体を絞って、秋には美容皮膚科でメンテする作戦。今年は自分のことを好きになれるようにお金を使うのだ。

    5月12日(金)
    昆布茶で味付けしたエビチャーハンがおいしい。昼寝して、ショッピングモールへ。チェウォンが表紙のGINZAを買う。雑誌を発売日に買うなんてファンみたいだ(ファンなんだけど)。ガチャポンの密林で遊ぶ。パルムとHARIBOのミニチュアはいまいちだったな。猫のフィギュアがかわいくて、2回課金した。しれっと食卓に置いて、夫を笑わせよう。夕飯はキッシュ。白ワインと生ハムと一緒に出す。瞬く間になくなる。それなりに手間がかかった料理をぺろりとたいらげられるのは、嬉しさと切なさが交差する。

    5月13日(土)
    文学の個人レッスン。ミルハウザーのGetting Closerと、The Invasion From Outer Space。Getting Closerがめちゃめちゃいい。川遊びを楽しみにしていた幼い男の子。いざ川に入る手前で立ち止まる。水に入れば、楽しい日が始まってしまう。始まれば終わってしまう。時は過ぎ、人はいずれ死んでしまう。だから立ち止まったままでいたがる。読めてよかった。

    5月14日(日)
    夫と肉屋へ。大通りから行くルートと住宅街を通るルートがあり、初めて後者を選んだ。大通りルートが好きだと後悔した。家が延々と続くのは、進んでいる感じがなくて飽きる。家、家、家、家、家。いつか建てるなら見るのも楽しかろうが、先立つものがない。ようやく到着して、たっぷり買って、家で焼き肉会をした。

  • catch some Z’s
    直訳:いくつかのZをつかまえる
    意味:うたた寝する

    夫は寝るのがうまい。
    横になったら最後、すぴーっと眠れる。

    義理の母は、我が家を訪れて寝室が別だと知ったとき、眉をひそめた。
    昔の会社の先輩も、「え、新婚早々に別なの!?」と言った。
    「今どき、いろんな価値観があっていいじゃん」とは思いつつ、「寝る時間が違うので」と答えた。

    正確に言うと、眠るスピードが違う。
    一緒に寝ていた時期だって、なくはない。
    前の、もっと狭い家ではそうだった。
    私は夜、眠剤を飲んでやっと眠気が来るタイプ。
    「今日は仕事が楽しかったから、クールダウンするのに時間がかかるなあ」とか思ってる横で、彼は一瞬ですうっと寝息を立て始め、気持ちよさそうに夢の世界へ向かう。
    疲れているときは、いびきもかく。
    うらやましくて、いらいらして、うるさくて、焦って、彼の鼻をつまむ。
    それでしばらく止んでも、また始まる。
    今度は顔をぺちっと叩く。
    しばらく止む。また始まる。
    というか、生きてる以上、呼吸、寝息は当たり前なんだけど、こちとら眠れないのだ。
    顔をばちっと叩く。
    止まって、また始まる。
    いよいよ耐えられなくなって、ベッドから落とす。
    低いので、ごろんと床に転がる感じ。

    私の言い分は「うるさい」、彼の言い分は「ぺちゃんこにされる」。
    別々にするしかなかろう。
    それで幸せなんだからいいじゃないか。

    そのぶん、週末の昼寝が最高。
    お互い眠いときに、同じスピードで眠りに入っていけるのは、私にとって特別な時間。
    夜みたいに「寝なきゃ」モードじゃないのが、かえっていい。
    腕枕してもらって、抱きついて眠る。
    石鹸の匂いがする。
    開けた窓から入る風が気持ちいい。
    部屋の中がZZZZZZ……で満ちる。

  • 英文学の個人レッスンを受けている。
    月2回、アメリカ人の先生、日本在住、Skype、90分、学校のようなテストなし。
    事前に短編を精読しておき、質問や意見をまとめておく。
    レッスン日は、質問事項を解消でき次第、ディスカッションへ。
    文学と創作で修士号を取っている方で、普段は東京の大学や語学学校で教えていらっしゃる。
    その先生を独り占めできる、なんとも贅沢なレッスンだ。

    私はもともと大学で英米文学専攻にいたので、必修授業でひととおりの教育は受けている。
    文学と言語学、どちらのゼミを選ぶか迷ったあげく、言語学にした。
    2年を言語学に費やしたことに後悔はないけれど、もっと文学も学びたかった。
    それで、就職後も細々と読み続けていた。
    シラバスや教科書を捨てずに取っておき、学びの指針にしていた。

    独学に限界を感じたのは2年前。
    つまずいたときに打破できない。
    文法をやり直したり、語彙を増やしたりしてもだめだった。
    些細なこと、だけど物語を理解する上では大切なこと、辞書やインターネットで出てこないことを知る術が欲しかった。
    とても好きな作品に出会ったときに、熱量を共有して、意見交換できる相手が欲しかった。
    ちょうど、文学の少人数ゼミみたいな雰囲気の。

    ここで活かされたのが研修開発と企画の経験。
    自分に何が足りなくて、どういう先生を求めているのか、どこで探せばいいのかがわかっていた。
    大学の編入は、コストのわりに得られるものが少なそうだった。
    論文で証明したいものもないし、権威主義的な雰囲気は好きじゃない。
    大人向けの英語講座は、英会話か、TOEIC対策、易しめの本やビジネス本を読むものばかりで、私の求めるものと違う(英語を教えられる先生が、文学も教えられるとは限らない)。
    ないなら自分で作ろうと思った。

    Linkedinで、M先生を見つけた。
    歴史のある大学や語学学校で長年勤務しているところが信用できそうだったし、語学学校のウェブサイトで講座のチラシを見るに、文学がお好きそうだった。
    教師のかたわら、ミュージシャンをしているのもおもしろかった。
    ミュージシャンとしてのウェブサイトは、語学学校の硬いプロフィールとは違って創造性に富んでいて、柔軟に授業を作ってもらえそうな印象を受けた。
    問い合わせページからコンタクトした。
    私が何をできて、できないか、なぜM先生に声をかけたのか、読みたいものは何か。日時や授業料は交渉したいと書いた。
    すぐに返信が来た。長文だった。
    M先生はファーストコンタクトからおしゃべりだった。

    それが年明けの話。
    授業が始まってもうすぐ半年になるが、予想を超える、とてもいい先生に巡り会えたと思う。
    型にはまった、おごそかな感じの授業をしない。
    嫌いな作品は飛ばしていい。
    時間が過ぎても、気にしなくていいと言われている。
    リラックスして、ただただ文学の話をする。
    楽しい。先生も同じことをおっしゃる。

    先生に会うまで、私はあまり文学の英語が読めてないと思っていた。
    だけど先生に「ちゃんと読めてるよ、自信をもって」と言われて変わった。
    私がつまずくポイントには傾向があって、英語圏の学生ですら難しく感じる箇所や、アメリカ人としてのバックグラウンドがないとニュアンス想起が難しいものが多い。
    「なーんだ、英語学習者としては結構読めてるじゃん」と思えるようになると、肩の力が抜けて、作品そのものを楽しめるようになった。
    わからないことがあっても、自分を責めなくなった。
    師を見つけた。勇気を振り絞って連絡してよかった。

    先生からもらった言葉:

    In good times and in bad, in happy times as well as in sad, let’s live, laugh, cry, learn, and keep our hearts and minds open.
    いいときも悪いときも、嬉しいときも悲しいときも、笑って、泣いて、学んで、心を開いて生きていきましょう

  • アルファベットになりたかった。

    中学で英語を習った時、言葉というものを初めてまじまじと見た。
    aとpとpとlとeの組み合わせがapple、りんごになった。
    単語と単語の組み合わせが熟語や文になって、その組み合わせが段落になり、段落がまとまると文章になった。
    単独ではほぼ意味をもたないのに、他と組み合わさることで意味が生まれて、拡張していくのがうらやましかった。
    アルファベットみたいに生きようと思った。

    それでほいほいと言葉が好きになり、作文で褒められて調子にのり、大学では言語学を専攻した。
    高校までは、便宜上、次のふたつの意味は同じと教わる。
    A: Mary gave a present to Peter.
    B: Mary gave Peter a present.
    だけど実は、細かいニュアンスが違う。
    ピーターが贈り物を手にしたことを、Aは必ずしも含意しない。
    確実に届いているのはBのほう。

    言語学の先生が、「経済的に考えて、まったく同じ意味のものは存在しない」と言った。
    同じに見えるものは、同じに見えて些細なニュアンスが異なるか、どちらかが衰退の途中にあるみたいな話だった。
    「まったく同じものを存在させるのは、効率が悪い」
    「何かしらの差異に意識的でいなさい」
    違いゆえに存在できる、アルファベットの組み合わせたち。

    木曜1限で、1秒も遅刻せず、年8回のテストにすべてパスしなければいけない必修の授業。
    英語圏の学生でも苦戦するという、分厚い教科書をごりごり読む。
    犬を愛する先生で、例文は犬だらけだったが、試験の過去問にパターンはなかった。
    単位を取れなければ、どんな大手に就職が決まっていようと卒業を許可されない。
    「山手線で先生に泣きついてもだめ」という恐ろしい話だけが語り継がれた。
    私たちは必死でくらいついた。
    先輩も同級生も後輩も泣いていた。
    私は違う意味でも泣いていた。
    うつくしい世界だったから。
    アルファベットに近づけた気がした。

    就活で面接までこぎつけ、夢を訊かれたら、「アルファベットになりたいんです」と言った。
    人や仕事と組み合わさることで、意味や物語を作れる人になりたい。
    不景気で、それはもうばんばん落とされたけど、私が会社を、会社が私をおもしろがる縁に至った。
    人事部に配属され、自分の面接評価を見る機会があった。
    ある面接官は「とても優秀」、別の面接官は「とても変」と書いていた。
    私の評価はいつも、極端に振り切れる。

    今、アルファベットみたいに生きていられるのがうれしい。
    私の生活と仕事は、いい意味で境目がない。
    生活することが仕事になり、仕事することが生活になるような、かなり自由なもの。
    私の自由っぷりに触れた仲間が、その人らしさを表現して、のびのびと協働してくれる。
    真面目に話したり、けらけら笑ったりしながら、お互いに新しい意味を見つけたり、与えたりする。

    世の中にないものを作っているから、台本はもちろん、文法も辞書もない。
    失敗する確率のほうが大きくて、先行きは不安だけど、今月、今週、今日、今、楽しく「これをやっちゃおう」と思えることがあるのがしあわせ。
    そう思えるような人たちと、今のところ、たぶん、熟語や短文くらいまでは作れているのがしあわせ。
    胸を張れる、ひとつの物語まで辿り着きたい。
    読んだ人が解釈を広げて、また別の物語を作れるようなところまで行きたい。

©2024 Kon Kawase