Writings

New Essays Every Monday

  • 昔、足首をひねって骨折したから、道では、特に階段では急がない。駆け込み乗車もしない。出発した電車を見送って、次の電車が来るまで列の先頭で待つのが好きだ。遮音性の高いイヤフォンをつける。音楽はかけない。すーっと自分に潜る感じがする。

    その日はICカードのチャージ機が混んでいた。余裕で乗れるはずだった電車に乗れないと、ホームへの階段の途中であきらめた。階段をもう少しで上りきれそうだったとき、私の横を若いスーツの男性が通り過ぎ、発車する電車にすべり込んだ。それと同じタイミングで、中年くらいの女性が電車に背を向けて、ホームのベンチにゆっくりと腰かけるのを見た。彼女も彼のように走れば乗れたはずだった。私が「さては慌てていて骨折した経験があるのでは」と邪推しているうちに、彼女はかばんから毛糸と針を取り出した。私は少し離れたベンチに座って、太陽の光がまぶしいふりをしてうつむき、彼女の様子をうかがった。編みものが始まった。冬の正午、各駅停車の電車しか止まらない閑散とした駅で、太陽の光を受けて。美しくて見とれた。駆け込み乗車をしないところから特別な気がした。リズミカルに編む手つきも、編みぐあいを確認するために少し引いて見る仕草も、編みものに夢中になっているうちに緩んだマフラーを巻きなおすところも、きれいだった。

    あの風景をいつでも思い出せるようにここに書いておく。

  • 鶏肉とキャベツのビール煮込みを作った。からあげ大くらいに切った鶏もも2枚をフライパンで焼く。そのあいだに、鍋に油とにんにく、薄切り玉ねぎ2個分を入れて炒める。玉ねぎが飴色になったら、鶏ももを入れ、ビール500mlも加え、40分、ふたをせずに弱火で煮込む。キャベツのざく切り1/4~1/2ぶんを追加し、10分煮込む。塩こしょうで調味し、チーズを振ってできあがり。材料を鍋にほいほい放り込み、調味料の細かい計量もせず、ただビールと煮込むだけ。これで勝手においしくなるのですばらしい。

    食卓に出すと、夫が「よし。ぼくはいっぱい食べるぞ」と言いたげな顔をしていた。椅子の背もたれを使わず、すっくと姿勢よく座っている。発酵がいまいちゆえにしっかりめに焼いたコーンパンと、いつもよりいいワインをセット。

    お肉はビールの炭酸のおかげでほろほろしている。アルコールが飛んだスープは香ばしくておいしい。私がゆっくり食べながら「キリンビールにしたけど、マルエフもよさそう」と思っているあいだに、夫は手を止めずに食べ、スープを飲む。ぱくぱくぱくぱくぱくぱくぱくぱくずごー。ワインも飲もうぜ。雰囲気のいい会話とかしようぜ。

    「おなかいっぱい。あとは明日の朝ごはんにとっとこう」と言うので鍋を見たら、ひとりぶんしか残っていなかった。「ぼくがすくすく育つのが、紺ちゃんのうれしいことだよね」と言うような、きらきらした瞳。たしかにそう思っているし、どんな量であれ譲るつもりでいたのだけど、先を越されると何かふつふつと沸きあがるものが。

  • 「紺ちゃんのことが、うらやましかったんだよ」

    昔お世話になった年上の男性と食事に行った。会うのが久しぶりなので、どうしたって近況報告になる。今どういう仕事をしているか話した。相手の仕事、悩みなどを聞いた。

    私はとても疲れて、次の日寝込み、その翌日には風邪をひいた。なにかもやもしたものがあるが、正体がわからない。夫と友人に話を聞いてもらった。自分ひとりでは、そして弱っているときはなおさら、自分のことがわからないのだ。ふたりの話からするに、私は年上の男性にばかにされたようだった。そうか、私は傷ついていたんだ。

    年上の男性の悩みのことを思い出した。彼がお酒を片手にばかにしたものが、彼の悩みに対して必要なものなんじゃないかと思った。価値観が違いすぎるので、たぶん理解しにくかったんだろう。必要性もわからないんだろう。でもだからって、人を傷つけていいわけじゃない。

    考え方はいろいろあっていいけれども、私を傷つけるようなことは言わないでほしいとLINEした。既読スルーなので、きっとこれっきりだろう。残念なことなのか、喜ばしいことなのか、わからない。

  • 今使っている英単語帳を終えて、ストックしてある次の単語帳も終えたら、自分のレベルに合った、日本語で意味や説明が書かれている本がなくなる。本屋の、日本語で書かれた参考書コーナーに行くことがなくなる。必然的に、英語で書かれた英単語帳だけになる。

    大きな書店の洋書コーナーで見た単語帳は、ただ単語が列挙してあるタイプが多かった。日本語で書かれた英単語帳みたいに、記憶を助ける線や色分けが入っているわけではない。すごくそっけない。学習法の本質は変わらないだろうけれども、細かい変更は必要そうで、気乗りしない。そして日本に現物の在庫がない本も多いので、長期的に見てちょっと不便。

    Xでこういう話をわざわざ発信すると、嫌味に聞こえると思う。だからここに書く。「これで学びなさい」というガイドがなくなる世界は、自由だが、心もとなくて孤独だ。

  • イギリスの、家族経営の小さなスタジオで買いものした。注文完了のメールにこうあった:

    Thank you for bearing with us while we adapt to life with a baby! We are in the office dispatching orders 3 – 4 days a week. Thank you for supporting our family business!

    赤ちゃんとの生活に慣れているところです、ご協力ありがとうございます。私たちは週に3、4日出勤して発送業務をしています。私たち一家のビジネスを支えてくださりありがとうございます。

    ほのぼのした。SNSを見ると、4月にお子さんが生まれたばかり。もういくらでもごゆっくり時間をかけてくださいという気持ちになった。

    発送は遅めだし、届くのも国によっては6週間かかるとのことだったので、のんびり待つつもりでいた。「クリスマスまでに届くといいなあ」と思っていた。

    しかし品物は注文から1週間で届いた。トラッキングによると、税関は土日も仕事していた。みなさん、仕事めっちゃ速いじゃん! 届いたステッカー、大切に使う。

©2024 川瀬紺 / Kon Kawase