私の時間は蓄積しない。時間が蓄積する結果できあがる自己認識や自信が私にはない。自分になりそうなものをかき集めても、少しの振動で吹き飛ぶ。点と点をつなぐと線になり、それが通常らしいが、私は今ここの点だけだ。医者は「点として輝け」と言う。私は便宜上「私」と言っているが、「なんだ私って」といつも思っている。
言葉には表現のためのものと、伝達のためのものがある。前者は生み出すことが主目的で、人に伝わることを必ずしも目指さない。詩のようなものだ。後者は人に伝えるためのもの。私はもともと表現のための言葉が好きだ。上京して、周りの人たちがどうも伝達用を好んでいる、というか、それで社会が動いているらしいと気づき、適応のため伝達用も習得した。昔一度使っていて消して、去年再開したツイッターは、匿名の私の伝達用の言葉の連なりである。線になれない私が社会にいるための言葉を使って、線に擬態している。
点として輝く、表現の言葉を探索したい。人に伝えることばかり考えずにいたい。人に伝えようとする言葉のほうが、当たり前に人に伝わり、時にとても好まれるということは知っている。知ってはいるが。飛散する私のための言葉も欲しい。

Writings
New Essays Every Monday
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管理職になる準備の知らせが夫に届いた。私は同じ会社の人事部にいたが、今年から制度が変わったらしく、何をするかは謎だ。今年何かをし、来年もまた何かをし、結果管理職に上がるかもしれないし、上がらないかもしれない。
夫が私にくれる褒め言葉の数は5つである。いい、おいしい、好き、すごい、かわいい。夫は会社で人を褒めるのか? 3ヶ月おきの部下との面談で何を話すのか。夕食の席でシミュレーションをもちかけた。
私「今日はよろしくお願いします。今期の実績ですが……」
夫(目をきらきらさせて)「すごい!」
私「ねえ、部下、まだ仕事の話をしてないじゃん」
夫「他にもバリエーションがあるよ」
(目をきらきらさせて)「さっすが!」日常で部下に声をかけるとき、おはよう、おつかれ、いいね、すごい、さすが、の中から言葉を選ぶ未来がありありと見える。面談では、この5つの言葉に具体的な業務の話を巧妙に組み込み、褒め言葉の少なさをカモフラージュすると思う。そのどちらでも、彼にはユーモラスな余裕ときらきらした目がある気がする。いそがしいとなくなりそうだから、残るといいと願う。シミュレーションのときみたいに、けらけら笑い続けられるといい。
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第1幕
第1場
2LDKの部屋のリビング。18時30分。夫、荷物を携えて登場。
夫「ただいま」
妻、料理の手を止めて台所から登場。
妻「おかえり。どうしてこんなに早いの」
夫「今月は残業しすぎてて。調整さ」
両者、退場。
第2場
夫の部屋。夫、多くの機材に囲まれて、コンピュータをいじっている。
妻、登場。夫、手を止めて体を妻に向ける。
妻「ごはんができたよ。どうしてこんなに早いの」
夫「君に会いたくてね」
妻「合格」
両者、退場。
リビングからポトフの香りと、ワインをグラスに注ぐ音。
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sandman
直訳:砂の男
意味:眠りの精、睡魔安部公房が書いたのは『砂の女』で、私に最近しつこくつきまとうのは砂の男。
体のぐあいが戻ったので、ジムで筋トレを始めた。入会直後に足を骨折し、治ったころに別の病院通いになり、行けずにいた。本当にしっかりと体を作りたくて、付属サービスのパーソナルトレーニングを受けている。月曜にパーソナルトレーニング、筋肉の回復を待って木曜にセルフトレーニングというルーティン。しばらくはマシンの正しい使い方を覚える段階である。いちばん軽いウエイトで、10回×2セットだけやっている。
ただ、あまりに運動と無縁な人生だったので、料理で言えば塩こしょう少々くらいの量のトレーニングでも、しっかり筋肉痛が来る。そして眠気も来る。1週間のうち、はつらつと元気なのは筋トレ当日の月曜と金曜の15時までで、残りの5.5日はふにゃふにゃしている。
筋肉がついたら眠くなくなるんだろうか。レベルアップしても眠いんだとしたら、空き時間にトレーニングしているジムのスタッフさんもいつでも眠いということになる。それはそれでおもしろいが。
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生活はつまらない。日記にしてもおもしろくない。そう思って5月から始めた私の日記。気づけば半年経っていた。
書き始めて気づいたのは、捨てるものの多さ。事実列挙が嫌で心の動きも含めたところ、ただひとつの事柄で数行にもなった。それをいくつも組み合わせ、1週間分にすると、「誰が読むんだろう、少なくとも私は読まない」長さのものができあがった。たくさんのおもしろいことを取捨選択した。日記はおもしろいことがあるから書くのではなくて、書くから、おもしろいものが見つかるんだと思った。
私と夫の日常をブログに載せると、生活がインターネットの波に飲み込まれるのではないか、思いがけない個人情報が出てしまうのではと心配していたことも、杞憂だった。読み返した文章に、私たちのことは1%も書かれていない。数分で読める用に切り取っただけの時間に生きていない。書いてないことや、あえて別のほうを書いてもう一方を隠したこと、声色、表情、光、匂い、暗黙知。どの日も当たり前に、日記よりも現実のほうが大きい。
ちょっと日記を窮屈に感じるようになってしまった。枠を取っ払って、自由に書きたい。書きたいことがわんさかあるんだと気づかせてくれた日記という形、ありがとう。私の日記、ひとまずおしまい。