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New Essays Every Monday

  • 夫がフライパンで肉を焼いている。私は付け合わせの野菜を切り終えて、まな板と包丁を洗い、定位置に戻した。あ。トマトを切り忘れた。まな板と包丁をまた取り出し、冷蔵庫の野菜室をのぞく。トマトがない。そうだった。昨日食べたじゃん。野菜室を閉める。まな板と包丁の前で、うーんと思う。せっかく出したのに。食べたかったのに。彩りが綺麗になるはずだったのに。うー。

    と5秒くらい停止していたら、夫が「トマトないの?せっかく(まな板と包丁)出したのに。愚か」と言った。私は何も言葉を発していなかったので驚いた。おうおうおう、どうしたと思った。私の行動の果ての沈黙に、たったの5秒で返してきたのがすごい。落ち込みは突然笑いになって、まあいっか、トマトなくても、となった。

    何気ないことを見てくれていて、何気ないことを絶妙なタイミングで言ってくれる人がそばにいるということのよろこびを噛みしめた。

  • 体調がものすごく悪くなったとき、体の細胞が飛散していくような、ふわっふわの浮遊感におそわれる。いつでも自分で出せる処方箋は寝ることだ。朝の11時だろうが、夕方の5時だろうが寝る。しばらく経つとましになる。

    浮遊感が平日の夜、あるいは週末、つまり夫が在宅のときに起こった場合、私はすぐに彼の部屋に行き、強く抱きしめてもらう。そこにロマンティックな雰囲気はない。おたがい「はいはい、いつものやつです」という感じで、事務的に、がしっと抱きしめる/抱きしめられる。しばしそのままでいる。そうすると、飛散した細胞がもとに戻っていくようで不調が和らぐ。私は安堵し、「じゃ」と軽く礼を言って去る。

    この場合の私を、彼は「体目的の極悪人」と呼ぶ。落ちつくためにぼくの体を利用しに来る、極めて体調の悪い人、の意味だ。私は確かに「便利な存在」として彼を利用している。結婚10年で磨いた冗談めいた薄情さも含まれている、ぴったりな表現だと思う。できるなら、真人間になりたい。シャバにいてまともな生活を送りたい。でもだめなんだ、できねえんだよ。俺は根っからの極悪人なんだ。俺が極悪人だから、お前の尊さが輝くってもんさ。これからも仲よくしような。

  • メンタルクリニックに通っている。主訴は睡眠障害だ。わりとゆったりとした病院で、30分から1時間くらい、最近のことや昔のことを話す。他の病院ならたぶん、カウンセラーが別途保険適用外でおこなうようなことを、先生がやってくれる。あるとき、「きみはハラスメントコレクターだね」と言われた。

    大学1年生のとき、教授Aが所属する学会に誘われた。なんでも勉強だと思って入ってみたはいいが、大学1年のぺーぺーにもわかるくらい学会のレベルが低すぎた。でもそんなことは言えず、1年は様子を見た。そのうち、準備や片付けなどで教授Aとふたりきりになることが多くなり、食事に誘われる。とりあえず教授ってすごい人なんだと思っていたので断れない。私が話したアイデアを論文にしたのを見て、やっぱりおかしいと思って退会した。彼はのちにセクハラで訴えられて失職する。

    大学のある集まりで飲み会があり、下ネタで盛り上がっていた。私は言葉の意味はわかるが、それで盛り上がる意味が理解できず、騒ぎが度を越したあたりで泣いた。すると言葉の意味がわからずに泣いた純粋なやつだと解釈されたらしく、後日、男性の先輩から言葉と意味のリストを送られた。

    カフェのバイトの副店長は、自分の好みの人間にはやさしく、他には高圧的にあたる人だった。副店長だが店長よりも歴が長く、技術もあるので牛耳っていた。私は彼女好みの人間ではなく、耐えた。さすがにひどいなと思って店長に相談していたら、好意があると曲解され、妻子持ちなのに告白された。

    内定式の夜は事務系総合職6人で名古屋に宿泊した。修学旅行のようにひとつの部屋に集まり、酒を飲み、仲を深めた。が、あるときから下ネタパーティーに発展し、私は例によって嫌悪感を抱き、早めに自室に戻った。純粋なやつターンが再来し、そのことで嘲笑され続けることになる。

    配属先は人事部だった。直属の上司と先輩は、今思えば眩しいほどに、典型的なパワハラオンパレードを提供してくれた。私は奨学金返済のため辞めることができず、というか会社ってこういうものだと思って泣きながら働いていたが、数年後他部門からの異動者に「ねえ、紺ちゃん、あなたがされてることってパワハラだよ」と言われて異常さに気づいた。

    海外出張によく行った。会社はコンプラコンプラと口酸っぱく言っていたが、海外工場は治外法権だった。女性だからスムーズに行った打ちあわせが何度もあった。飲み会では女性を侮蔑する発言を何度も聞いた。社内にいろいろなキャリアがある中で、私は工場と関わる仕事が好きだったけれど、旧時代的な価値観に嫌気がさし、転職した。

    名古屋の会社から、岐阜の会社に転職した。取引先の男性たちが、海外工場で会った男性たちと似ていた。媚びるように私のプレゼンを聴こうとするのに、酒が入ると「女に何ができる」みたいな話をされた。相手は客なので、何も言えない。物事の核心をついて言語化することが私の仕事だからと、一時期はその豹変っぷりを楽しく分析していたが、パターンが同じでじきに飽きた。

    というのが、私が受けたハラスメントの一部である。別に宝物でもないので、コレクションではないんだけど。セクハラ、アカハラ、パワハラ、カスハラ、ジェンダーハラスメント。そのときに気がつかなくて、あとから思い出して「ああそういえばあれはハラスメント」と気づくことも多い。私はハラスメントを受けやすいのにすぐに気づけない、ということを医師に教えてもらった。今は経験と知識があるので、昔よりは受けにくい・すぐ気づけると思う。

    ハラスメントがなかったら、あっても気づいてすぐにNOと言えていたら、私の大学生活や会社員生活は違っていたのかなあと思う。今、大学院を目指しているのは、大学生活をやり直したいのもある。次こそアカハラとセクハラに気をつけて研究を楽しむつもりだ。

  • 読んでいる本に”credit-card terminal”とあったので困った。何。クレジットカードの終点? なんだろう、期限が切れるのかな。なんかすごい絶望的な状態なのかな。でもそういう文脈じゃないし。主人公がいるのはスーパーマーケットだし。

    辞書を引いたら、名詞の3番目に「端末」とあった。なるほどねー。ん?なんで終点と端末を同じ単語で言えるの?

    ふと思い浮かぶあいつ。あいつは絶対知ってる。あいつは絶対に、「ふっ、そんなことも知らないの?」と挑発的な目を向けてくる。しかし私はあいつが好きだ。仕方ない、聞きに行ってやろう(えらそう)。

    私「ねえ、credit-card terminalの意味わかる?」
    夫「うん」
    私「なに」
    夫「端末でしょ。ぴっとするやつ」
    私「どうしてterminalなの。終点と端末が同じ単語ってなんなのさ」
    夫「システムの末端部にあるのが端末なんだよ」

    おお。そうか。カード会社の巨大なシステム。そのいちばん端っこにいる無数の端末たち。

    私が苦労して覚えた単語を自慢げに「ねえ、きみ知ってる?」と聞くとき、「うん。○○でしょ」と軽やかに返されることはよくある。どこで覚えたのか聞くと、だいたいコンピュータの用語か、スタートレックか、宇宙で探検したり戦闘したりするゲーム(全部英語)かである。むう。くやしいので、そこに絶対出てこないだろう単語をクイズにして、答えられない顔に「え、知らないの?」と言ってやる。心の狭い私は、人間としての末端にいるような気がしてならない。

  • 野菜と肉を焼き、ソースを作り、パンとお酒を合わせれば夕食になる。野菜と肉は特売のもの、ソースは基本的な調味料を混ぜたもの、パンはたくさん作って冷凍しておいたもの、ワインはミニボトル。このパターンのディナーは、私にとって手抜きバージョンだ。肉は2人分で300円なのに、ワインは500円なのに、なんだかそれなりに見える。

    手抜きは、なぜか罪悪感を伴う。夫に「手抜きでごめんよ」と謝った。彼は「いいや、ごちそうだ」と言った。私が「そうか、この人は値段とか労力で判断しないんだなあ」と思っていたら、彼は「紺ちゃんと食べるごはんはごちそう」と付け加えた。

    私が料理をしているあいだ、彼も手伝いつつ、テーブルにカトラリーを並べたり、グラスやお酒を出したりする。そのタイミングでひそかに、透明でやわらかい手織りのテーブルクロスをかけているんだと思う。そういえば、夕飯は何を作ってもおいしい。いっしょに食べるとおいしい。

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