近頃ずっと、「文学研究における生成AIのメリットとデメリット」を考えていた。院試の過去問にあったから。こういう問題が来そうだなと思っていたら出たので、私が受けるときにはたぶん出ない。でも自分で考えておきたかった。
ある人たちは、AIに否定的。人間の想像力や創造性が奪われると言う。ある人たちは、技術進歩や業務改善に好意的。未来の話で盛り上がる。私は、多くの人が同じような論理や言葉遣いで何かを言うときに、「ん?」と立ち止まる。自分で考えて言葉にしたくなる。
AIを忌み嫌うのも、AIをもてはやすのも、私はどちらも極端だと思う。AIはただの便利な道具のひとつで、そのうちインターネットと同じくらいのものになるんじゃないか。専門外の人たちからすればブラックボックスで、怖くて保守的になるのもわかる。専門の人たちがこぞって口にするキーワードとはいえ、すべての問題を解決するようなすんばらしい技術でもない。ただの道具だ。
人間はAIの奴隷になってはいけないとよく聞くが、じゃあAIが人間の奴隷になるのはいいのか。AIを過去の情報と統計による集合知としたら、それを作っているのは人間なので、人間Aグループと人間Bグループがどちらに上に立つか、支配するか云々の話をしているように見える。
「この作品を翻訳してください」と指示すれば、人間よりもはるかに速いスピードで訳してくれるだろう。文学作品と批評理論のいくつかを組み合わせて指定し、トップジャーナルの掲載基準を分析したうえで、「それに値する○○字の論文を書いてください」と言えば、書いてくれるのかもしれない。文学部はそもそも飯を食えんと言われている場所だ。え、AIあったらやっぱり文学部いらないじゃん、って思われるのが自然だ。長い文章を読むのも書くのも面倒くさい学生が、AIに任せてレポートを書く。それを採点する指導者はうんざりする。何のために大学で学ぶんだろうね。何のために読んだり書いたり教えたりするんだろうね。何のために生きてるんだろうね。ってか人間って何?
と考えたところで、夕食の時間になった。エンジニアの夫に話す。彼はAIを特別視しないタイプのエンジニアだ。時代の変化には抗わない。波に乗るように生きる。まず自分の夢中になる技術があり、だいたいはそれに集中している。AIなど、新しいものや流行りのものが便利な場面があれば柔軟に取り入れる姿勢。「紺ちゃんの話ってさ、別に文学研究だけに限らないよね。ぼくの仕事も、他の仕事も、AIに任せれば人間がいらなくなると思う」と言った。
「この業務を改善してください」と言えば、人間よりも速いスピードでやってくれるだろう。音声データがあれば議事録は自動でできる。クライアントの課題と最近の動向データを組み合わせたプレゼン資料も作ってくれるだろう。何のために仕事するんだろうね。何のために生きてるんだろうね。ってかやっぱり人間って何?
そこで気づいた。時代の変化を前に、人間は期待もすれば不安にもなる。私の手元にあるものって、私がいる場所って、私って、何の意味があるんだろう、という問いが誰にでも浮かんでくる。文学研究は、とりわけ自己不信に陥りやすい場所なんじゃないだろうか。AI登場の前から、社会の役に立たない、意味がないと言われてきた。いわゆる「役に立つ」研究分野の人たちよりも人数が少ないし、お金も少ない。足元がぐらぐらしていて、先は暗くて見えない。
文学は、人文学だ。 Humanitiesだ。人間のことを考える。言葉や倫理や社会や文化のことを考える。何がAIと人間の境界線なのか、人間の集合知たるAIをどう使いこなすべきかを考える。新しい技術の登場で人間が分断されないように考える。役に立たないと言われながら、自己批判しながら、自分を信じ、自己肯定の延長線上に人間の肯定があるように努める。
他の人の定義がどうであれ、私はこれを自分の文学研究の指針にする。ニヒリズムに陥らないように、自己批判と自己肯定を繰り返しながら、人間でいる。生活する。人間として他の人間と関わる。人間が人間でないように扱われるようなことに抗議する。分断が起きている場所に何か打開策を作ろうと頭を使う。新しい技術と人間の共存を、その危険性をふまえて考える。
あ、「文学研究における生成AIのメリットとデメリット」からは少しずれたな。