棒読みロマンティック

私「月が綺麗だね」
夫「紺ちゃんのほうが綺麗だよ」
綺麗なものを見たときの会話文として、あらかじめ彼の頭に登録してあるものだ。我が家の決まり。

彼は褒め言葉の語彙が少ない。いい、おいしい、すき、すごい、かわいい、以上。言葉じゃないもので感情表現する人だと気づくまでは、たくさんけんかした。今なら、出したピザが一瞬で消えることがどんな言葉よりも雄弁だとわかる。ただ、こちらとしては、普段と違った感じのお酒やお花を用意して、おしゃれもして、彼の帰宅を待っていたのである。たいした会話もなくピザに集中されると切ない。

月を見るとき、彼はオタクっぷりを発揮することが多い。お気に入りの単眼鏡を取り出して、ピントを合わせ、「ほーら見てごらん」と私に言う。たぶん彼の思考としては、「好きな人と月を見る」→「それならしっかり月面が見えなくちゃ」→「スペックのいい単眼鏡を選ばなくちゃ」→「よーし今が使いどき。一緒に見るぞ」なんだけど、一緒に月を見るというのはそういうことじゃなくて、いや、そういうことがあってもいいんだけどそのまえに、なんか雰囲気を作って楽しむものだと思う。

ということで、私が「綺麗」という言葉を使ったら「紺ちゃんのほうが綺麗だよ」と返しましょうという約束をした。私が憧れていた、気の利いた台詞だ。具体的・技術的なところに行くまえに、隣の私に意識を向けよとの要請である。年季が入り、彼は今や憎たらしく棒読みで言う。いわゆるロマンティックな雰囲気とはちょっと違う。ふたりでけらけら笑ってしまう。これはこれでいい。

中秋の名月の日。満月になる時刻に、私は自分の部屋の窓を開けて月を見ていた。彼がタイミングよく帰ってくる姿が見えた。配置的には「ロミオとジュリエット」だけど、まあそんなやりとりは期待しない。夕飯前、一緒に月を見た。「綺麗だねー」と言ったら、彼はいつも通り、定型文を棒読みした。