ホカンスは、「ホテル」と「バカンス」を組み合わせた言葉。ホテルを目的地にして、ホテルの設備やサービスを楽しむこと。私たち夫婦が好きなのは、自宅からアクセスのいいお気に入りのホテルに泊まり、いっしょにDVDを観て、ルームサービスを頼み、足を伸ばせる大きなお風呂にゆっくり浸かる過ごし方。
夫はこの春から6月末まで、社外の大きなイベントに登壇する準備でいそがしかった。事前の打ち合わせ、プレゼンの紹介文やスライドの作成、時間内に話すためのリハーサル。並行して通常業務とそのトラブル対応もしていたので、泡を吹きそうな感じで、時に気持ちの余裕がなくなる日や、眠りの浅い日が続いていた。私と言えば、6月中旬からゆるゆるモードで新しい生活の計画や移行をしていた。
イベントが終わったあと、彼は「紺ちゃんとゆっくりしたい!」と言った。休みたいのは本音だろうけども、長いこと目指していたことを取り下げた私への気遣いも確実に感じた。ゆっくりしよう。そうだそうだ、ゆっくりしよう。ついでに結婚記念日のお祝いも。
私たちには嫌いな物事がたくさんある。遠征旅行。海外旅行。牛・鶏・豚以外のお肉。おしゃれな野菜やハーブやスパイス。コース料理。外食のドリンクの料金設定。ユニットバス。騒がしい場所。眩しい空間。重い荷物。
2年前に初めてホカンスをした経験を思い出し、改善点を挙げた。メーカー勤務者らしく、休日の予定すらカイゼン思考のスイッチが入る。
2年前と同じホテルの、同じタイプの部屋を予約した。おたがい、くたくたに柔らかくなったルームウェアを持っていく。すっぴんで過ごすので、着飾るための荷物がひとつもいらない。家の延長線上のような、リラックスした雰囲気。
私たちのホカンスは、事前の買い出しが重要。なんでもかんでもルームサービスにするのは値段が張る。ドリンク、サラダ、フルーツを成城石井で手に入れる。前回のホカンスで買った「シュリンプカクテル」は、おいしかったけど高かったので、今回は自作に。家からスイートチリソースとお皿を持ってきて、イオンでゆでえびを購入。ホテルの朝食は高いから、パン屋で買っておく。
部屋に到着するなり、ルームウェアに着替えて、照明を少し落とす。このホテルは、部屋が広くて、椅子が3つあるところが好き。ひとつは物書き用のデスクチェア。残りのふたつはテーブルを挟んで設置されたシングルソファ。シングルソファを大画面のテレビの前に移動させて、お茶を淹れ、ずっと観たかったお芝居のDVDを観る。三谷幸喜のコメディー。枕をクッション代わりに抱きしめて、ふたりでかじりついて観る。私が声を出して笑うタイミングと、隣の彼の吹き出すタイミングは違う。彼が笑うと、私はすかさず隣に顔を向ける。いつもクールなのに、「思わず笑っちゃった」って感じでかわいい。

ルームサービスは、メインディッシュを中心に頼んだ。高価すぎないグレードのステーキ、なすの入ったボロネーゼ、それとフライドポテト。部屋のチャイムが鳴って、ルームサービスのカートが運ばれてくるのは気持ちが上がる。特別!って感じがする。コナンの見過ぎで、カートの下に侵入者が隠れていないか確認する。テーブルをセッティングして、フロアライトの位置を調整する。カーテンを開けて夜景を広げる。


有名な観光地の圧巻の夜景ではない。いつも暮らしている街の、平凡な夜の風景だ。港の観覧車のライトアップは21時ごろに消えた。料理はすぐに冷める。ホカンスの熟練者からすれば、なんだか地味目なホカンスなのかもしれないが、私たちには十分すぎる。普段どおり、いっしょに手を合わせて「いただきます」と言う。静かな場所で、大きな窓から見える夜景を楽しみながら、おたがいに料理を取り分け合って、お酒を飲み、会話する。
食事を満喫したあとは、眩しい光の電車に乗って帰る必要もない。酔いを醒ましたら、大きなお風呂にお湯をためて、いつも使っているバスソルトを溶かして入り、足の指を開いてぐっと伸ばす。パジャマを着て、スキンケアして、髪を乾かして、広いベッドに飛び込む。

久しぶりによく寝た。早起きして朝風呂の予定が、寝坊してしまったので、朝食をリッチにすることにした。ホカンスだからできる、朝ごはんのためのスタバテイクアウト。店に行き、ドリップコーヒーとラテを注文する。部屋に戻り、タンドリーチキンのサンドイッチ、タマゴサンド、ブルーベリーのデニッシュを分けて食べた。夜に撮った写真を見ながら、窓からいつもの街も眺める。水色の空。

私たちのホカンス。私たちのなつやすみ。短いあいだ、私たちの足の大きさのぶんだけ背伸びする。