春をして君を離れ

読書で疲れたり、だるくなったりする。
たいてい、亡霊のせいだ。

それは両親、特に母に似たキャラクターが出てくるとき。
田舎の風景が広がるとき。
いかにも昔ながらの男女像が描かれるとき。
女性たちの井戸端会議が開かれるとき。
ページが温和な母性や家庭で満たされるとき。
酒や暴力に焦点が当てられるとき。
亡霊がゆっくりと現れ、私の肩に手を乗せ、体重をかけながら、頭の中に侵入してくる。

私は大切なことを忘れやすいので、自分に亡霊が訪れやすいことを忘れる。
読書中の頭痛が激しくなったり、その日の眠りが浅かったりといった反応で気づく。
医者は、なめらかなフラッシュバックと言う。
今と過去、自他の境界線がなくなり、細胞が空気に飛散していく感じになる。

読書好きな人が、「本が大好き」「昔から読書が避難場所だった」と言うのを聞くことがあるけれど、私は様子が違う。
少なくとも、手放しに安全な場所ではない。

推理小説に夢中になり、コナン・ドイルからアガサ・クリスティに移ったときのこと。
ハヤカワの新訳の装丁が綺麗で、むさぼるように買って読んでいた。
体調の波が激しくなった。
てっきりクリスティの筆力がすごくて、私に大きな感動を与えているのだと思っていた。
とはいえ、読んでいるのは推理小説だ。
トリックに驚くことはあれど、感動が過ぎる話はない。
「はて?」と読書日記を開いてわかった。
ポアロは安全だが、マープルは危険。
イギリスの田舎で、老齢の女性が、井戸端会議でのおしゃべりと会話分析で事件解決するという設定と構造にダメージを受けていた。

ポアロでもマープルでもないが、『春をして君を離れ』はクリスティの中でも特大の爆弾だった。
賛辞の書評を読んだからといって、タイトルの日本語訳が美しかったからといって、飛びつかなければよかった。

クリスティで無意識の事故に気づいてから、私は慎重な読者になった。
亡霊がいかにも出ます、という本は選ばない。
出てきそう、出てきてしまった、という本はいったん閉じる。
ゆっくり読んだり、他の本と併読したり、どうしても無理なときは読むのをやめて売ったりできるようになった。

これまでの読書歴を振り返って、実は安全なものに惹かれていたこともわかった。
海外の本が好きなのは、距離があるからだと思う。
日本の本をあまり読んでこなかったのは、近いから。
海外の、基本的に一人称で展開する話とか、哲学を好む傾向に気づいたときは、笑った。
なんとか生き延びようとしてきたんだろう。
読書は手放しに安全な場所ではないけれど、傷つくのがデフォルトで探せば、安全な場所があるらしい。

春は父が亡くなった季節。
母が私を産んだ季節。
私が母と断絶した季節。
離れたいから、ついてこないでほしい。