にんじんを食べられる人に憧れて、試行錯誤してみる。嫌いとわかる。私の行動の基本パターンだ。
たとえば「普通」と呼ばれるもの、「レール」「慣習」みたいなものにまず近づく。そこに安住できればいいなと思いながら、そう考えている時点で、たぶん合わないんだろうな、という予感はどこかでしている。
それは「私はこういう人間だから」を強化するために、合わないと結果が見えている場所や方法にわざわざ近づいているのではない。私にも合う場所・ものがあればいいなとは心から思っている。都度、過去の記録をリセットして考える。だから新しい場所・ものに向かうたびに緊張する。私はそこで、何を感じるのか。
入ってみるのは、旅か、潜入捜査みたいだ。そこにあるものと自分の反応や機微を観察して、「私が好むのは〇〇ではない」という些細な否定文の集積を持って帰る。収穫は、スーツケースぱんぱんなときもあれば、ジーンズのポケットで充分なときもある。
この前初めて会った人は、私の憧れを話したら驚いていた。「ではない」の集積を生きているからだろう。指導教官も、最初は不思議そうな顔をしていた。メール、論文、授業の発言、会話が、いわゆる学生のそれとは(私が意図したことではないけれど)外れているのに、本人が慣習的なものに憧れているのだ。私が今後の見通しについて相談すると、言葉を濁される時期が続いた。
11月、大学とは別に取り組んでいた潜入調査を切り上げた。お金は払っていて、まだチケットが残っていたけど、私の求めるものと決定的に違うとわかって途中で止めた。それも含め、去年の後半に学んだことを整理して指導教官に送った。
“I realized that it’s finally okay to admit that I am not a conventional person. I am an unconventional student under an unconventional supervisor, using a conventional system unconventionally. I had always learned the conventional patterns first and then always deviated from them. I was confident that this time too, but I never expected to stop so soon.”
「自分が慣習的な人間じゃないことを、ようやく認めていいと気づきました。私は従来のシステムを型破りに使って、型破りな指導教官のもとで学ぶ、型破りな学生です。私はいつも慣習的なパターンを先に学び、そのあといつもそこから逸脱してきました。今回もそうなるんだろうなという自信はありましたが、こんなに早いとは思わなかったです」
会ったとき、彼は「今までの話の意味がわかった」と言っていた。 “You can’t ‘enter’, right?”(紺は、入れないんでしょ)と加えた。 “enter”は、入る動作のことじゃない。入った先の場所にとどまること、とどまれること。
私はとどまることができない。いつも “try to enter” に終わる。実体験で消去法を進めていく。
英語を学び始めて、もう数十年になる。スタンダードを目指して学ぶこと、正解の英語の習得を追い続けるのは、そういえば私の目的と乖離すると気づいた。先生に話したら、「イギリス英語には、もうだいぶ前から、スタンダードという考え方がない」と言った。紺、気づいたね、みたいな顔で。きっと、勉強し続けたから気づけた。でもその年月のぶん、逸れるのは怖い。
私が毎日できるだけつけているハビットトラッカー。習慣作りをうまくやりたいゆえのものじゃない。「ではない。じゃあ何?」や、緊張、不安、怖さ、疲れでいっぱいの生活の中、自分の「いつもの」をもつための、せめてもの規律だ。壁にぶち当たって、その反動で次の壁に向かって行くしかできない私の基地。
同じことばかりしている。
うんざりするくらい、同じパターン。
私の来た道を俯瞰して、 “connecting the dots”ができるなら、それは壁に開いた穴やへこみだ。
