2026年5月、私を通過した読みもの

今月の本棚を眺めると、タイトルよりも著者の名前が大きく印刷された本があると気づく。トワイラ・サープの本は彼女の名前のほうが大きい。舞踏家の心身管理の話。2011年初読から、私も彼女も年齢を重ねた。その距離は変わらないのに、彼女の近影は昔よりもかっこよく見える。私のロールモデルのひとりは、株主に洗練されたプレゼンテーションするような起業家でもなく、プラダを着た悪魔でもなく、自分のスタジオでトレーニングを続けるトワイラだ。週に1度、エッセイを発表し、ニュースレターを送ったあと、また書斎にひとりでこもるような。

ハントケコレクションは、彼がノーベル文学賞を獲ったから出たものだろう。長らく絶版だった「幸せではないが、もういい」をようやく読めた。自殺した母親の人生を書き綴ったもの。285ページの、「けれども私は、それは違うと確信している」という、「確信」のところでだけ、急に頭痛がした。彼がなぜそう思ったかを、おそらくわかっていて書かない選択をしたように、私もなぜ頭痛がしたかをおそらくわかっているけどここには書かない。同じ本に収録された、「長い別れのための短い手紙」は、「幸せではないが、もういい」と違って、読み終わるまでに時間がかかった。語り手がいろいろなことを考え、話し、出来事や他者を通過しながら進んでいくのだが、どこに行けばいいのかよくわかってない浮遊感に私も飲み込まれ、なんだかだるいような、でも先に進まなきゃいけないんだ、何かがこの先にあるのはわかってるから、みたいな時間を過ごした。ソファで足を組み替えたり、体育座りでのぞきこんだり、途中で休憩のつもりが昼寝しすぎたりして付き合った。楽しくないのに読ませる吸引力。読み終えて、やっと終わったと思った。それから2日して、メモした言葉のいくつかがつながり、言葉以前の何かになり、置き配の荷物のように私に到着した。夫は絶対にこの作品が好きじゃないと思う。

『本なら売るほど』の新刊を読み、1巻目の、本の葬送を思い出す。本好きだった人が亡くなり、残った本の処分を頼まれる古書店主の話。「処分」の言葉だけが強烈に残り、強制収容所のことが浮かび(この時点で、もうマンガのことは頭にない)、何か読もう、そういえば小川洋子が話していたことをもう一度聴きたい、ハントケのあとならたぶん昔と違って聞こえるはずだ、と連想する。『物語の役割』で言及されていた「リンデンバウム通りの双子」を収録した『まぶた』が絶版で、大学の図書館にもなく、『フリードル先生とテレジンの子どもたち』は大学のどこかの研究施設にはあるが行ったことなくて面倒、というか最近暑くて新しい場所に行くのが億劫と相成り、大きな本屋で買った。古書店の店主が大量の本を日没までに査定して、買い取るぶんを精いっぱい箱に詰めたこと。双子の兄のカールが、花束を作ったり、チョコレートの包みを雨に濡れないように胸に抱える手つき。初期バウハウスで活躍した芸術家のフリードル先生が、収容所に向かう前、色紙や布やクレヨンをトランクに詰め込んだときに考えていたこと。

『海が走るエンドロール』が完結した。夫と死別後、美大生になって映像を専攻する主人公。65歳。彼女の周りにいる若い同級生との空気がうらやましいと思っていたら、彼らが食べていたすき焼きが食べたくなり、わざわざ少し歩く肉屋まで行き、夕食をすき焼きにした。大学の授業で知り合った若い学生からLINEが届いて、ああ、うらやましいとかじゃなく、私も大学に通い直しているんだったと思い出す。「文学のことよくわかんないけど、詩を授業で読んでみたらめっちゃおもしろかった」と話すその人は、目下、試験期間中だ。就活と留学準備も並行していて、うがー(叫)みたいな感じだが、こちとら他人だし、年が離れているのもあって、呑気に見守っている。6月に会う約束をした。