論文が、指導教官からの高評価を受けて帰ってきた。「完了とみなすけど、もっと〜についても読んでみたかった」との付記があった。一旦、「え、いやです(ここまでで精一杯なの見てましたよね?そんな無茶振りしないでください)」と返した。が、締め切りまで時間が余っているし、最低限の目標はクリアして気が楽になったしで、「いやって言ったのやめます。やります」となった。研修生の学びは学位に接続しないので、どうしてもよりよくしなければならないという外圧はない。もうひとつ挑戦して、失敗したとして、何も失うものがない。「ない」だらけ。
私は感性と論理の融合を目指すのが好きだ。書き上がって、疲れて、自分の限界を実感して、「これ以上無理!」という気持ちがいっぱいになっても、書いたものに思い入れがあっても、翌日、あるいは翌々日には嬉々として、それをロジカルに刺したり切ったり消したりする。感性的に膨らませ、論理的に削る。感性的に飛び、論理的に追う。論理的に積み上げ、感性的に圧縮する。
英詩を精読してアカデミックエッセイをまともに書くのは今年度が初めてだ。大学で授業は取っていたけれど、中世英語の詩だった。精読というか解読に近く、「松田先生、よ、読みました(パタッ)」みたいなレポートを書いた。教科書も、レジュメも、レポートも、フィードバックも、全部残してある。「この視点は重要」「good」などの言葉が、当時の私よりも今の私に響く。今の指導教官に、「韻律はどこで学んだ?」と聞かれて、松田先生を思い出した。
『カンタベリー物語』では、さまざまな身分や職業の人が、自分の知っている話を順番に語っていきますが、話のジャンルは多岐に渡っていて、なかには猥雑な話も含まれています。19世紀の読者は、猥雑な話を好まず、本から削除したりしたのですが、20世紀には、逆に猥雑な話だけが翻訳されたり、映画化されたりしました。このように近代の読者は、話に優劣をつけて分けて読む傾向があります。ところが、中世の読者は読みたい話を読みたい順番で読んでいました。近代では文学は高尚なものという見方が出てきますが、中世では読者が自分自身の基準でもっと自由に作品を楽しんでいたのです。
作品は作者が生み出すものですが、読者はそれぞれ自分の背景を持って作品を読み直します。時代や地域を越えて多くの読者に読まれることで、読者が作品の世界を広げ、作品自体を大きく育てることがある。そうした読者と作品の関係を、これからも研究したいと考えています。
https://www.keio.ac.jp/ja/flet/research/interview/report-matsuda/
この言葉も、当時の私よりも今の私に響く。去年の夏の私は、基礎知識はあっても、「詩って何なのか、まだよくわからん。用語で分析したところで、だから何?って思う」という感じだった。今の指導教官のもとで、多面的・多層的な読みをするための文脈を学んだ。2025年の年末に、自分で英詩を書いてみたときに、うしろから頭をばちーんと殴られたかのように、突然、強烈に、詩が何か、詩人が何なのかを理解した。細かい分析用語は、あとから生まれて授業で体系的に教示されているだけだ。私には、詩人が詩で何をしようとしているかの身体的実感が先に必要だった。言葉で言葉以前のものを表現したい、言葉にならないものに言葉で肉薄したいという点は、私にとって、何を書こうと、何を作ろうと、つまり表面の形が何であれ引き継がれる、引き継いでしまう、根本的な設定であり、人と共鳴しうるものだ。これに気づいて、詩人との距離が縮まった。書かれた時点、あるいは発表された時点で、詩は読まれるのを待っている。「わからん」という先入観を捨てて、耳を傾けてみる。「なんか知らんけど気が合う気がする」人がいたり、「こっちの話はまあわかるが、あっちの話のテンションにはついていけねえよ」という人がいたりする。期待せずに会ってみて、気が合ったらラッキー。
私は1年かけて、イギリスのある女性詩人の全集を読み、先行研究を読み、エッセイを書いた。20代で自ら命を絶ち、かつ偉大な文学史に現時点で載るような人ではない彼女には、「暗い詩が生きづらさや自殺願望の現れ」とか「同性の友人に宛てた愛の詩があるから同性愛者」といった短絡的なラベルが貼られている。「彼女は幸せを見つけることはなかった」と言い切る学者もいる。私はひととおり読み終わってから、「え、まともなエビデンスないじゃん」と思った。いや、あなた、勉強し始めて1年でしょ?と言われるかもしれないが、若くして亡くなったので作品が多くない。マイナーゆえに先行研究の数も知れている。学者は何かしら自分のポジションや思想があって研究するのだろうが、私は自分の都合に合わせて、学問という論理で死者や生者を雑に切り刻むことには同意しない。
「同意できない論文に自分の論文で反論しなくていい。無視。言及しないということが立場」という教えにもとづき、学問的に何のしがらみもない場所から書く。「この詩人の先行研究の大半に同意できねえ」と思いつつ、新しい読みの論拠と文脈を少し増やした。それによりエッセイのエネルギーが少し増した。表面的にはたいへん穏やか、ルールも厳守、しかし中身でバチバチにキレてるエッセイになった。
最近発売されたこの曲がよかった。イタリアのバンドなので、毎度最初は何を言ってるかわからんが、なんかポップな感じとMVのストーリーテリングが好きだ。翻訳で知った歌詞の意味も好き。私も彼女に、懐中電灯の光を一瞬さっと向けるくらいはできてるといいなと思う。隣に座っていっしょに音楽を聴くならどんな感じかな。いそがしいとき、どんなもの食べてたのかな。
MVのラストシーンみたいな感じが、研修生1年目でたどり着いた空気感。松田先生の授業からここまで来れたことがありがたくて、ヘッドフォンをつけて何度も観ている。
