パンダがいない

さて、この絵は何の絵でしょう。

何を聞かれてるのか、困っちゃったかもしれないけど、これは、いろんなものの絵でありうる。たとえば―
これは、ぼくの気持ちとしては「この部屋にはパンダがいない」という絵なのだけれど、もちろん、「この部屋には噴水がない」という絵でもありうる。もちろん、「この部屋には金塊の山がない」という絵でもありうる。そしてもちろん―
というわけで、いろんなものの絵でありうる。

野矢茂樹『はじめて考えるときのように』

2004年が初版だから、もう20年以上前に出た本だ。田町駅前の、改装前の本屋で買った。タイトルに「はじめての」とか「20代の」とか書いてあると、「呼ばれてる?」とか思う、自意識過剰な大学生。そういうときはたいてい、こちらが求めている。

余白が多く、たまに2色刷りのイラストが入る、哲学者の本だ。私はこの前に、ウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』を読んでいた。箇条書きの薄い本なのに、そのまま読んでも意味がわからない。ウィトゲンシュタインが言葉の定義をひとつずつ重ねて書いているとおりに、こちらも知っている言葉の意味を一旦捨てて、彼の定義についていかなければならない。『論考』の訳者でもあり、『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』という手引書の著者でもあるのが、野矢先生だ。私は、ウィトゲンシュタインの言葉の2行がわかっただけでも喜んだ。2ヶ月かかってようやく読み終えたときはウメッシュを開けた。今思えば、当時はそこまでわかってなかったように思うが、私は岩波文庫の青帯のように、堂々と青かった。エクセルシオールカフェで、同級生と先輩がB’zの稲葉さんの熱狂的ファンだと聞いたとき、「私は野矢先生のファン」と返して、「誰」と言われた。『はじめて考える時のように』を読んだあと、mixiの日記にこう書いた。


テレビドラマを見ながら母が言うこと。演技じゃなくて、ほんとに泣いてるひとっていうのはね、鼻水が出てるもんなのよ。

かたりくちがすきだ。

「論理と言うのは、前提と結論をつなぐ道筋の正しさにかかわっている。前提や結論がそれ自体として正しいか、まちがっているかということは、論理の持ち分じゃない」

大学の図書館は寒い。

「論理は考えないためにある」

目が乾く。

「思い込みを捨てて、与えられた情報の意味するところだけをきちんととらえていく。論理ってのはそういうもんだ」

目をこする。

「問題にとらえられて、「ヘレウーカ」の呼び声に耳を澄ます。そのとき、ある観察はぜんぜんきみの心に飛びこんでこないけれど、この観察は敏感になったきみの琴線に触れる。かすかな音がする。いける。いけるかもしれない。観察や論理は問題を解くときに欠かせない素材だ。だけど、それを問題に合わせて、捨てたり、選びとったりしていかなくちゃいけない。「ヘレウーカ」の声を待ちながらそんな作業を続けていく、それが「考える」ってことだ」

鼻の奥がつんとする。

「「考える」ってのは何したっていいんだ」

椅子のうえで正座。

「「非論理的な夢」って、どんな夢のことだろう。自分の家にいたはずなのにドアを開けるとジャングルだったとか、水をすくって飲んだら若返ったとか。いや、そんなのぜんぜん非論理的じゃない。単に非現実的で不自然ってだけだ。論理的な可能性なら、ぼくだって酒池肉林三昧だし、ブタだって気持ちよさそうに空を飛ぶ」

いいぐあいの水分。目からうろこ。コンタクトとれそう。うろこんたくと。

「ことばがなければ可能性はない」

「つめこんで、ゆさぶって、空っぽにする」

彼の「考える」と私の「つくる」がいっしょだった。 鼻水が止まらない。 最大級の賛辞である。


当時の青い付箋を貼ったままの本を再読した。付箋の箇所のいくつかが特に響き、mixiに書いたようだった。今の私は「ほー」と思った。ここで?そんなに?はて? 

再々読で簡素な部屋の絵と「パンダがいない」のあたりに戻ったときに、わけがわかって笑った。この本に書いてあることが、ほぼ、血肉になったのだ。ここに書いてあることを当たり前に頭の中に入れているせいで/おかげで、はじめてのような湿り気がなかった。私の語り口や言葉の組み立てに、先生が影響していると気づいた。先生が「ほー」と言いそうな感じなので、私も今ここに「ほー」と書いているし、先生が「どうだ」と言うから、私も夫に「どや」と言う。私の思想の家系図を作るなら、先生はだいぶ祖のほうの人だ。家系図にパンダはいない。