
太陽が沈むときに見れたら幸運が訪れる、緑の光線。”Green Flash”を論文のモチーフに使いたい。昔ミニシアターで観たエリック・ロメールの映画を、大学図書館の視聴覚コーナーでちんまり復習。元ネタのジュール・ヴェルヌの本も探す。誰にも開かれた形跡のない本を借りるのは緊張する。主人公が「緑の光線を見たい」と言って叔父を連れ回すので、私もそれについて行き、ユーモラスな会話と装画の景色を楽しむ。さすが恋愛小説、主人公がピンチのときのヒーローの現れ方がかっこいい。蘭ちゃんを間一髪のところで救出したコナン君(映画版)みたいなシーンと、それに続くラストシーン。わーお(都合がよい!)と思った。学者の視力が悪く、結局何も見えていないが、見えていないなりの活躍がある。
たいへん気に入っていた有線イヤフォンを出先で落としてしまった。音響工学を専門にする夫が、ありあまるコレクションの中から、Bluetoothイヤフォンとヘッドフォンをくれた。かねてより「歌詞は好きなんだけど、なぜか聞き続けられない」音楽があったので、そういえばと相談したところ、「かまぼこ」とか「どんしゃり」とか、なんかおいしそうなことを言われた。ヘッドフォンをチューニングしてくれた。「なぜか聞き続けられない」と「なぜか聞き続けられる」の違いがわかった。なんか見えづらいな~と思ってたところ、不意に眼鏡の度数を変えてもらって視界が開けるような感じだった。コリラックマがヘッドフォンをつけて、目を閉じて踊ってるイラストが好きなんだけど、気持ちがわかる。音楽に没入できると、体って動くのね。初めてのノイズキャンセリング機能を使いながら、『ノイズキャンセルキャンセル』を読んだ。それはノイズキャンセルキャンセルキャンセル、つまりはノイズキャンセル。 「おおいに、ル、ル、ル」というエッセイの、おばあちゃんに向けた、「大人になったよ」「いろんな話、しようよ」「料理とかお裁縫とか、教えてよ」の「よ」。肩にやさしく、でも少し力を入れて触れ、揺らし、目線を合わせようとするような「よ」。行き場のない気持ちを、読者が『ペイ・フォワード』のように受け取っている気が。
シェイクスピアの「から騒ぎ」を観に行く。指導教官に「ゼミのメンバーとA先生といっしょにどう?」と誘われたけど、予定が合わず、先に夫と観た。区立の文化センターの小さな円形劇場。異なる文化や背景のバイリンガル劇団による、英語と日本語がミックスされた演出。役者が日本語でしゃべっているときには英語の字幕が、英語でしゃべっているときには日本語の字幕が、舞台後方に映し出される。どたばたがっしゃん、わーいわい、みんなで踊ろうあはははは、みたいな喜劇。愉快な芝居を、芝居が大好きそうな人が演じているのを間近で見るのはぐっとくる。今、人生でいちばん忙しいらしい指導教官が、その多忙真っ只中に見る芝居が「から騒ぎ」、というのがおもしろく、「明日、舞台に上がって踊っちゃえばいいと思いますよ」と無責任な感想メールを送った。
次の日はアーサー・ミラーの「みんな我が子」へ。イギリスの舞台を映画館で観られる「ナショナルシアターライブ」、ほんとうに好き。予備知識がなくてもおもしろいし、原作を読んでから行くのもおもしろい。原作を読んでいてストーリーは知っているのに、ああ、こういう演出するんだ、こういう表情の台詞だったんだ、光の使い方うんまっ!とかツッコミを入れ、最後の方はツッコミの余裕がなくなって圧倒されるまでがセット。7月は「セールスマンの死」の舞台チケットを取っている。今年はアーサー・ミラーの年。
土曜日に「から騒ぎ」、日曜日に「みんな我が子」と続いたあと、翌週の土曜日朝9時から、「急に具合が悪くなる」を鑑賞。3時間半弱の映画じゃ行きたくないでしょう、でもきみと観たいと夫に言ったら、すんなりいっしょに行くことに。なんかそのすんなりぐあいがうれしかった。介護現場のユマニチュードを見て、フランスのヒューマニズム、ラブレー、渡辺一夫を思い出し、今年も『敗戦日記』を読む時期だなと思う。フランスの大学で哲学を学んでいた日本人と、日本の大学で人類学を学んでいたフランス人が、日本語とフランス語を交えながら話す。話し込む。これは「から騒ぎ」の英語と日本語ミックスの舞台にも感じたことに似ている。指導教官とコミュニケーションするときに似ている。母語と外国語が、両者入り混じる。熟考したうえで相手の言語で伝えようとするときもあれば、繊細なニュアンスを伝える自信がなくてこちらの母語にするときもある。勢いがついて、とりあえず思いついた言葉を言って、結果的に細かくコードスイッチングしあっているときもある。そういうときの私たちは、はたから見たらおそらくかっこわるい。言い淀んだり、間違えたり、誤解したり、無駄なことを言ったり。でも、おたがいがおたがいをかっこわるいと思ってない。表現しようとすること、伝えようとすること、聞き取ろうとすること、受け取ろうとすることで精いっぱいだから。カンヌで賞を獲るくらいの映画だ、綺麗だ、かっこいい。でも映像になっているのは、演者やスタッフが交わした言葉の蓄積のほんの少しの部分で、原作の本で残っているのは、著者たちが交わした言葉の蓄積のほんの少しの部分で、そのほんの少したちから、言葉にならないところを含めてたくさんのものに思いを巡らせることができるという意味で、開かれた、目線が同じの、作品群だと感じた。
私は来週、今年度最後の面談で、先生とGreen Flashの議論を深める予定。Green Flashを書いた私と、読んでくれた先生と、これを読んで受け取ってくれたあなたに、ラッキーなことがあります。
