

大学生の時、池内紀『ゲーテさんこんばんは』を読んだ。ゲーテの名前や著作から、いかめしい人だと思っていたので、「なじみの店でお酒飲んでそうなおじさん」みたいなゲーテの人物史とその書き方に、おおなるほどと思ったのだった。以来、なんかいかめしいなと思う作家や哲学者には「さんづけ」をする。ウィトゲンシュタインさんはすごく偏屈で、でもなんか必死で生きてたんだなと思った。ショーペンハウアーさんは、「天才以外死ねばいい」みたいな感じだが、同時代に人気の学者に嫉妬していた一面も知ると、人間味のあるぶっとんだおじさんになる。
研修生継続が承認されれば、秋から批評理論と文学を学ぶことになる。制度上は学部研修生なんだけど、大学院生扱いされている。自走できる、モチベーションが下がらない、自分のテーマをもってる、書き続けていて読者がいる、という意味で、大学院で教わるべきことは身についているらしい。先生との関係づくりのために1年目は彼の授業を取ったけれど、それはイレギュラーで、基本は年4~6回の個別チュートリアルをもとに自走して論文を書く。
批評理論といって出てくる人は何人もいるが、聞いただけでは、まあいかめしい。「さんづけ」をするために、大学生のときにウィトゲンシュタインとサルトルだけ学んでいたところから、哲学史への接続を作ろうと思った。誰が誰に影響されたか、なぜそういうことを考える必要があったのかを押さえれば、近づきやすいだろう。
何事も師との出会いが大切だ。いかめしいそうなものをいかめしく語っている人に教わって、いかめしいなと思うのは当たり前である。いかめしさに何度もくじけ、ビビりまくっている初学者に、自分で噛み砕き、自分の言葉で伝えようとする学者が好きだ。私は山内志朗先生の本を昔読んでいて、その「穏やかな語り口なのに、たまに小さな爆弾仕込んでる」みたいなやさしさと反骨精神みたいなものが好きだった。NHK出版の『哲学史入門』シリーズの著者のひとりだったので、たぶんこの本は大丈夫そうだと手に取った。昔読んだ、「言っていることは正しいのかもしれないが、暴言が多くて、ゼミの先生だとしたらとても苦痛」という学者が入ってなかったのも大きい。他者をばかにするなら、ショーペンハウアーさんくらい突き抜けていてほしい。
千葉雅也先生が、こう言っていた。
現代の感覚をあてはめて理解しようとしてはダメなんです。ものすごく異質な思考が昔の世界にはある。過去の世界には、私たちとは大きく異なる独特の思考スタイルが存在していたと考えるべきです。「昔はこういうことがありました」という暗記ものではなく、自分自身の脳や体の感覚までもが巻き込まれていくような冒険であり、ジャングルの中でしばらく生活するみたいなものとして古代や中世に潜っていく。
『哲学史入門 ①』 p.29
この感じ。今、現代で自分がもっている言葉の定義や思考や感覚で読んではいけない。アリストテレスさんも、カントさんも、ヘーゲルさんも、それぞれの時代に、それぞれの言葉で、知性をフル活用して書いたのだから、とっつきにくくてわからんと思ってしまうのは当たり前なのだ。指導教官が、「close readingは、文章のダイナミズムに身を任せることだよ」と言っていたように、わからん思考のダイナミズムに身を任せると決め、言葉をひとつずつ確認し、ついていく。
その訓練をある程度していたからか、『哲学史入門』はおもしろかった。ハイデガーさん、絶対難しいんだろうなあ~と思っていたら、フッサールさんの経由で近づくと、なんか感覚がつかめたような気がする。
この文は真です、偽です、みたいな文章を読んでいたら、嘘について何か読みたくなり、『嘘解きレトリック』というマンガを再読し始めた。人の嘘が、鈍い金属音のように聞こえる少女が主人公の話。自分の能力が、気持ち悪がられる、人の迷惑になるとしか思ってなかった彼女が、村を出て、理解のある人たちに出会って変わっていく。嘘って、ああ、こういう面もあるのね、なるほどねーとか思っていると、案外哲学者も、日常生活で「〇〇って、××かも」と直感的に思いつき、それを証明せねばならず、証明するには言葉や数学などを使うしかなく、なんかゴリゴリ硬くならざるを得なかったのもしれないと思ったりした。それは自分の考えを証明したい、誇示したい動機のものもあったかもしれないし、単にライバルを打ち負かしたいとか、学問や世界に少しでも貢献したいとかだったかもしれない。
『あたらしいともだち』という、『ひらやすみ』の作家さんが帯を書いているマンガの短編集の中に、あるマンガが好きな少女のこんなセリフがあった。
このマンガがはじめから特別だったんじゃなくて
私がまりちゃんと出会った日に
偶然同じ光に照らされてそこにあっただけで
私たちが特別な友達になるのと一緒に
このマンガも少しずつ特別になっていった
まりちゃんの顔も声だって
はじめは全然とくべつじゃなかった
そうか
そうだとしたら
見慣れないこの街にも
いつか自分にとって大切になりうるものは
今日の日差しの中に
充満しているのかもしれない
今年度最後のチュートリアルで、指導教官に「来年度学ぶ批評理論を自分で選びなさい、例えば『脱構築』、『マルクス主義』、『フェミニズム』、『クィア』などの中から」と言われた。何にしようかな、ぜんぶ難しそうじゃん、と思いつつ、軽く調べ、たぶん脱構築理論を先に学ぶと、その子供や孫としての他の理論を学べそうな気がした。論理的、実利的な理由。そのあと、デリダの概要を探ってみると、あれ、私この人の言葉を知らないだけで、ふだん、わりに脱構築的にものを見ている気がするぞ、私は彼のように二項対立を壊して終わりじゃなくて、そのあとに何かしら修復をするような志向性があるように思うけど。そんなことを思っていたら、デリダがカミュを読み込んでいたと出てきた。出てきちゃった。デリダさん!私もカミュ、よく読むの!となり、頭と心の意見が一致し、デリダにすることにした。指導教官は最初の選択こそ「自分で選べ」と言ったけど、私がデリダにしますと言ったら、「じゃあ他のも学ぼう」と、前日に私に例示した理論と、プラス、ポストコロニアリズムの計画を渡してくれた。結局ぜんぶやるんじゃん、なんだけど、「デリダさん!!」と偶然思えて、そこから始められるのはなんかいい。きっと難しいんだろうな。でも、いつか、私にとって大切なもののひとつになってるといい。
