

夏休みの宿題を8月31日にまとめて仕上げる小学生だったのに、大人になって、自分で決めた目標には自然と体が動く。デリダを学ぶために、デリダが影響を受けたハイデガーを学ぼうと決め、それならハイデガーの師、フッサールの現象学も学ぼう、と始めた夏休み。デリダの考えは、文学を批評する道具としてつまみ食いすればおそらく十分だろうに、私はハイデガーに影響を受けたサルトルを若い頃読んでいたから、ハイデガーも読んじゃお、効率的なルートよりも好きなルートからデリダに合流しよう、となった。
大学の休みというのは、不思議なものだ。授業はない。学食は開いてない。キャンパスは開いている。図書館も開いている。指導教官は明らかに働いている。私は来期のために、勝手に目標を作って勉強している。先生とは「来年度はデリダ」と合意したけど、事前にハイデガー読んでるとは言ってない。ハイデガーの『存在と時間』を目標に、フッサールから読み始めたあと、そういえば、先生の研究のひとつは極右思想に行ってしまった作家に関するものだと気づく。たぶんハイデガー読んでるだろうなと思う。共通言語を増やすのも、学びの楽しみ。
哲学の勉強は、外国語のように、まず独自の語彙を学ぶことから始める。現存在、存在、存在者、は全て意味が違うのだけど、これは「seeとlookとwatchは、「見る」のニュアンスが違います」と教わったときのように、これはこうであって、あれではない、みたいな線引きをしながら覚えていく必要がある。単なる暗記ではないというか、自転車に乗れるようになる感覚に似ている気がする。身体でつかむ運動。哲学者が緻密に立ち上げていく世界に身を投じる運動。
ハイデガーハイデガー連呼するのは罪悪感がある。彼はナチスに加担していたから。それを8月に読むのも、なんかうしろめたくて、戦争関連の本を読んだ。kindle unlimitedで今日マチ子のマンガを見つけて数冊読んだ。無料期間で読むのが申し訳ない気がして、できるだけゆっくりすみずみまで読んだ。渡辺一夫の『敗戦日記』は毎年8月に読むもの。私はハイデガーの世界に近づき、語彙を覚え、身体感覚をつかみつつあるけれども、「あ、この考え方おもしろい」と思ったすぐあとに、私、おもしろがっていいのかな、と自制が働く。熱中するのが怖い。まだ私にはわからない、彼の思想の、戦争との合流点。だから熱意はあるが、抑えている、冷ややかな夏。
幸運なことに、集中力には限度がある。一定時間を超えれば、私はハイデガーの本を閉じ、生活に戻る。『ひらやすみ』を夏のシーンから読んで、夏っぽい気分を味わった。精一杯勉強した、とほぼ毎日すがすがしく思えるものだから、料理と掃除と睡眠がはかどった。よく食べ、よく学び、よく眠っていたら、長く感じた8月。9月も引き続きハイデガー(『存在と時間』はあと7冊)。
