柿とみかんとシナモロール

大学の健康診断の日。研修生はレントゲンだけ。レントゲン1枚で何がわかるのだろう。指定された時間まで少しあったので、先に健康保健センターに行った。のんびりした雰囲気の部屋に、女性がひとり、仕事していた。血液検査とか尿検査ではなく、レントゲンが必須ってどういう背景なのですか、と聞いた。彼女は「レントゲンでもいろいろわかるんですよ。そのなかでも特に大学が気にしているのは、感染性の結核です」と言った。ワンオペで、定時に上がれそうな空気と、結核の言葉の緊張にギャップを感じる。すみません、今、ここはとても穏やかな場所に見えるのですが、もしかして、コロナのときはとてもご多忙だったのでは、と聞いた。「そうなんです、ここと情報管理センターはずっと深夜まで仕事してました。親御さんから、『学費を払ってるのに学校に行けないってどういうことか』といったお電話がひっきりなしにかかってきましたし、本当に有事でした」。健康診断の案内の、「レントゲンを受けてください」の文字の羅列だけでは見えなかったこと。

研修生はレントゲンだけなので、健康診断会場での持ちものが違う。あ、あの人、研修生かも、という人を見つけたので、突然すみません、もしかして研修生の方ですか、と声をかけた。スーツを着た男性。ジャケットを脱ぎ、シャツの裾をズボンから出し、いつでも撮ってくださいアイムレディーという感じ。しゃきっとしている。「いえ、科目等履修生です」と言った。研修生でも、科目等履修生でも、とにかく、正規の学部生・院生以外と会うのはこれが初めてだった。入学式もないし、同級生もいないし、親睦会があるわけでもないし。普段は個々に、おのおのの目的と場所に散らばっている。神学を勉強していること、3年目なこと、もう数年学ぶ予定のことなどを、レントゲン撮影の順番待ちの間に教えてくれた。いくら社会人学生でも、当たり前に苦手な先生はおり、「それでも単位取得がんばってます」と言っていた。「ここで学ぶのが憧れだったから」とも言った。レントゲン用の車に乗り込み、すぐさま撮られ終え、「よかったら礼拝堂にいらしてください」と言って去った。先輩にならって、私もさっと乗り、撮られ終え、帰ろうとする。

学食のある棟の近くで、なじみの清掃スタッフさんを見かけた。明日、昼休みにいっしょにごはん食べませんかと誘う。「それはとってもいいよ!」と返ってきたけれど、2限が終わる時間と、彼女の午後の仕事が始まる時間が、15分しかなかった。私は、それじゃあデザートですね、と言った。「そうだね。でも私何か作って来る。あなたごはん食べたらいい。何が好き?」。だいじょうぶです、お気遣いなく、と言ったら、「そう?わかった」と言った。2限後の15分、おやつを持ち寄って食べることになった。大きめのスーパーに寄って、お菓子を探す。甘いのとしょっぱいのの組み合わせがいいよな。個包装だと職場で分けてもらいやすいし。ここはサツマイモとか秋物でいくべき?いや。うーん。長い棚を行ったり来たり、ぐるぐる周ったりして、徳用パックのアポロとパイに落ち着く。「お菓子売り場にあるけど、お菓子は二の次で、付属のおもちゃがメインのもの」も買ってみようと、サンリオの「ぴたハグ」もかごに入れる。りんご味のガム1個つきの、ぷにぷにマグネットクリップ。よろこぶだろうか。

次の日、早めに支度して大学に行き、2限の教室に行く。来日した作家の講演会。普段授業を取ってなくても参加できる。前々週、指導教官の研究室に向かう途中でチラシを見たのだった。作品も予習済み。始まる前、コーディネーターの先生に、挨拶に行った。入学直後にお会いして以来だ。講演中、私は耳に器具をつけていますが、イヤフォンではありません、講演に集中するために必要なものです、と断りを入れる。「ええ、構いません」と言われる。いちばん後ろの席に座る。しばらくすると指導教官が現れたので、立ち上がって挨拶する。彼は「あ、紺」と笑い、「僕は前のほうに座るね」と言う。この作家は、彼の研究分野に関わる人。前のほうって言ったのに、どちらかというと後ろ寄りの真ん中に腰を下ろしていた。前のほうとは?と思った。

講演と質疑応答が終わった。サポートの人が端から現れて、「全体の写真撮影をします」と言った。わーい、写りたくなーいと思い、さっと教室を出た。清掃スタッフさんとの待ち合わせ場所に急ぐ。昨日会ったばかりなのに、私を見つけるやいなや、「ああ!いた!会えたね!」と言った。風が涼しく、日差しがやわらかい日。ベンチに腰掛けてお菓子を取り出す。彼女はぎょうざを作ってきて、「これ、食べて」と渡してくれた。もう、いいのにー、お手間でしたよねと言ったら、彼女は「すぐできるこんなの」と言った。見るからに、皮から手作りなのに? アポロとパイの袋を豪快に開け、アルコールティッシュといっしょにまとめて渡す。はい、食べますよ、時間がありません。せわしない。周りには、2限終わりの、ランチに向かう学生がいっぱい。彼女からはぎょうざで終わりと思っていたら、「あとこれ」と、みかんを4個くれた。「あとこれはあなたの先生に」と、大きな柿もくれた。お、おお。

さっきの講演会で、作家の方が、「還暦間近だから、これからはスローダンスするように生きるつもり」と言ってたんですよ、と話した。すると清掃スタッフさんは、「私は先週、栄のイベントで1日7回踊ってたよ」と言った。見せてくれたスマホに写っていたのは、中国の伝統衣装とメイクで踊っている、ガチダンサーだった。「おいくつでしたっけ」と聞いたら、「もう70なるね」と返ってきた。数十分前の講演とのギャップに笑う。作家は、何かステレオタイプ的なものを描きたくないと言っていたけれど、彼女が自身に向ける老いのイメージを覆す人が、私の目の前にいると思った。あ、そういえばこれ、と、「ぴたハグ」と渡す。孫が何人もいる人なので、ここでサンリオが出てきたところで、「は?」とか言わない。食えないものだろうが下手な絵だろうが、なんでもいい、まずそのプレゼントの気持ちや行為自体を愛でまくるおばあちゃんメンタリティが自動で発動するよう。開封する前から、外装をすごいぷにぷにぷにぷに触りながら、「かわいい」「うれしい」とよろこんでいた。どれが出たらうれしいですか、と聞いたら、「キティちゃん」と指さしていたけど、出てきたのはシナモロールだった。でもやっぱり具体物はどうでもよさそうだった。「かわいいかわいい」「さすが若い人」と、早速かばんにつけていた。

柿を渡さなければならなくなったので、先生の研究室に向かう。が、来客中だった。図書館に行く。本を返して、予約していた本を借りる。いくら外が涼しくても、図書館のエアコンの涼しさは格別だ。ぐでぐで過ごした。再度研究室に行ったら、別の来客が始まっていた。やっぱアポ取ってくるべきだよなあ、でもなあ、柿、と思って、近くの共有ラウンジに行く。ソファとか、給湯器とか、冷蔵庫とかがある、基本的に教職員と院生用のスペース。私も出入りを許されている。ドアを開けると、さっきの講演でサポートしていた方がいた。あ、お邪魔ですか、と退室しようとしたら、ぜんぜんぜんぜんだいじょうぶです、どうぞ、と言われて、なんかその言い方に親しみを覚えた。私は彼女をさっき見たけれど、彼女からは多くの参加者のひとりなわけで、自己紹介が必要だ。○○先生の研修生で、さっきの講演にうかがいました、お仕事おつかれさまです。こういうときに、社交辞令的じゃなく、あえてぐっと自分を出してくる人が好きだ。要約すると、心からほっとしていると言っていた。パートの自分には大仕事だったと。だから今ここで気を抜いていると。私は研修を作る仕事をしていたので、研修講師を迎えて研修を滞りなく進める立場の気の張りがわかる。講師の方をランチにご案内したあと、ふわぁーっと気が抜けますよね、と言ったら、「そうなんです!終わったーと思って学食に行ったら、コーディネーターの先生と作家さんがいらっしゃったんですよ。学食っていくつもあるのに!まさかここ!って感じで。なんか私の感想も言わなくちゃいけないのかなって考えたんですけど、いや、そんなのいらないよなとも思って、焦っちゃって」。ああ、オフにしたスイッチ、爆速でオンに戻しますよね。さっきもらったみかんをひとつ渡した。10月1日木曜日だった。もう今週の仕事は終わりってことにしちゃえばいいですよ、と言った。「えっ、そうですか!?」と上がる口角が、頬を押し上げて、その頬が大きめの眼鏡のプラスチックフレームを上にずらす。ええ、なんなら今月の仕事は全部終わりってことでいいと思いますと言ったら、「きゃー!」と笑っていた。あら私、いけないこと考えちゃった、うふふ、みたいな顔で。

ラウンジで文章を書いて待っていたら、指導教官が現れた。「え、アポじゃないよね」とダブルブッキングを恐れた顔で言う。アポじゃないです、柿です、70歳の友人からあなたに、と言って柿を手渡す。彼の表情がすぐにゆるんで、「え、柿?」みたいなものに変わる。私もあなたの立場だったらそう思いますよ。では、と言って退室すると、うしろから「じゃあ来週の面談で」と聞こえる。