オデッサ

帰宅してルームウェアに着替えた夫は、私に抱きついてきて「今日はとっても楽しかった!」と言った。私は驚いた。

三谷幸喜の新作芝居、「オデッサ」。アメリカテキサス州のオデッサという町が舞台。警官、重要参考人の男、通訳の3人によって繰り広げられるコメディ。私たち夫婦の観劇デビューは、三谷の「国民の映画」だ。それ以来ずっと好き。今回は律儀にぴあの一般発売を待っていたのに、2階前列の席しか取れなかった。実は主催のメーテレが別のサイトで何度も先行発売済みだった。落ち込みながら向かった金山の劇場。あれ。意外と見える。よいかもしれん。

リピーターがいるのも納得の芝居だった。演者たちはテンポよく笑いを提供し、観客は取りこぼさないように受け取った。ふと横の夫を見ると、彼も笑っていた。よし。古典や抽象度の高い作品だと、ぽかんとしてしまうことがあるのだ。今回は大丈夫そう。そう思って終演後の顔を見ると、硬かった。「どうだった?」と聞くと、「うん。よかった」だけ。ほ? あんまり好みじゃなかったのかな。

時間が中途半端だったので、空いている店で食べて帰ることになっていた。焼肉屋の席に座る。彼は私の編んだセーターに臭いがつかないように脱ぐ。カルビ2種類1人前ずつと、石焼ビビンバ2つ。さっと食べて帰るセレクト。周りはガヤガヤと騒がしい。彼としても、場としても、芝居の感想を交わす雰囲気じゃない。黙々と食べる。彼から聞き出したのは、やはりこの店のビビンバはうまいということと、カルビAよりもカルビBが好きだということだけ。

成城石井で紅茶、いちご、ティラミス、ポテトサラダを買った。努めて多めに買ったのは、紙袋が欲しかったからだ。商品を詰めて渡してもらったあと、私は芝居のパンフレットをそっと入れた。各商品が倒れないように気をつけていたら、家に着いた。

この文脈で冒頭の「今日はとっても楽しかった!」に戻る。彼は笑いながら近づいてきた。白いトレーナーは空気を含んでいて、私に抱きつくとぱふっとする。それからぎゅーっと抱きしめてくる。

あー。あ、なるほど。あー。ねー。わかった。彼は人混みに終始緊張していたのだ。芝居を見て感動しなかったわけじゃない。とても心が動いた。しかしそれを表現できなかった。もともと語彙が少ないうえに、人混み、騒がしい店、得意ではない外食。劇場でガチガチだったのが、食後のなじみの成城石井でほぐれ、家路あたりで本来の彼と切り替わり始めたのだろう。完全なスイッチは部屋着、間接照明、私だけがいる部屋。リラックス。私は抱きしめられながら、彼の頭をぽんぽんと撫でた。

この日の彼を芝居にして上演したら、彼は「つまらん」「わからん」「で?」と言うと思う。でも私は、明らかに人を笑わせるために技巧を凝らした脚本とは別の方向で、大好きな気がする。