魔法瓶みたいな日

健康診断の日。出かけるまでに時間があったので、荒川洋治の本を読んだ。紹介されていた詩のひとつに心をわしづかみにされる。健診前、心拍が上がりっぱなしで困る。

病院までの道では音楽をかけて、待合室ではテレビを眺めていても、頭のなかはさっきの詩のことばかり。おかげで番号を呼ばれても気づかないことたびたび。一概に詩といっても、まったくわからない、何も感じないものも多いのだけど、たまにすごい速さのボールを予期せぬ角度で打ってくるものがある。

常々、言葉の種類には表現重視のものと伝達重視のものがあると思っている。表現重視のものは、何かを存在させるためのもの、何かをつくりだすためのもので、人に伝えることは二の次というか、わかってもらえてもわかってもらえなくても気にしない。主眼がそこにない感じ。伝達重視のものは、人に何かを伝えるためのもので、人にわかってもらえないとだめなので、わかりやすく、キャッチーに、という指向性。資本主義の世の中では、伝達重視の言葉が便利だし、重宝される。

荒川洋治がいくつもの本で、このふたつを「詩」と「散文」で言い換えていた。表現重視の、詩のほうが、言葉としては自然であると。言葉には2種類あることと、表現用のほうをより重視すること(排除されやすい表現用も大切だということ)を言っている人を知らなかったので、とても励まされた。

私はたぶん詩寄りだ。昔から、人にわかってもらおうとするところからは書いてない(わかってもらえないに決まってる、というような刺々しい意味ではない。「人に伝えることを先に考えて、そこから逆算した結果を重視して形をつくること」をしない)。わかりにくいから悪文、とは思わない。読んでもらえない=意味がないとは思わない。金に結びつけたいとも考えない。読まれない、理解されない、儲からないのが前提。

短い言葉の集積による興奮が冷めない、魔法瓶みたいな日がある。文章でつらつら書くまでではないけれど、瞬間的にガッと生じた感情をそのまま切り取って、パッと配置して、圧縮なり冷却なりしたくなること、形にできたら「ハイ!おしまい!今日はいい日!」と言える日がある。そんな日は、自分が存在している実感がある。

夕食の席で、ひとつの詩に占領された話、詩と散文の話を夫にした。「きみの言葉はパブリックじゃないってことだね」は、褒め言葉。「今日はそこに “いる” 感じがする」は、私と同じ感想。私にぴったりの表現で、思わずハイタッチと握手をした。

“パブリックでない” と、私は “いる” ことができる。