底抜けの謝罪

好きなものの影響か、性格か、顔の作りか、知的と言われることがままある。相手は私と話すと、あら、意外と抜けていると気づく。バカにされたり、付け入れられたりする。それではと最初から黙っているところから入ると、初めは平和に進んでいくものの、発話した途端、視点の鋭さや、少数派だろうと気にしない感じに場の空気が変わり、線を引かれたり怖がられたりする。夫は私と長く一緒にいることで、単に英語や文学が好きなのね、正直だね、何かに夢中になれるのは守るべきいいところだね、でも頭が働くわりには致命的に抜けているものがあるね、立ち回りが下手だね、要するにアホだね、という認識をもつに至っている。私のひとつの解釈として正しい。楽だ。期待されないし、説明もしなくていい。

私は説明をしたくない。

先週、私を知的だと言う人に、私の抜けているところを無意識にプレゼンしているみたいになったことがあった。それを押し出さなくても大丈夫ですよと言われて気づいた。ずっとこうだったのだ。社会的にいいとされる面を早々に買われれば、努めて失敗せず、そのイメージを維持しようとした。基本的なところが高評価だと、抜けた部分は努力不足だと言われるから。抜け、欠落が見つかったら、白い目に我慢するしかない。黙っている、おとなしい面から入れば、それ自体、我慢からの始まりだ。じきに場に賛同できなくなって、人の前で着ぐるみの背中のファスナーをゆっくりと下げ、右足、左足、と出し、すいませんと言いながら正体を見せる。

すいません。すいません。すいません。嫌われても仕方ないというか、嫌われるしかないというか、好かれる意味がわからない。

話せば理解し合えるはずと言う人が現れても、なんというか、私が理解される側の得体の知れない生き物で、私が言葉を尽くす側になる。いつも。相手が私の一部を理解して、ああわかった!とよろこぶとき、あるいは知的好奇心を満たすとき、私はああようやく終わったと汗を拭く。わからない、もっと教えてという姿勢には、もう散々疲れているくせに、よっしゃ、待ってて、別の角度から話してみるねと気合を入れなおす。

好かれたい、嫌われたくない、選ばれたい、認められたい。そうではなくて、わかりにくい、扱いにくい存在でごめんなさい、という気持ちしかない。先週とは別の人にそんな話をしたら、それは悲しいことだと言われて、もっと説明しなきゃいけない空気になって、いつも通りもっとがんばろうかと思ったけれど、とても疲れて、やめたくなってやめた。これ以上説明しないことにした。

毎朝、夫が私のことを好きだと言うと、おおそうなのか、今日も好きなのか、すごいな、えっと、私を?と新鮮に感じる。好かれるのは当たり前じゃない。内心のごめんなさいが消えなくても、好かれることに慣れている人の言葉を、私はこんなふうに受け取れるのだ。悲しくない。もう説明しない。