New Essays Every Monday
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私たち夫婦と英語の関係
私たち夫婦は、わりと英語ができるほうだ。新卒で入った会社の関係で、TOEICをしばらく受け続けたことがある。付き合っていたので、同じ日、同じ試験会場に行く。帰り道で「ねえ、あの問題おもしろかったよね!」と盛り上がった。私たちにとって、大切なのは問題が解けた解けなかった云々ではないのである。「いやあ、あの会話のあの感じ、よかったよねえ」「うんうん、うまく作ってた」とか偉そうな視点で、あたかも映画を観たかのように、TOEICのリーディング問題の物語性について語っていた。昔のTOEICは読みものとしておもしろかった。問題の改訂があり、トピックも時代に合わせてチャットなどになったあたりから、別物になった気がする。必要なハイスコアは取れたので、「TOEICはつまらん」とフェードアウトして今に至る。
夫はソフトウェアエンジニアである。中学のころからコンピューターをたしなみ、英語の略語をひたすら覚えていたらしい。CPUをCPUではなくて、Central Processing Unitと覚える。「紺ちゃん、CMOSは何の略か知ってる?」と私に聞く。complementary metal-oxide semiconductor(相補型金属酸化膜半導体)。知るわけがなかろう。こういうのを、高校の退屈な授業のあいだにノートに書き出していたらしい。
私の高校は緊張感あふれる授業ばかりだったので、彼のような退屈さを感じる余裕がなかった。代わりに英語の時間、わからない単語を電子辞書で引いたあと、「お気に入り」のボタンを押して少しのあいだうっとりしていた。お気に入りの、比喩的なイディオムをたくさん登録してある。たとえばbuild a castle in the air、直訳は空中にお城を建てる、意味は空想にふける。いつかこういうおもしろさを共有できる相手と会えるといいなあと思っていた。
共有できる相手というのは、てっきり文系だと思っていたけれど、ばりばりの理系人だった。英単語の語源で盛り上がったり、意味の抽象的なイメージについて話し合ったり、おもしろいイディオムに喜んだりする。おじいちゃんおばあちゃんになっても、こういう知的好奇心でつながっていたい。
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トマトとまな板と包丁
夫がフライパンで肉を焼いている。私は付け合わせの野菜を切り終えて、まな板と包丁を洗い、定位置に戻した。あ。トマトを切り忘れた。まな板と包丁をまた取り出し、冷蔵庫の野菜室をのぞく。トマトがない。そうだった。昨日食べたじゃん。野菜室を閉める。まな板と包丁の前で、うーんと思う。せっかく出したのに。食べたかったのに。彩りが綺麗になるはずだったのに。うー。
と5秒くらい停止していたら、夫が「トマトないの?せっかく(まな板と包丁)出したのに。愚か」と言った。私は何も言葉を発していなかったので驚いた。おうおうおう、どうしたと思った。私の行動の果ての沈黙に、たったの5秒で返してきたのがすごい。落ち込みは突然笑いになって、まあいっか、トマトなくても、となった。
何気ないことを見てくれていて、何気ないことを絶妙なタイミングで言ってくれる人がそばにいるということのよろこびを噛みしめた。
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体目当ての極悪人
体調がものすごく悪くなったとき、体の細胞が飛散していくような、ふわっふわの浮遊感におそわれる。いつでも自分で出せる処方箋は寝ることだ。朝の11時だろうが、夕方の5時だろうが寝る。しばらく経つとましになる。
浮遊感が平日の夜、あるいは週末、つまり夫が在宅のときに起こった場合、私はすぐに彼の部屋に行き、強く抱きしめてもらう。そこにロマンティックな雰囲気はない。おたがい「はいはい、いつものやつです」という感じで、事務的に、がしっと抱きしめる/抱きしめられる。しばしそのままでいる。そうすると、飛散した細胞がもとに戻っていくようで不調が和らぐ。私は安堵し、「じゃ」と軽く礼を言って去る。
この場合の私を、彼は「体目当ての極悪人」と呼ぶ。落ちつくためにぼくの体を利用しに来る、極めて体調の悪い人、の意味だ。私は確かに「便利な存在」として彼を利用している。結婚10年で磨いた冗談めいた薄情さも含まれている、ぴったりな表現だと思う。できるなら、真人間になりたい。シャバにいてまともな生活を送りたい。でもだめなんだ、できねえんだよ。俺は根っからの極悪人なんだ。俺が極悪人だから、お前の尊さが輝くってもんさ。これからも仲よくしような。