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わかめごはんのしわ寄せ
朝食におむすびを握った。わかめごはんのもとを混ぜ込んだやつ。炊き立てのごはんをまずお弁当箱にとりわけ、その残りを朝食にする。からあげとか、うまくいった卵焼きがおかずの場合、お弁当のごはんをはりきりたくなり、そのしわ寄せが朝食に行く。この日もそんな朝だった。なんか、ごはん、少ない気がする。気のせいか。たぶん気のせいだ。
おむすびはぎゅっと握ると小さくなる。うん、やっぱりごはんが足りなかったな。小さいや。でも何を小さいとするかは人それぞれなので、夫に委ねることにする。「ちょっと小さいかもしれない」と言って手渡す。夫は「ん」と言った。そして「海苔を巻く」と言った。
巻き寿司用の海苔を半分に切って、小さなわかめごはんおむすびを包んだ。「よし」と言った。あたかもその海苔の大きさが、重さが、おむすびの小ささをカバーするかのように。そこに大きなおむすびがあるみたいに、彼は口を大きく開けて海苔にかぶりついた。
残っているごはんは限られている。彼のおむすびを大きくするには私のおむすびを小さくするしかない。彼はそれをよくわかっていて、海苔を巻き、じゅうぶんに大きなおむすびを腹に入れたように「ごちそうさま」と言った。
たいした量を食べてないくせに、「わかめごはんっておいしいよね」と言って出かけて行った。
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おいしいクレープ
2020年10月11日時点のウィッシュリストの残りが、「おいしいクレープを食べる」だけになった。言語化や細分化が得意なので、最初から達成しやすいようにリストアップしているとはいえ、気づけば残りひとつというのは感慨深い。
書いた当時の「おいしいクレープを食べる」は、「早くコロナ禍が明けてほしい。クレープ屋さんに行きたい」くらいのものだったと思う。コロナと共に生きる今、「おいしいクレープを食べる」は難易度が上がった。
引き続きコロナを警戒する、外食が苦手な夫とお店に行けたらいい。バターだけで仕上げましたみたいな洒落たやつではなくて、かといってどこにでも売っているクリームもりもりのものでもなくて。お店じゃないと焼けない薄くて広い生地を折りたたんで、フルーツとクリームとソースをちょうどよく盛りつけてほしい。インターネットでお店を探したら、映え重視のところばかりで、行く前から胃もたれする。実直なクレープが食べたい。おいしいクレープを食べたい。テイクアウトでいっしょに食べたい。

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アンデッド
大学2年生のとき、インターン先の広告会社が倒産した。広告業界の人たちは、自分たちのことを広告代理店と言わない。広告会社と言う。出勤日は社長に日報を書いて提出する。返信には必ず松下幸之助の言葉がついてきた。それじゃあ代理店じゃん、自分の言葉で言えよ、そんなんじゃつぶれちゃうぜ、とえらそうにぶすぶす思っていたところ、言葉は呪いなのかもしれない、ほんとうにつぶれた。負債が膨らんで、社長とその補佐役が失踪した。私を見てくれていた社員が「あの人たちはもう戻ってこれないね」と言ったから、「この業界にですか」と尋ねたら、「いや、この世界」と返ってきた。新聞に小さく記事が出た日、会社のウェブサイトにアクセスした。画像が消え、キャッシュだけが残っていた。会社の屍だった。コンサルとか広告とか、外から言葉をつかう会社じゃなくて、ものづくりをしている製造業で、中から言葉を発したいと思った。
製造業ならどこでもよかったので、どこにエントリーしていいのかわからなかった。好きなものから連想すればいいと聞いてやってみた。それはたぶん「チョコレートが好きだからお菓子業界」みたいなもののはずだったのに、私は「アルファベットが好きだからアルファベットの名前の会社がいい」という軸にして、アルファベットの名前の会社ばかり受けた。
人事の人たちは松下幸之助の言葉が好きだった。カーネギーもお気に入りだった。広報の人たちは広告宣伝費をあまりもってなくて、広告代理店を頼みにしていた。アルファベットの会社はすぐに屍になりそうな会社ではなかったけれど、つかっている言葉が上滑りしているように見えた。つるつるしていて、人との摩擦を起こさない。中は空洞になっていて浮き、滞りなく流れていく。よくも悪くも残らない。
もともとは比喩なのに、使われ過ぎて比喩としての意味をなさなくなった表現をデッドメタファーという。新しい言葉の発明ばかりだとやりとりに時間がかかってしまうから、言葉はある程度死んだほうがいい。自分がつかう言葉のどれくらいが死んでいるのかを意識しながら、たまに言葉がひょこっと動くように扱うのが好きだ。誰かの言葉の繰り返しだな、これどこかで聞いたな、その言葉とその言葉が来たということは次にあれが来ますね・・・ああやっぱりね、とか思うことなく言葉を受けとれる環境は、緊張感がありながらも心地よい。言葉に生があるとき、それをつかっている人も生きているように感じる。
