Writings

New Essays Every Monday

  • ソファに寝そべりぐうたらポテチ

    couch potato
    直訳:長椅子じゃがいも
    意味:長いソファに寝そべってスナックを食べながらテレビやビデオばかり見ている人
    *「じゃがいものようにごろごろ寝そべってテレビにかじりついている人」という解釈もある
    *カウチポテトの人たちを総称して「カウチポテト族」と言う

    リビングのソファは、もっぱら取り込んだ洗濯物置きになっている。そこから各自の衣類を取っていき、しばし片付く。いそがしいと、あるいは体調不良だと、山になる。ツイッターで整った写真を載せていて、「丁寧な暮らしで素敵」と言われることがたまにある。よく見れば、載せている写真のパターンはわかるはずだ。徹底して撮っていない場所やアングルがある。載せないものを決めているだけで、片付いていない部屋はあるし、名もない料理も食べる。

    我が家にはテレビがない。夫婦共々、一人暮らしを始めてから持ってない。暇つぶしを、あるいは見たい番組を一緒に観ることがない。カウチポテトの表現を見て、カウチポテト族への憧れがあったことに気づく。テレビを観ながら、ポテチを食べながら、缶チューハイとか飲みながら、夜遅くまでぐだぐだしたい。夫婦ででもいい、友だちとでもいい、族になりたい。

    私たちは、基本的におのおの好きな番組を自室で見て、たまに夫の部屋のプロジェクターで映画や舞台を観る。夫のベッドにリビングのソファの背もたれ部分のクッションを移動させ、簡易映画館を作る。お菓子も食べるが、なんせベッドの上なので慎重になる。しゃきっとした姿勢で、お皿を抱え、素早く綺麗に食べる。私たちは何族だろうか。いい言葉が欲しい。

  • セルフケアとしての本棚

    私の部屋には背丈よりも高い本棚が3つあり、本が詰まっている。毎年本を買い、売ってきた。「本というものがとても好きだから吟味して買い、買ったからには大切にするタイプ」ではなく、必要がなくなったら、あるいはおもしろくなかったら、わりと潔く売る。

    ただ、何が必要なくなったか、おもしろくなかったか見極めるのは難しい。今必要なくても、今後必要になるかもしれない。今おもしろくないと思っても、それは私のレベルが追いついていないだけで、よく読めばおもしろいのかもしれない。「かもしれないかもしれない」が本の中に栞のように挟まり、売るのを思いとどまらせる。それは「いつか読むべき本」「いつか再読すべき本」に姿を変え、本棚に入っていた年数ぶん重くなる。

    年齢を重ねるということは、この「かもしれないかもしれない」を手放すことかもしれない。視野を広げ、知見を深めるうちに、読みたい本は増えていく。しかし生きられる年数は見えている。体力の衰えが選択肢を減らしていく。世界のすべての本を読むことはできないし、「万人が必ず読むべき本」はないと悟る。

    30代に入って、本棚はべき論のない場所にしようと決めた。少しずつ、「いつか読むべき本」「いつか再読すべき本」を売ってきた。この「いつか」は、なんとなく距離感がつかみきれない人と「いつかまたごはんに」と言い合って、再びの機会が訪れないことに似ている。「いつか」は来ない。さようなら。去ったあと、心にぽっかりと穴が開いて、本当は大切だったと気づくなら、買い戻せばいい。人間関係と違って、本はそれが希少本でもない限り可能だ。

    梅雨に入る前、本の整理と売却作業をした。約200冊売った。今回は、毛穴パックやスクラブパックで余計な角栓を取り除いたような、ごっそりすっきりとした気持ちになった。今までになかった爽快感。残った本の背表紙を見て、どれも好きだと言える。読みたくてわくわくするのを感じる。「かもしれない」と「いつか」をため込んだ自分を、捨てきれた気がする。新陳代謝が巡った。自分が健康だと本棚も健康で、本棚が健康だと自分も健康なんだと思う。

  • 魔法瓶みたいな日

    健康診断の日。出かけるまでに時間があったので、荒川洋治の本を読んだ。紹介されていた詩のひとつに心をわしづかみにされる。健診前、心拍が上がりっぱなしで困る。

    病院までの道では音楽をかけて、待合室ではテレビを眺めていても、頭のなかはさっきの詩のことばかり。おかげで番号を呼ばれても気づかないことたびたび。一概に詩といっても、まったくわからない、何も感じないものも多いのだけど、たまにすごい速さのボールを予期せぬ角度で打ってくるものがある。

    常々、言葉の種類には表現重視のものと伝達重視のものがあると思っている。表現重視のものは、何かを存在させるためのもの、何かをつくりだすためのもので、人に伝えることは二の次というか、わかってもらえてもわかってもらえなくても気にしない。主眼がそこにない感じ。伝達重視のものは、人に何かを伝えるためのもので、人にわかってもらえないとだめなので、わかりやすく、キャッチーに、という指向性。資本主義の世の中では、伝達重視の言葉が便利だし、重宝される。

    荒川洋治がいくつもの本で、このふたつを「詩」と「散文」で言い換えていた。表現重視の、詩のほうが、言葉としては自然であると。言葉には2種類あることと、表現用のほうをより重視すること(排除されやすい表現用も大切だということ)を言っている人を知らなかったので、とても励まされた。

    私はたぶん詩寄りだ。昔から、人にわかってもらおうとするところからは書いてない(わかってもらえないに決まってる、というような刺々しい意味ではない。「人に伝えることを先に考えて、そこから逆算した結果を重視して形をつくること」をしない)。わかりにくいから悪文、とは思わない。読んでもらえない=意味がないとは思わない。金に結びつけたいとも考えない。読まれない、理解されない、儲からないのが前提。

    短い言葉の集積による興奮が冷めない、魔法瓶みたいな日がある。文章でつらつら書くまでではないけれど、瞬間的にガッと生じた感情をそのまま切り取って、パッと配置して、圧縮なり冷却なりしたくなること、形にできたら「ハイ!おしまい!今日はいい日!」と言える日がある。そんな日は、自分が存在している実感がある。

    夕食の席で、ひとつの詩に占領された話、詩と散文の話を夫にした。「きみの言葉はパブリックじゃないってことだね」は、褒め言葉。「今日はそこに “いる” 感じがする」は、私と同じ感想。私にぴったりの表現で、思わずハイタッチと握手をした。

    “パブリックでない” と、私は “いる” ことができる。