New Essays Every Monday
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早くみずうみに行ってよ
ある日の晩、私はドイツの作家、シュトルムの『みずうみ』という短編集を読んでいた。夕食にお酒を出したことで、夫はむにゃむにゃ眠そうにしながら、自室のベッドでごろごろしていた。うらやましいほど一瞬で眠れる人なので、おふろを急かさなければいけない。
私は疲れているとき、よく言葉を言い間違える。料理中、「かつおぶし」が出てこなくて、直前に目に入っていたからであろう「かんきせん」と言い間違えたことがある。先頭の「か」しか合ってない。今回も同じだった。「早くおふろに行ってよ」と言おうとしたのに、「早くみずうみに行ってよ」と言っていた。水がある点しか合ってない。
それまで「すぴーっと寝入るまであと3分です」みたいな顔をしていた夫が吹き出す。「みずうみ、みずうみ、ぼくはみずうみに行かなきゃいけないのですか。みずうみ、みずうみ……」と繰り返して笑っている。私は「ああ、おふろと言いたかった、おふろおふろおふろ」と頭の中で唱える。
おふろから上がってきた夫は、「おふろに入ってえらい」とほわほわ満足そうな顔で私のベッドにダイブした。私は彼がまたごろごろし始めたのを見て警戒する。彼のベッドで寝てくれと促さなければ。「自分のベッドに行ってよ」と言わなければ。なのに、私が口にしたのは「早くおふろに行ってよ」だった。疲れていたんだと思う。さっき「おふろ」と言えなかったのが悔しかったんだと思う。「おふろ」が時差出勤してきた。それまで再び「すぴーっと寝入るまであと3分です」みたいな顔をしていた夫が吹き出す。「おふろ、おふろ、ぼくはまたおふろに行かなきゃいけないのですか。おふろ、おふろ……」と繰り返して笑っている。私はむむむー!と声高に言い直した、「早くおふろに行ってよ!」 あっ……。
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ソファに寝そべりぐうたらポテチ
couch potato
直訳:長椅子じゃがいも
意味:長いソファに寝そべってスナックを食べながらテレビやビデオばかり見ている人
*「じゃがいものようにごろごろ寝そべってテレビにかじりついている人」という解釈もある
*カウチポテトの人たちを総称して「カウチポテト族」と言うリビングのソファは、もっぱら取り込んだ洗濯物置きになっている。そこから各自の衣類を取っていき、しばし片付く。いそがしいと、あるいは体調不良だと、山になる。ツイッターで整った写真を載せていて、「丁寧な暮らしで素敵」と言われることがたまにある。よく見れば、載せている写真のパターンはわかるはずだ。徹底して撮っていない場所やアングルがある。載せないものを決めているだけで、片付いていない部屋はあるし、名もない料理も食べる。
我が家にはテレビがない。夫婦共々、一人暮らしを始めてから持ってない。暇つぶしを、あるいは見たい番組を一緒に観ることがない。カウチポテトの表現を見て、カウチポテト族への憧れがあったことに気づく。テレビを観ながら、ポテチを食べながら、缶チューハイとか飲みながら、夜遅くまでぐだぐだしたい。夫婦ででもいい、友だちとでもいい、族になりたい。
私たちは、基本的におのおの好きな番組を自室で見て、たまに夫の部屋のプロジェクターで映画や舞台を観る。夫のベッドにリビングのソファの背もたれ部分のクッションを移動させ、簡易映画館を作る。お菓子も食べるが、なんせベッドの上なので慎重になる。しゃきっとした姿勢で、お皿を抱え、素早く綺麗に食べる。私たちは何族だろうか。いい言葉が欲しい。
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セルフケアとしての本棚
私の部屋には背丈よりも高い本棚が3つあり、本が詰まっている。毎年本を買い、売ってきた。「本というものがとても好きだから吟味して買い、買ったからには大切にするタイプ」ではなく、必要がなくなったら、あるいはおもしろくなかったら、わりと潔く売る。
ただ、何が必要なくなったか、おもしろくなかったか見極めるのは難しい。今必要なくても、今後必要になるかもしれない。今おもしろくないと思っても、それは私のレベルが追いついていないだけで、よく読めばおもしろいのかもしれない。「かもしれないかもしれない」が本の中に栞のように挟まり、売るのを思いとどまらせる。それは「いつか読むべき本」「いつか再読すべき本」に姿を変え、本棚に入っていた年数ぶん重くなる。
年齢を重ねるということは、この「かもしれないかもしれない」を手放すことかもしれない。視野を広げ、知見を深めるうちに、読みたい本は増えていく。しかし生きられる年数は見えている。体力の衰えが選択肢を減らしていく。世界のすべての本を読むことはできないし、「万人が必ず読むべき本」はないと悟る。
30代に入って、本棚はべき論のない場所にしようと決めた。少しずつ、「いつか読むべき本」「いつか再読すべき本」を売ってきた。この「いつか」は、なんとなく距離感がつかみきれない人と「いつかまたごはんに」と言い合って、再びの機会が訪れないことに似ている。「いつか」は来ない。さようなら。去ったあと、心にぽっかりと穴が開いて、本当は大切だったと気づくなら、買い戻せばいい。人間関係と違って、本はそれが希少本でもない限り可能だ。
梅雨に入る前、本の整理と売却作業をした。約200冊売った。今回は、毛穴パックやスクラブパックで余計な角栓を取り除いたような、ごっそりすっきりとした気持ちになった。今までになかった爽快感。残った本の背表紙を見て、どれも好きだと言える。読みたくてわくわくするのを感じる。「かもしれない」と「いつか」をため込んだ自分を、捨てきれた気がする。新陳代謝が巡った。自分が健康だと本棚も健康で、本棚が健康だと自分も健康なんだと思う。