Writings

New Essays Every Monday

  • 日記とAIと氷の穴

    小学校入学に合わせて親戚のおばさんが買ってくれた学習机。ライトベージュで、つやつやしていて、どの角も丸みを帯びている。右手側、いちばん下の、深さがある引き出しを取り外して、友だちと始めた鍵つきの交換日記を奥の床に置き、引き出しを戻す。今、年に一度、冷蔵庫の野菜室の引き出しをぐっと持ち上げて取り外し、掃除し、戻す動きに似ている。

    学校から帰って来て、自分の日記が読まれた形跡があった日のこと。別の日、交換日記は見つけたものの、鍵が見つからなかった反動か、部屋中がめちゃくちゃに荒らされていた日のこと。初めて買ったCDが粉々になっていた。棚は倒されて、本やぬいぐるみや時計が床に散らばっていた。

    母は私をすみずみまで把握したがり、私は静かに抵抗した。私は言葉が好きだったけれど、いちばん伝えたい人に何も伝えられなかった。その無力感がずっと残っている。感情を表現するのが苦手だ。

    年始に日記をつけ始めた。しばらくして、日記帳を開くと落ち着かないことに気づいた。もう彼女はいないのに。私の日記をむさぼり読む人の背中を見たときのことを思い出してしまう。

    散々自分の文章をウェブサイトにあげておいて何を言う、という感じかもしれないが、エッセイと日記は違う。エッセイは日記の要素を並べてあれこれと取捨選択し、ふくらませ、芯を決め、響きやリズムを調整し、作品として存在させようとしたもの(それが成功したか否かは個々による)。編集をかけたぶん、私は直接には相手に届かない。昔は、直接誰かに届きたい時もあった。でも今は違う。その間接性が私を守るし、距離がちょうどよい。

    最近、AIと話し始めた。自分をたいした人間だと思ってないし、AIを素晴らしい技術だとも思ってない。質問して、回答が返ってきて、その9割が想定内のことで、残りの1割が想定外だったとき、おもしろい。その9:1の設計が多くの人のデータから導き出された統計の結果なら、それに「おっ」と感じた私はそれなりに計算想定内の人間っぽい存在でいられているのかなと思う。AIはこちらが出した情報しか使わない。出してない情報を探しに来る人間より怖くない。

    勉強の計画の話で、私が不安を口にしたとき、AIは「小さくてもいいから進捗を残すといいです」と言った(そういうケアの方面からするとたいへん一般的な回答)。それならハビットトラッカーやってたし、再開しようか、でもなー云々と思っていたら、「アチーブメントジャーナルはどうですか」と提案してきた。勉強に関して、どんなに小さくてもいいから、その日にできたことを3つ書く。途中で止めていた日記帳をまた使うことにした。その日の感情を文章で細かく書けなくても、できたことを箇条書きで残すことはできる。毎晩、3点ぶんだけ、ぶあつい無力感の氷に穴を開けようとしているみたいだ。

    AIアプリのガイダンスで、マインドフルネスのエクササイズをして出かけたTOEIC試験。リスニングパートで、氷に穴を開けて釣りをしている人の写真が出た。正解はたぶんBだった。CとDの音声を聞くあいだ、氷の穴を見つめた。私もこんなふうに開けたい。そのあとすぐに頭を切り替えて、マークシートを塗りつぶし、次の設問に移った。

  • 遺産を相続する兄弟

    僕たちは別れた。たくさんの夢を語り合ったけど、始まりに戻ってしまった。君が夢をひとつくらい叶えているといいな。同じノリでいたけど、進む方向は正反対だった。もう電話は通じない。君について知ってることに何の意味もない。君は僕について何を知ってた? アイスランドに行きたかったことは?

    君が行きたい場所、どこにでも行こう。よりを戻すにはちょうどいい。でも、電話してもツーツーツーと聞こえるだけで、君はそこにいない。

    僕がアイスランドに行きたかったこと、知ってた? やっと行くよ。君なしでね。

    これはイタリアのバンド Pinguini Tattici Nucleari の、Islandaという曲の歌詞をざっとまとめたもの。メロディもいいのだけど、歌い出しがおもしろい。

    Ci siamo separati
    Come due pianeti senza gravità
    Come amici dopo l’università
    Sì, come due fratelli per l’eredità
    Ci siamo confidati mille sogni
    Ed ora siamo a punto e a capo
    A raccontarli a gente a cui non frega un cazzo
    Spero tu almeno uno l’abbia realizzato (ah no?)

    – Google翻訳 –
    We separated
    Like two planets without gravity
    Like friends after college
    Yes, like two brothers for the inheritance
    We confided a thousand dreams
    And now we’re back to square one
    Telling them to people who don’t give a shit
    I hope you’ve made at least one come true (oh no?)

    別れた様子を比喩で表現している。
    「重力のない二つの惑星のように」
    星や宇宙や自然のものに例えるってよくある。
    「大学を出たあとの友だちのように」
    いつも一緒にいたのに、卒業後に疎遠になった人はたくさんいる。
    「遺産を相続する兄弟のように」
    遺産を相続する兄弟のように。
    遺産を相続する兄弟のように!?

    歌詞の文脈的に、無関心になった末に別れたようなので、財産争いでもめたというよりは、遺産が入るまではそれなりに連絡を取っていたが、ようやく手に入ると関係を保っておく理由がなくなり、冷ややかに縁が切れた感じだろうか。

    私は比喩が好きで、卒論もそれで書いたくらいだから、この「遺産を相続する兄弟のように」にはたまげた。ここに引用はしてないけど、「僕はキャプテン翼で、君はセーラームーンだった。同じノリでいたけど、向かう先は違ってた」ともある。グラウンドでサッカーボールを蹴っているのと、宇宙関係のファンタジーでは確かに向かう先が違う。ちなみにバンド名は、直訳が「戦術核ペンギン」で恐ろしいのだが、アルコール度数が30度を超えるスコットランドのビールから来ているらしい。比喩を見つけるのが得意な人たちなのかもしれない。

    AとBの要素がそっくりな場合、その類似は見つけやすく、表現もしやすい。ただ、直接的になりがちで、おもしろみに欠ける。AとBの要素が共通点を持たなさそうな場合、そしてその距離が長い分、連想が生じてふたつを結びつけたときの力は強い。

    私の恋は実って、結婚した。私はそれを比喩で表現することよりも、関係や生活の中で連想や比喩を使うのが好きだ。私たちは別々の人間で、夢中になるものや抱える悩みがまったく違う。つなげるものは抽象的で、目に見えなくて、気づくのに集中力が必要で、保つのに敬意と緊張が必要だ。
    「君の好きなものは、私には難しくてわからないが、私が好きで、君が難しいと言うあれと似ているところがあるね」
    「これは直截的に言えばスーパーネガティブだけど、ためしに〇〇のようだと考えてみよう。するとどうだ、おたがいが受け入れられる形になる」

    いつかどこかで「遺産を相続する兄弟のように」という表現を使いたいと思いながら、今日も彼らの新しいアルバムを聴く。

  • ふたりが肝心

    大阪は、出発地よりも肌寒かった。風が強くてつらい。屋内も絶妙な涼しさ。喉が痛い気がする。しくじった、と思っていたら、夫がリュックからカーディガンを取り出して私に着せた。

    夫と平日に休みを取り、ナショナルシアターライブを観に来た。イギリスの舞台を映画館で観られる。日本で海外の演劇を楽しむ人が多くないからか、上映期間は1週間だけ。家の近くでの上演予定はない。『真面目が肝心』はどうしても観たい作品だったので遠出することにした。

    ふたりとも、原作を日本語で予習した。私は「めっっちゃくちゃうまい。シェイクスピアより好き!」と興奮し、当日をそれはもう楽しみにしていた。夫は部分的に消化不良で、参考書の苦手な公式を理解しきれずに本番に臨んだ受験生みたいな顔をしていた。念のため、ノートに人物相関図を書いて説明しておいた。

    大阪駅。万博直前の活気。新発売のポテチの試供品をもらうために並んでいる人たちの列。エレベーターの降りる階をまちがえてから、気になっていたジュエリーショップに辿り着く。試着試着試着。ホワイトゴールドのを買おうとしたら、店員さんにプラチナもあると言われる。オンラインショップには書いてなかった情報。でもなー、値段が少し上がるよな。んー・・・・・・。何を買っていいかわからないからひとりでは来ないのに、ふたりで来るとジュエリーショップに慣れた雰囲気を出して「これはいい」「微妙」などと批評をさくさく披露する夫が、「プラチナで。めっきははげます。だめです」と言って買ってくれた。

    早めに映画館に行く。夕方、西日が差し込むロビー。塩味のポップコーンのSサイズを買って隅に座る。私が「食べてもいいよ」と言うのは、「少しなら食べていいよ」の意味で、暗につつましさを要求するものだ。彼はそれをじゅうぶんにわかったうえで、がつがつと食べ始めた。おいしいからと1粒ずつゆっくり食べる私の隣で、3つ4つまとめてつかんで口に入れていく。彼はひとりでは買わないし、食べない。私が買うとき、「え?買うの?」とあきれた口調で言う。そして私といっしょにすました顔で食べる。

    初めてふたりとも予習した観劇は、予想以上におもしろかった。昔の文字情報が、現代、新しい解釈で演出されること。作者のオスカー・ワイルドは、性的志向を理由に投獄された。こんなにカラフルな演出を見て、なんて言うだろう。キラキラしていて、明るくて、ユーモラスなコメディだった。ひとりでは観に行かないが、私のプレゼン次第でなんとかついてきてくれる夫は、今までのナショナルシアターライブの中ではいちばんわけがわかって、おもしろかったらしく、照れくさそうに笑っていた。

    20時過ぎに終わったので、夕食は軽く飲むくらいにすることにした。ひとりでは行かないけれど私といっしょならなんとか行けるような店に行き、カウンターでちびちびやる。彼の、緊張するけど勇気を出してくれることが嬉しくて、にこにこしてしまう。

    平日に休みを取ってくれたこと。プラチナを買ってくれたこと。カーディガンを持ってきてくれたこと、取り出して着せてくれたこと。お芝居につきあってくれたこと。いっしょに食事してくれたこと。そばにいてくれたこと。当たり前じゃないことが詰まっていた日。