Writings

New Essays Every Monday

  • 言葉を消すことにした

    たとえば『さんかく窓の外側は夜』の主人公・三角の母親の同僚は杖をついている人なんです。何かしらの属性があるんだけれど日本の漫画ではあまり見かけない人を、その人の属性を描くことをメインとせずに出すということはこれまでの作品でもちょこちょこやっていまして。私たちの日常にいる人たちが創作物でなぜかいなくなるのをやめたいと思っているからなんです。

    ヤマシタトモコ『ほんとうのことは誰にも言いたくない』 p.314

    自分の属性を説明しなくても居られる場所が増えるといい。穏やかな日常を過ごしたい。説明しなきゃいけないのかな、したほうがいいかな、なんて不安を抱えていたくない。説明すれば、相手に理解を求めることになる。ことあるごとに言葉が増えていく。説明せずにいると、邪推されたり、変に気を遣われたり、陰口を言われたりする。言葉をつかわずにどう正しく振るまうかに注力する。

    説明することも、「説明しないでおくと決めること」も、判断に迷うことも疲れた。居させてくださいと自分から進んで宣言することも、透明でいられるように緊張することも、この人には、今日は、ここではどうしようかと悩むことも全部。新しい環境に行くのは怖い。新しい環境を目指す時点から怖い。

    泣き疲れて寝て起きて、言葉を消すことにした。説明する、説明しないことにする、うまくやる、隠す。言葉がなければ考えない。自分が前向きさも後ろめたさも帯びない。言葉をつかわずに、ただ居ることにする。きっと、新しいところに行くのは誰でも怖い。そこに私の属性の話をくっつけてひとりで格闘しない。よし。

    手もとに読みかけの『妖精の女王』があった。騎士が怪物を倒した。私も何かをぶった切った気になって、ふらふらと泣いた。夫からLINEが来て、泣き顔のコリラックマのスタンプで返したら、「きんきゅうじたいのがいようをのべてもいいよ」と来た。わたしたちはひらがなではなす。かきことばもはなしことばもたいていひらがなをつかう。かたいことばもやわらかくなる。そしてことばにしないこともおおい。ことばにたよりすぎない。あればつかう、つかってあそぶこともある。ことばはにちじょうのすべてではない。せかいはことばよりずっとおおきい。

    言葉以前に、私が、私たちが居る。

  • ビスケットをつくる

    「猫がふみふみするやつさ、英語だと”make biscuits”なんだって」
    お風呂上がりの夫が私のベッドに飛び込む。
    「ぼくの腰でビスケットつくって」
    私は猫の手と動きを真似して、彼の腰をマッサージする。

    ふみふみふみふみふみふみふみふみ。
    ふみふみふみふみふみふみふみふみ。
    ふみふみふみふみふみふみふみふみ。

    私「もういいかい」
    夫「もっと」

    ふみふみふみふみふみふみふみふみ。
    ふみふみふみふみふみふみふみふみ。
    ふみふみふみふみふみふみふみふみ。

    私「もういいかい」
    夫「もうすこし」

    ふみふみふみふみふみふみふみふみ。
    ふみふみふみふみふみふみふみふみ。
    ふみふみふみふみふみふみふみふみ。

    私「もういいかい」
    夫「もうすこし」

    ふみふみふみふみふ、

    夫「もうすこし」

    私「もうこね終わった。そろそろオーブンで焼く」

  • ポメラとマクベス

    使わなくなったポメラを夫にあげた。Linuxを入れて改造しようと、嬉々としている。何をしているのか、その何が楽しいのかはわからないが、ずっと楽しそうなのでこちらまで楽しくなる。何日も、夜遅くまで作業に励んでいた。

    シェイクスピアの「マクベス」の舞台が映画館で観られるというので、彼を誘った。平日に行こうという話になり、彼は会社で年休を申請した。申請理由欄には「マクベス」と入力し、教養あるエンジニアを装ったが、原作を読む気はない。

    前日、私が主な登場人物とあらすじ、みどころを説明する。彼は目を閉じて、眉間に皺を寄せ、頭を傾けて聞いている。たぶん魔女が出て来るあたりで(それはつまり冒頭部から)理解が追いつかなくなり、マがつく登場人物の数に混乱した。夕飯を食べながら、シェイクスピアの学者と翻訳家による公開記念トークショーを観る。私が「へええ」「なるほど」「あーそういう解釈もねーあるのねー」と食い入るように聴いているのと対照的に、彼はにこにこと私を見つめている。ついてきてない。

    映画館の2時間はあっというまだった。限られたキャストが、ひとりで何役もこなす場合があることを伝え忘れていた。「私は白い舞台に影が映えること、透明な壁の使いかた、幼い男の子の演出が好きだった!」という感想で隣を見たら、彼は「英語がわからん、順番が変だったぞ」と言った。そしてひとりで数役こなすつくりを把握しきれてなかった。昼食をとりながら細かく説明したら、初心者にしてはいいぐあいにまあまあわかったようで、満足そうだった。

    私たちは別々の部屋をもち、休みの日でもおのおのこもって過ごすことが多い。おはよう、スーパーに行こう、食事をつくろう、食べよう、ちょっとハグしようぜ、掃除しよう、お風呂入れよう、寝る前のごろごろ、おやすみ、くらいしか接点がない。おたがいの研究対象のことがおたがいわからない。研究対象へのエネルギーに共感して生きている。暮らしの中に言葉にならないものがどっさりあり、昔はそれが不満だったけど、今は心地いい。

    わかんないけど、わかるよ、あれでしょ。
    そうそう、それ。