Writings

New Essays Every Monday

更新情報+αが届くニュースレターはこちら

  • 物理的な痛み×260

    病院の待ち合いのキッズスペースで、幼い女の子3人がテレビのアンパンマンに見入っている。アンパンチのところで立ち上がり、自分たちの右手をぶいんと回す。ばいきんまんが飛ばされて、彼女たちの腕は天井に向かって突き上がり、ジャンプと共に揺れる。受付の人が私の番号と名前を呼んだ。私もこれからがんばってくるね。

    嫌な季節だ。ピンポイントでこの週が嫌だ。この週が嫌だと思い始めるとその時点から嫌な気持ちが始まるから嫌だ。ちゃんと睡眠と食事をとっていても、なんか息苦しい、めまいがする、おかしい。調子が悪いと名づけると呪いにかかるようだから言葉にしたくない。だけど、夫とスーパーに行って「夜いっしょに食べよう」と言われて買ったうなぎを、いざ食べようとなったときに、「紺ちゃん全部食べて」と言われ、一切れを除き全部食べることになるのはよっぽどだ。それはさすがによくないよと私が焼いたちくわに、彼は蒲焼のたれをかけて「うまいうまい。もはやうなぎ」と言っている。気を遣わせすぎだ。

    とはいえ、気持ちを切り替えれば解決するようなものではないのだ。誰かに吐きだすものでもない。ただそこにあるだけだ。いつもそこにあるだけ。私は距離をとって見ているので安全だ。でも、安全だと言い聞かせている時点で、これからまた起こるかもしれないことを怖がってうんざりしている。

    戦いたい。物理的に戦って打ちのめしたい。物理性が欲しい。

    そこから美容皮膚科に飛ぶ頭を私は愛している。ルメッカを受けに行こうと思った。ルメッカは光治療でシミやくすみを取ってくれる機械だ。レーザー治療みたいなもの。耐えられなくはないがそこそこ鋭く、ゴムで弾かれるような痛みがある。私は数年前に何回か受けていて、今後は1年に1回くらいかなあとぼんやり思っていた。そこに、物理的な痛みと戦いたい欲が重なって連想になった。

    ただ、論理的に考えると破綻している。もうすでに痛いのに、新しい痛みを買いに行く。看護師さんは敵ではないし、施術は攻撃ではない。勝った負けたの話ではない。

    ふらりと行った皮膚科は空いていた。直前まで、これはもうただ施術を受けたいだけなのでは?と思っていたけれど、始まったら違った。パチッ。パチッ。パチッ。小さいが強烈なゴムで弾かれているよう。目を閉じてプロテクターをつけていても暗闇に火花のような閃光が走る。知ってはいたけど、年1回なら忘れてしまう痛み。背筋がびくっとなって緊張する。照射は右の頬下から始まって、少しずつ上に移動する。パチッの数を数え始めた。1、すばやい深呼吸、2、すばやい深呼吸、3、すばやい深呼吸。目元など、痛みが増すパーツには事前に声かけがある。あっ、思ったより痛い、ということもあれば、ふっ、たいしたことないということもある。

    おでこはとても痛かった。早く帰りたかった。カウントが長くなったような気がした。さあ、来い。痛っ。はー。へい、次。呼吸や意識が照射に集中する。私は一定のリズムで痛みを感じ、一定のリズムで痛みを乗り越えた。途中で少しカウントが飛んだけど、約260回、痛みを乗り越えた。数日経つと、肌の調子がよくなる。弾むようなハリになる。

    ふだん嫌なことがあって、それをずるずると引きずっているとき、頭の中でどれくらい自分を傷つけているものなのか、私はわからない。でも260回なんてゆうに超えるだろうと思う。戦いたいのに戦いきれなくて、疲れて消耗する。きりがない。痛みを耐えている自分を物理的な状況で可視化してみると、たった260回でも、よく耐えたなと思った。130回目あたり、全顔が1周終わったとき、そうそう、いつも忘れちゃうけど、2周目があるんだよねと気を入れ直した。さっき痛かったことをもう1回経験する。よくやった。いつもよくやってる。周りに支えてくれる人がいても、肝心なところはひとりだ。暗い。みんなそういうものだと思っても、うまくいかない。

    気持ちを切り替えるのはうまくいかないけれど、切り替わっているのはいい。瞬間瞬間に全集中したあとの弛緩。よくわからないけどすがすがしい。

    看護師さんが「次はいかがされますか」と予約表を渡してくれた。いえ、1年後なのでと言って、受け取らずに施術室を出た。

  • ぽんちゃん

    夫は私の好きなところを「存在」と言う。私は彼の好きなところを「ほっぺ」と言う。ヒゲは痛いから、ヒゲそり後のほっぺが好きだ。なぜと言われてもわからない。好きだから好きだ。でも痛いからヒゲつきは嫌いだ。彼はそれを「条件つきの愛」と呼ぶ。

    時々いただくおたよりの中に、「夫さん、とお呼びすればよろしいのでしょうか」から始まるものがあった。この機会にお知らせしておくと、彼は「ぽんちゃん」という。正式な名前も当たり前にあり、私もそれで呼ぶときもある。こだわりの眼鏡をかけて、ずっとコンピュータいじってましたというような平日の帰宅後、および土日の日中は、そちらの正式な名前で呼ぶ。それ以外が「ぽんちゃん」で、由来は私がLINEで「夕食はきみの好きなからあげ」などと送ったあとに、彼が「ぽ」と返してきたことによる。私の存在への紅潮か、からあげにか、両方か、知らないが、なんかぱぴぷぺぽが似合う系のかわいさがある。ばびぶべぼとか、がぎぐげご、さしすせそじゃないっていうか、ちょっとなにぬねのも入ってるような、そういう系です、伝わりますか。

    「ふたりでごはんを」で、彼のかわいさとかっこよさについて書いたわけだけれども、私がどちらの面もよろこんでいたのは、結果的によいことだった。年を重ねても、彼は男性らしさを前面に押し出して振る舞うこともなく、男性らしさにとらわれて悩んでそうなこともなく働き、家に帰ってスーツを脱ぎ、くたんとしたトレーナーとパンツにリラックマの着ぐるみのように着替えたら、ぱきっとスイッチが切り替わり、次にスーツを着る時間までゆるキャラになる。切り替えがうまい。ぽわぽわしている。スーツでは主に英語と漢字で話している人が、ひらがなで話し出す。

    仕事から帰ってきて、着替えて、ふにょーんとなって、「かえった」と抱きついてきて、その日の出来事をうにゃうにゃ話し、夕飯を食べ、お皿を洗い、コンピュータを触ったりアプリのアップデートをしたり動画を観たりしていると、夜の9時過ぎ、そろそろ眠くなり、「ぼく、おふろはいる」と言って浴室へ行く。お風呂で、牛乳石鹸のボディソープとフェイスソープを使う。本来は大嫌いな牛乳も、私がこの製品の香りが好きだと言ったら愛用するようになった。何もしなくても私が寄って来るので、彼はその香りを「紺ちゃんホイホイ」と呼ぶ。しばらくして、「おふろでたー。ねるー」と言いながら、私の部屋にやって来る。そして私のベッドに飛び込む。いつも小さくバタ足をする。

    このときは、ベッドの長辺に対してできるだけ平行に寝そべるのが好ましい。私があとから横に寝そべったときに、足が落ちないから。だけどもう寝るだけ状態の彼は、往々にして斜めに突っ伏す。私は、まっすぐに生きようよと言って、彼のふくらはぎあたりを膝で押す。彼がまあまあの角度になると、スペースが空く。私はそこに潜り込んで彼に抱きつく。

    お風呂上がりのほっぺは、いい匂いがする。ヒゲがない。肌がちゅるちゅるぴかぴかぷにぷにしている。大好きだ。愛しているよ、ほっぺ。彼はされるがままというか、「そうですよね、これが好きなんですよね、はいはい」というような感じと心地よい眠気で無防備になり、私に抱きつく。私が私のほっぺを彼のほっぺにくっつけたり、彼のほっぺを指でふにふに触っているあいだに、彼はすぴーと眠り始める。まつ毛が長い。私はこのあたりで豹変し、ほっぺをぺちぺち叩き始める。「起きて。ここで寝ないで。自分のベッドに行って」と彼を起こそうとする。あまりに起きない場合、壁側の隙間に入り、彼の体をむーっと押し、ベッドから落とそうとする。いやはや、本当に条件つきの、薄情な愛。彼は目を覚まし、「紺ちゃんひどい。ぐすん」と言いつつ、私を抱きしめて、「もうあっち行くもん」と言う。私は「おやすみ。またあした会おうね」と言う。彼は「にゃ」と言う。分かれる。

    昨日の夜、お風呂に入った後の彼が私の部屋に来た。私は論文を書いていた。彼はとても眠そうで、ベッドの斜めダイブの気分じゃないようだった。作業をする私に近づき、抱きつき、「おやすみー」と言った。私が、ちゃんとぎゅーしようぜと言って立ち上がるころには部屋のドアは閉まっていた。ドアを開け、部屋を出て右方向にてててと歩く。ぽんちゃー、ん?いない。あれ。と振り向くと、彼がいた。部屋を出て左方向の場所に隠れていた。笑いをがまんしながら、むふふふふふんと変な音を出して笑っている。「あー」「はー」「ふふふ」「かわいい」とか言う。両手を胸に当てて、私の部屋に戻り、ベッドに仰向けで斜め寝する。ハートを射抜かれてしまいました、みたいな姿。「あーかわいかった」と言いながら目を閉じている。そうだろうそうだろう、私はかわいい。ほらもっと見せてやるよと彼の上に乗る。私と目が合って、くくくくと笑い続ける。また目を閉じて、にんまりして、ひとりで余韻を味わっている。「そういうところだよ」と茶化してくるので、「わざと!ほんとは気づいてた」と言ったら、「そうだね。わざとだね」と本気にしない。ねえ、もっかいやってあげる、いや私奇数が好きだからあと2回、と言ったけど、1回で充分だったらしく、彼は私を抱きしめて「はーー」と言った。そしてにまにますぴーと寝始めたので、私は彼の腕から抜け出してごろりと壁側に落ちる。ほっぺをぺちぺち叩いて起こす。

    あほなままで、私たちはどこまで行けるんだろうね。

  • 本と深呼吸

    エイミー・レヴィのMedeaという詩の意味がわからなかった。Medeaを辞書で引くと、「Jasonを助けて金の羊毛を獲得させたColchis島の王女で女魔法使い」とある。Jasonは「アルゴ船の一行を率いて遠征し、金の羊毛を獲得した勇士。王女メディアを妻とするが、後にクレウサを妻に迎え、メディアを捨てた」。情報が足りない。時が来た。本棚から『神々を知ればもっと面白い!ギリシャ神話の教科書』を探し出して広げた。

    大学時代、聖書とギリシャ神話を避けていた。英文学で院進したいならもう避けられないと腹をくくり、イラストが多めで、かつ情報密度の高い入門書を買った。当時は、有名な作品(キャノン)を全部読まなきゃ、覚えなきゃと思っていた。文学の学び方を知らなかった。文学史よりもはるかにややこしいギリシャ神話は後回しになった。

    学部で網羅的な知識を入れたことも、そのあとできるだけ原典でキャノンを読まなきゃと意気込んでいたことも、それ自体はよかった。体力はついた。ただ、わかりやすく圧倒されて疲れて息切れした。きりがない。『ユリシーズ』を英語で読破できる自分をいつまで経っても想像できない。聖書、ギリシャ神話なんて無理。

    学部研修生になった。指導教官は、イギリス文学の圧倒的な伝統や権威性を骨の髄までわかったうえで、キャノンからこぼれ落ちた作家を研究している。指導教官の指導教官は、「君はいつも私の知らない詩人を探し出してくるね」と言っていたらしい。ヴィクトリア朝後期で有名なのはオスカー・ワイルドだ。レヴィはキャノンに出てこない、けれどワイルドが讃えた詩人。ロンドン生まれのユダヤ人。ケンブリッジ大学に入学した2番目の女性。独身。教育を受けた女性が教師になることを望まれる社会の中、詩で身を立てようとした。27歳で自死。彼女が自分の人種、病、セクシャリティ、政治的思想をどう考えていたのかは、確定的な情報がない。彼女は再評価されてきていて、ついこの前、ケンブリッジ大学が手紙などのアーカイブを設立した。

    レヴィの詩を読む。短編を読む。長編を読む。エッセイを読む。ユダヤ教を学ぶ。ユダヤ教を知るためにキリスト教を学ぶ。ヴィクトリア朝のロンドンを学ぶ。ヴィクトリア朝ロンドンを知るために、前後の時代を学ぶ。都市を知るために、田舎のことを学ぶ。田舎は自然や植物がいっぱいで国民に愛されていると知る。自然や植物が、都市を扱った作品でどのように表象されていたか学ぶ。ワーズワースという偉大なキャノンの要素が、白人・男性・キリスト教だと知り、それをキャノン全体の文脈で眺めてみると、「読むべきキャノン」ってなんだろうという考えに至る。知識を覚えようとしなくても、覚えてしまっていることに気づく。キーワードごとの学びが混ざり、私の立脚点ができていることに気づく。自分で立脚点を作ったのだと気づく。

    私とギリシャ神話の関係は、この流れの中にあった。私は気負わず、メディアのページだけを読んだ。そのあとレヴィのMedeaを読んだら読みがずいぶんと変わり、おもしろかった。ギリシャ神話を最初から最後まで読み通し、すべてを覚えていなくてもいい。気になったときに、また戻ればいい。そこからもっと読みたくなったときに読めばいい。深い呼吸で文学と生きることを、先生から教わっている気がする。

    気持ちをゆるめたほうが息をしやすいと気がついた時期に、「ひらやすみ」を知れたのがよかった。夕食を作りながら、Prime Videoで1話ずつ観た。うまく言えないけれど、今の私みたいな私がありうること、あっていいと知らずに、ずっと走ってきた。キャノン読まなきゃ、積読減らさなきゃ、という思考回路だった。砂の山を作った。水路を作って川を作った。水を流し込んだら水路が思いもよらない場所で崩れて、別の川ができた。水が砂を割って進んでいく。私はそれをゆっくりと追いかけている。

    未来の自分のために本を買う。大人買いした『ひらやすみ』は、論文を提出したら絶対読むんだ。