月: 2025年10月

  • 夫が風邪を引いた。一度引くとこじらせてしまいやすい人だ。

    10月のなかば、金曜日、週末の映画のチケットを買った。そのあと、ふたりとも喉が痛くなった。葛根湯とビタミンを摂り、安静にしておく。映画に行けるかしら、どうかしらと思っていたら、彼の風邪だけ悪化した。私だけ回復するのは悪いことをしているみたいでうしろめたい。

    もともと体温が高めの人なので、いつも寒くなるぎりぎりまで夏服を着ている。扇風機も回し続けている。そのせいじゃん。私は秋冬用のルームウェアをクローゼットから引っ張り出してきて彼に着せる。白いトレーナーを頭にぱふっとかぶせた時に、彼は「ぱふっ」と言った。おいおい、余裕だな。例年通りならこれから熱が上がるぞ。

    彼は病院に行くと気持ちが悪くなるくらい病院が嫌いなので、布団にくるまって過ごす。我が家では、ウイルスにモテモテの状態を「人気者」と呼ぶ。瞬く間に、どんどん人気者になっていく。はちみつに大根を浸して作ったシロップをお湯に溶かして飲ませる。おいしくなさそうなので私は飲んだことがない。おばあちゃんの知恵袋的によく効くらしく、彼には積極的に勧める。とても微妙な顔をしながら飲みきっていた。人として私より上。

    ポカリスエットの大きなペットボトルを買ってきたり、ほうれん草とエビと卵のおじやを作ったりして看病する。熱を測る。高い。声をかけても、頭を縦か横に動かすだけだ。ずっと観たかった映画だったけど、もうどうでもいい。早くよくなるように祈る。連休が明けて、平日が始まってもまだつらそうだった。横になりっぱなしの腰や背中をマッサージする。

    私が大学に行く日も、彼は会社を休むことにした。何を食べたいか聞いても返事がない。帰りにハンバーガー屋さんに寄れるけど、何もいらない?と聞く。ようやく「照り焼きチキンバーガー」と返ってきた。食べたいものが出てくるのはいい兆候。でもいつもはハンバーガーふたつとポテトを所望するので、本調子ではない。温かいうちに食べてもらおうと急いで帰って渡したら、はむはむと食べていた。ハンバーガーの白い包み紙に顔が隠れるのは、元気なときだろうがそうでなかろうがかわいい。

    次の日、食材の買い出しに行く。買ってきてほしいものを聞いてもリクエストがない。風邪ではないけれど、私も体調が悪くてだるだるしていた。栄養のありそうなものを買って帰った。ベッドに寝ている彼の顔をのぞきこみ、夕食のメニューを伝える。ねえ、ファミチキとか食べたくない?買ってこようか?と聞くと、彼は目をつぶったまま頭を横に振った。そっか、買ってきたんだけど食べないんだね、スパイシーなやつ、と言ったら、目がぱちっと開いて、輝いた。うそですと言ったら、しょんぼりしていた。回復は近い。

    熱が下がり、食欲も戻って来たころ。頭はどう?と聞いたら、彼は「いい」と言った。そうだね、きみはいつも頭いいよね。胸が苦しかったりしない?痛みがあるなら病院に行かないといけないんじゃないかなとたずねたら、両手で胸を押さえて「きゅん」と言った。おかえり。

  • 「じゃあ次はラブストーリーに取り組みましょう」

    クリエイティブライティングの先生とは、関係を築いている最中だ。海賊の話を英語で書いたら、半分くらいは自分らしかったけれど、半分はぎこちなく、言葉を使いこなせない不満を感じた。先生が “Show, don’t tell”(「説明するのではなく、見せる」という、創作の基本のひとつ)の話をしてくれたときに、「それ、たぶん日本語だとめっちゃやってる気がする」と言ったところ、「え!既に書いてあるものないの?読ませて!そこから始めましょう」と言われた。そこで「ふたりでごはんを」の英語バージョン、”MEALS FOR TWO”を書くことになったのだ。

    翻訳の初心者ではないし、オリジナルの作者なので、直訳はしない。でも説明しすぎはいやだ。日本語の空気感も残したい。そこで出した第1稿は、細かい英文法・単語のミスがいくつかと、「何を言ってるの?」「なぜ?」という大きめの指摘3つを受けて戻ってきた。”Show, don’t tell”には、「説明しない」も含まれる。だけど、説明しなさすぎるのはよろしくない。大きめの指摘は説明が足りないところだった。日本語の感覚だと、そこの加筆は説明しすぎのように思えた。でも加筆しないと伝わらないので加筆した。”Show, don’t tell”の感覚が少し違うのかもしれないなと、勉強になった。

    第2稿の修正はなく、「”Show, don’t tell”のエキスパートね。彼が食べられない理由について何も言ってないのがいい」と言われた。たしかにそこも”Show, don’t tell”。私の文章をいくつか読んでくれた彼女は、私の文章の”subtlety”を褒めてくれた。繊細さ、とらえにくさ、緻密さ、ほのかな感じ、なんとも言い難い感じといった訳がつく単語。自分の日本語の文章に対してそう思っていたので、英語でも伝わるものなんだなと、ちょっとばかしニュアンスが変わったとて残るんだなと、彼女の話を静かに聴いていた。

    「こんなラブストーリーを書けるなら、今度はこれをやりましょう」と言われて見せてもらったのが、New York Times(NYT)の人気コーナー “Tiny Love Stories”(ちっちゃなラブストーリー)だった。読者が書いた100語以内のラブストーリーがNYTに載る。あたりまえだけど、ラブストーリーといっても、”romantic”(恋愛に関する、性愛の)だけではない。サンプルで読んだ、”New Announcement, New Name, Still Ours”が印象的だった。

    New Announcement, New Name, Still Ours
    When you were born, we sent announcements — name, weight, date — engraved on thick white cards with pale pink stripes and polka dots. “It’s a girl,” we said. We were thrilled. Now, 16 years later, so much is new. The pink was wrong. The name was too. This time, we know. It’s a boy. There will be no pastel stationery. This time, we are telling everyone, face to face. He’s ours. — Maria Blackburn

    (拙訳)
    新しいおしらせ、新しい名前、変わらず私たちの子
    あなたが生まれたとき、私たちは名前、体重、誕生日をカードに印刷して送った。薄いピンクのストライプと水玉模様のついた厚めの白いカード。私たちは「女の子です」と書いた。わくわくしていた。16年経った今、何もかもが新しい。ピンクにしたのは間違っていた。名前もそう。今回はわかってる。男の子よ。パステルカラーの便箋は使わない。今回はみんなに直接会って伝える。彼は私たちの子なのって。―マリア・ブラックバーン 

    Tiny Love Storiesの創作教育用PDF:
    https://int.nyt.com/data/documenttools/teaching-with-tiny-love-stories-pdf/753c41721cde1b10/full.pdf
    Tiny Love Storiesの詳細や書き方など:
    https://www.nytimes.com/2021/02/08/learning/writing-narratives-with-tiny-love-stories.html

    ペットへの愛情も、物事への愛着も、たまに見かけるけど名前は知らない人へのささやかな心配りも、全部ラブストーリーになる。世界の広さに、私は頭がぱっかーんと開いた気持ちになった。これに取り組むの、とても楽しそう!

    先生は「紺が長いラブストーリーを書けるのはわかったわ。今度は短いやつね。Less is more(少なければ少ないほど効果は増すという定型句)」と言った。

    いつか購読したいと思っていたNew York Times。大学の電子ジャーナルで全部読めると知ったときのうれしさったら。検索したら、読み切れないほどの、たくさんのラブストーリーが出てきた。授業と個別指導とこの購読許可で、大学に支払った研修料のもとが十分に取れてしまうよ。

    今日このエッセイを書く前に、ひとつ、ちっちゃなラブストーリーを書いてみた。必要最低限の表現にしたのに、180語になってしまった。全部必要だと思っていたところから削る。かつおぶしみたいにうすく、うすく、少しずつ削る。私はいつも、観察者のような立場と距離感で、静かな文章を書いてしまう。よいところでもあり、悪いところでもあり。でも嫌いじゃない。冒険や実験はしてみたいが。まあ1作目だしと思い、いつものように落ち着けることにした。ちょうど100語。ロマンティックラブストーリーではないラブストーリーが書けた。

    来週までに、あと2~4作書く予定。100語が表現できるのはほんの少しのこと。ほんの少しのきらめきが、日常にあふれていて、何を切り取ろうか迷う。

  • 自己紹介ばかりしている。

    何か新しいものを手に入れるには、古いものを捨てて、新しいものが入る場所を作らなければならない。そう実感した夏だった。7月28日、会うたびに私に大きな主語の不平不満を言い、メールでもすぐに話題を自身のものに変えてしまう人との関係を切った。私がゴミ箱として扱われているようで、ずっと苦しかった。それを打ち明けて、謝ってくれたこともあったけれども、人は基本的に変わらない。繰り返す。「苦しみながら、泣く泣く逃げる」ことは何度もあったけど、平常心で「自分を大切にするために、嫌な人間関係を切る」のは初めてだったから、決めるまでにうだうだした。とはいえ特別にやることはない。相手のメールアドレスを迷惑メール扱いにするボタンを押すだけ。頭痛がした。つながっていたようでいて、もとからつながっていなかったのかもしれない。

    7月最後の日、編み物教室に行って、先生のババアと話す。高齢の女性をババアと呼ぶのは、私の執筆ポリシーには反するし、基本的にはいつも「先生」「おばあさん」と呼んでいるけれども、本人は自分を「ババア」と呼んでおり、高齢の生徒や近所の人々のことも「ババア」と呼ぶくらい口汚いので、今日だけは「ババア」を使ってみる。ババアは口汚いがまっすぐな人で、曲がったことを嫌い、他人に迷惑をかける人を教室やイベントからすみやかに出禁にする。話しているとすかっとして気持ちいい。愚痴ばかりの人を切ったと話したら、「ああ!それはいい!」と笑った。照明のオレンジ色の光が、上がった頬のチークを照らす。「これからいいことが起こるよ。きっと起こる」

    私は6月に大学院進学を断念してほうけていた。落ち込みと前に進みたい気持ちが、猫が遊んだ毛糸玉のようにぐちゃぐちゃに絡まっていた。それが突然ほどけた。8月1日の土曜日から急にいそがしくなった。私立だからと全然視野に入れてなかった大学の研修生制度を偶然知る。学部を既卒であれば、指導教官の承認がもらえれば、文学研究の指導を受けられる。いや、それでもさ、指導教官にいい人がいないんでしょう、と期待せずに調べると、たいへんおもしろい先生がいた。将来英文学を学ぶ場は消滅するので、今のうちに学んだほうがいいと、大学のオフィシャルページで話している。直球だ。ユーモラスな感じとともに、かなり頭が切れそうな印象を受けた。大学の先生のイメージがいい意味で壊れ、直感的にこの先生に学びたいと思った。ただ日程が問題だった。週が明けて3日後には大学がお盆休みに入り、それが明ければ出願期間だ。出願期間までに、教務課から出願書類をもらい、先生にアポを取り、面談し、承認の可否を受けなければならない。ババアは幸運をもたらすのだろうか、教務の人はすぐに資料を送ってくれた。私が連絡した日、先生はイギリスにいた。週明けに2週間くらい日本に滞在したあと、9月中旬まで別の国にいるとのことで、お盆に面談を設定してくれた。メールで、面談で、英語を使ってたくさんやりとりした。「私はあなたを受け入れます」と言って、書類にサインを書いてくれた。

    1週間後、彼から「紺、9月末のこの読書会に一緒に行きましょう」と連絡が来る。私はまだ出願すらしていなかったので驚いた。もう私を研修生扱いしてくれている。私はこの先生に会いにいくのだけでも勇気が必要だったので、すぐに別の先生方のところに行く余裕がないと返した。それからしばらく個人的な話を交換したけれど、私は「まだ出願してないんだが……」と思っていた。

    出願したあとは、クリエイティブライティングの先生を探した。オンラインと通学型の外国語学校、どちらも調べた。自己紹介と求めているものを伝える。これはいつまで続くのかしらん、と思うまでもなく、早々にいい人が見つかった。大学院進学を考えるにあたって、何が大切で、何をやりたくて、何が嫌で、というのに散々向き合ったおかげなのか、ババアのおかげなのか、英文学の先生に出会ったときのように、「この人だ」と感じた。会うと、緊張よりもほっとする。授業の進め方についてはだいぶ長くやりとりする必要があった。おたがいに混乱して、連絡が止まった日もあった。ある日、夜中の3時に起きて、彼女がオンラインなのを確認して、思い切って口火を切った。いつもはタイムラグのあるチャットが、すばやく動く。些細なすれ違いゆえの混乱がほどけて、安心した。

    大学の先生との面談で、精読の授業に物足りなさを感じたので、補ってくれるような場所を探した。ババアのおかげなのか、存在していることが信じられない、すばらしいオンラインのゼミを見つけた。

    3つの基軸に、自分で作ってきたリーディングリストと、語学と心身の体力づくりを組み合わせると、理想の学習環境ができた。これからどういうところを目指して、何を学んでいきたいか、あらためて文章にしたくなった。私はあまり自己開示をしてこなかったので、どんな人だろうと思われているかもなとは思っていた。そこにさらに独自カリキュラムで学んでいきますと言うのは、不思議さを深める。「ふたりでごはんを」の文章を好きと言われることがあるけれど、今の自分からすると綺麗にまとまりすぎている気がして、もっと自分の心をえぐるようなものを書きたいとも思っていた。書き始めると速かった。

    合格通知をもらって、入学した。イギリスの詩を学んでいる。授業ではグループワークが多い。毎週、グループメンバーは変わる。すでに人間関係ができている人たちの中に入るので、毎度自己紹介から始める。正規の学生と先生のあいだくらいの年齢で、ふるまいに迷うこともあったけれど、あまり考えすぎず、めいいっぱい学ぶことだけに集中している。ずっと寝ている人の横に座ることも、私が教えたことに対してキラキラの目で「ありがとうございます!」と言われることも、グループメンバーAさんが「私、勉強しない人嫌いなんで」と言って、予習してきていないメンバーBさんと授業中一切話をしない姿にひやひやすることも、今の私の日常だ。

    ババアに報告に行ったら、「今日は顔色が違うね」と言われた。「先生のおかげです」と言ったら、「違う、その糸を選んで編んだのはあなた」と返ってきた。その日のババアの言葉遣いは綺麗だった。

    挨拶と自己紹介の先では、何が起こるかわからない。いいことが起こるかもしれないし、そうじゃないかもしれない。でも私はしばらく、自分から先に働きかけてみようと思っている。新しい人に出会うことも、新しい詩に出会うことも、できるだけ自分から。

  • 私の書斎は、照明がオレンジ色の図書館と、いつまでも座っていられるカフェのソファ席、機動性に優れるコックピットみたいなオフィス、森林浴ができる場所をかけ合わせたイメージだ。黒、焦げ茶、緑がメインカラー。落ち着くデザインと耐久性を重視した物選び。ここで長く過ごすことになるだろうからと、独立の時にこだわって作った。耳栓をすると、タイマーが鳴るまで静かな世界。英語と日本語、どちらもうまく読み書きできる人を目指して生きている。

    伝わらない言葉

    1987年の春、お昼過ぎ。田舎の村に生まれた。落語の「じゅげむ」を暗記して保育園で披露したり、小学生の作文コンクールで毎年入賞したりした。テレビ局主催のコンクールで銅賞をもらった詩が、系列のラジオ局の番組で読まれた日のこと。両親と、8才の私、6才の妹、2才の弟はワゴン車に乗り、カーラジオをつけて待つ。事前に伝えられた時刻が近づいて、私は唇を噛む。女性が、うちの田んぼの四季を書いた詩をゆっくりと朗読する。私は唇を噛んだまま、つい口角を上げる。母が「紺ちゃん、すごいね!」と言う。「すごいね!」の意味は、幼いのに長文を暗記できたから。コンクールで入賞したから。じゅげむのおとがたのしかったからとか、はいしゃさんがとてもこわかったけど、なかずにがんばったらおねえさんにほめられてうれしかったとか、たんぼのいろがかわるのがきれいで、ともだちにじまんしたかったとか、そういうことには関心がなかった。幼いながらも感じとっていた。泣き叫ぶしかできなかった子が、言葉でコミュニケーションを試みるまで成長しても、両親は変わらず、毎晩ケンカして、ののしり合っていた。母は私の手を振り払って実家に帰ったり、橋から飛び降りることをほのめかしたりした。アルコール、タバコ、魚焼きグリルの臭い。

    新しい国語の教科書が配られると一気に読んだ。連絡帳の「せんせいあのね」の欄には、ささいなことをたくさん書いた。小学校高学年のある日まで、もっと勉強して練習すれば、言葉をうまく伝えられるようになるんだと思っていた。夕方、帰宅すると、私の部屋がぐちゃぐちゃに荒らされている。机の引き出しはひっくり返されて、中のものが床に散乱している。カーテンと布団カバーは破れている。私が友だちとこっそり始めた交換日記の鍵を見つけられなかった母の暴挙。知りたいことを知りたがる。農家の嫁として男子を望まれる中、第1子は女子だった。そして3才で死んだ。言葉にできない大きな苦しみがあったのだとは思う。おねえちゃんが死ななければ、私が男の子だったら、なりたかった母親になれたのかもしれない。でも、うまく言えないけど、このやり方は違うよ。「まあ、いつものことだ」と片づけていたら、右手の人差し指がギクッとして、見ると血が出ていた。お年玉を貯めて初めて買った、MY LITTLE LOVERの8cmシングルCDが割れていた。心臓から流れてきた血が、指先からしずくになって落ちた。

    泣かないことを 誓ったまま 時は過ぎ
    痛む心に 気が付かずに 僕は一人になった

    中学で英語を習った時、言葉というものを初めてまじまじと見た。aとpとpとlとeの組み合わせが、apple、りんごになった。単語と単語の組み合わせが熟語や一文になって、その組み合わせが段落になり、段落がまとまると文章になった。単独ではほぼ意味をもたないアルファベットが、他と組み合わさることで意味をもち、拡張していくのがうらやましかった。そこに存在する意味があった。担任が英語教師だったので、連絡帳の「今日のできごと」を英語で書きたいと思った。数日迷ったあとの、おそるおそるの申し出は、先生の「お!」という快諾で上書きされた。ぎゅうぎゅうに書いた私のいびつな英文に、彼が隙間を見つけて赤入れし、コメントを書いてくれたこと。母が英語を読めなかったこと。このふたつが私を守った。知的好奇心を安心・安全にふくらませる土壌になった。眠っていた種が目を覚まし、芽を出した。英単語や英文法をおぼえていくにつれ、草木が育った。

    発音を褒められて、英語の弁論大会の学校代表に選ばれた。名前を呼ばれて、ステージに上がる。目の前には5人の審査員と大勢の観客。私はなめらかなボディランゲージを挟みながら、ていねいにアイコンタクトし、スピーチする。”Thank you for listening.”(ご清聴ありがとうございます)で終えると、大きな拍手が起こる。ステージから降りる。しばらくしてもう一度名前を呼ばれて、ステージに上がる。県大会で上位入賞だ。だけど、ふう、気をゆるめちゃだめだ。次は全国大会だ。―ここまでイメトレしていた14才の私は、ステージの上でスピーチを全部忘れた。何も思い出せなかった。私の可能性を信じて見守ってくれる人たちの前で、5分間、立ちつくしていた。「思い出せ、思い出せ」とすら思えない。無。静まりかえった空間に、チンとベルの音が響く。失格。原稿が飛んだタイミングで、機転を利かせて、”I love silence. Let’s close our eyes and enjoy the moment together for five minutes.”(私は静けさが好きです。目を閉じて、5分間、一緒に今という時を楽しみましょう)とでも言えばよかった。翌年、15才の挑戦は、思いを込めた原稿を時間内に話しきれず、ベルに遮られて終わった。またしても失格。日本語でも、英語でも、人にうまく伝えられない。入賞して、家族に温かく迎えられる同い年の子を遠くからじっと見ていた。私にはないものばかり。

    見つけた仮説

    美術部で描いた環境ポスター、「ただいま 地球が がけっぷち」が、県のコンクールで1位になった。サスペンスドラマで船越英一郎が出てきそうな崖に、手足のある「地球さん」が立っているもの。森林が行方不明というチラシをくわえた鳥が空を飛び、崖の下では波がしぶきを上げる。スピーチ原稿とキャッチコピーを何度も書き直していて気づいたことがあった。感性だけでは人に伝わらない。論理なだけでは書き手も読み手もおもしろくない。ものを書いたり作ったりするには、感性と論理の融合が大切なのでは?

    高校生になると、この仮説を検証するために、いろんな文芸手段を試した。俳句はお茶のペットボトルに2回載り、あまたの作文は何かしらの賞をとり、詩は全国コンクールで9位に食い込んだ。もう一度挑戦した英語弁論は県3位。高校は、部活に入れないくらい、毎日遅くまで授業がある進学校だった。大学受験に関係ないこと、勝手にあれこれ応募して賞をとってくることに、職員室の先生たちの目は冷ややかだった。英文エッセイが全国2位との通知を読んで数日後、審査員のひとりから家に電話がかかってきた。「あなたのエッセイはすばらしかった。本当は1位だったのだが、ユニーク過ぎて2位にしなければならなかった」との謝罪。は? 1位の作品集を読んで理解した。「アメリカに行って、様々な人々に出会いました。貴重な経験でした。将来は世界中で活躍できる人になりたいです」というエッセイのほうが、たしかに1位にふさわしい。私のエッセイは、言葉の世界のおもしろさを、想像力をめいっぱい使って表現したもので、優等生的ではなかった。あくまで仮説検証だったから、何位だろうとよかった。ただ、他者からの評価は、作品の質だけでは決まらないことを知った。偉い人たちの考える枠におさまることは、結果的に起こることかもしれなくても、私が最初から目指したいものではない。伝わっても、場の目的や個人の好みにそぐわないことがある。とても気に入られることもあれば、まったく好まれない、嫌われることもある。でもそれは、自分の存在の肯定や否定には関係ない。高3の秋に訪れたこの機会は、私が何のために書くのか、何を書きたいのかを考え始めるきっかけになった。1位の人のように、私も貴重な経験をした。

    慶應義塾大学を志望したのは、小論文の過去問がおもしろかったから。なんとなく、この大学は小論文の問題で生徒の感性と論理のバランスを見ているような気がした。入試で、論拠のひとつに「この前シュークリームを焼いた。いい匂いがした。オーブンの中でふくらむ様子はまるで生きているみたいだった」と書いた。高校の先生に報告したら「何を血迷った」とあきれられたけど、私は論理的に正しいと思ったし、自分の感性も表現できて満足だった。それで合格したので、やっぱりおもしろい大学だと思った。入学後、人間的、知的、経済的、立場的にすごい人たちにたくさん会い、圧倒された。まずは東京弁、上級英語、フランス語を習得し、英米文学と英語学をバランスよく学んだ。文芸をやっていると、自分の中で文学と語学が分離しない。だから、ゼミを文学にするか英語学にするか迷った。結局英語学を選んだけれど、文学をもっと学びたかった気持ちは残った。私はこの大学で、英米文学を学ぶおおまかな地図と、すごい人の学ぶ姿勢、文学の英語の難しさ、自分の意欲を知ったから、いつかまた学べると思った。中学1年でseasonを「sea+son=海の息子」と言っていた私は、卒論を英語で書いて卒業した。ちなみにインターンは広告代理店で1年、アルバイトはコーヒーチェーン。どちらも偉い人や本部に日報を褒められて、そのことで店長や同僚に嫌味を言われた。

    社会でのフィールドワーク

    「大学院ではなく、実際の世界で言葉がどう使われているのかを知りたい」「広告やメディア系の会社ではなく、伝えたいモノをもつ広告主の側で、言葉を研究してみたい」と考えて就活した。リーマンショックの冷たい風が、私の履歴書を何十枚も吹き飛ばした。それを拾ってくれた愛知県のメーカーに入社。人事部で、国内外の人材開発の仕事をした。経営者の言葉、製造や開発の現場はわからないことだらけだった。でも、私の「わからない」は研修を受ける人たちの最初の状態でもあることに気がついた。頭の中にはてなマークばかり浮かぶ状態を、どうすればびっくりマークに変えられるか。自分の学びの過程、気持ちの変化を記録して俯瞰し、「ここでつまずいたので○○を入れよう」「順番を変えたほうがわかりやすい」「ここは正解がひとつじゃないので気楽に意見交換できる場に」というふうに研修体験を設計した。工場と販売会社が海外メインの会社だったから、研修の設計者、講師、ワークショップのファシリテーターとしてアジアを飛びまわった。

    研修を研修会社に外注するのが基本の環境で、そもそもから考えて作ろうとするのは浮く。何かを変えようとする時には反発がある。1日3万歩くらい工場を歩きまわって現場・現物・現実を確認したり、担当者に話を聴いていたりした頃、トップ層から「あいつは我が物顔で歩いてる」と吹聴された。熟練の技術者は「お嬢ちゃんに何ができる」と笑ったけれど、「何も知らないので教えてください」と伝えたら、こだわりや工夫をていねいに教えてくれた。海外工場のライン工は、新入社員の私よりも若い女性が多かった。彼女たちはわずかな休憩時間、消灯したフロアのラインの横で、洗面器を裏返したような椅子に脚を開いて座り、黙々とスマホを触っていた。中国の工場で、銭単位のレベルでコストを抑える人たちの取り組みを見たあと、香港のビルの最上階のバーで、販社の人が接待費で高価なワインを開けるところに同席した。ギャップに吐きそうになった。輝く照明の光や談笑の音が消え、モノクロの無声映画を観ているようだった。何にも手をつけずに先にホテルに戻り、備え付けのジャスミンの臭いのボディーソープで体を強く洗った。私へのパワハラを主導した上司は、マレーシアに出向になってから価値観を変え、私に謝ってくれた。至らない点があった私も謝った。そのあと、出向先で突然亡くなった。反日感情が強まった時期の入国審査の冷たさも、国際女性デーだからとプレゼントされた花束の甘い香りも、取引先の工場でクレープのようにさっと薄く焼かれた部品のできたての熱も覚えている。店頭に並ぶ製品の姿からは見えないものたち。混沌、不条理、無力感、割り切れなさの中でも、いつも観察し、耳をすませ、メモをとっていた。私は会社にあるもの、たとえばメール、プレゼン、会議、現場の様子、財務諸表、KPI、エクセルデータ、報告書、ビジネス本、論文などを通してずっと、社会や人々の物語に触れている感覚でいた。自分の考えに研修やプレゼンという形を与えるのは、ものを書くことに似ていた。人に届いて何かを動かす、あるいは何かを解決するような、できるだけ意味のある言葉を世界に存在させようと努めていた。

    水曜日と金曜日は定時帰宅の日。部内へのリマインダーメールの担当になった。前任者からの引継ぎで、同じ文面を自動配信すればいいと言われた。リマインダーが必要なのは、定時帰宅していない人が多いからだった。コピペ自動配信で効果出てないじゃん。あ! 社内の昇格要件にTOEICのスコアが必要になったはず。「定時に帰って英語を勉強しませんかメール」に変えちゃお。期待されてない雑務は、目的を外さなければ勝手に変えても怒られない。私が集めてきた、おもしろい英語表現、語源、和製英語などを、飽きずに2年間紹介し続けた。送信したそばから感想が届いた。「ベア(賃金アップのこと)は、bearじゃなくてbase upの略です」と送った日、離れた席の労務グループの人たちが、「bearだと思ってた!」と盛り上がっていたように。定時帰宅率が上がったのは、たぶんみなさん英語を勉強したくなったからだと思う。

    4つ年上の、かっこよくてユーモラスなエンジニアの同期と結婚した。彼は「紺ちゃんと会社の同期として出会うための時間調整」として、2浪していた。その期間、彼は背伸びしてがつがつ勉強していたわけではない。浪人1年目は図書館に通って、センター試験に関係ない、ネットワーク技術の勉強をしていたらしい。2年目にそろそろセンター試験の勉強をする気になって、ぼちぼち予備校に通った。もともとの性格もあるし、いつも同級生より2歳上であることも関係していると思う、彼は悠然だ。言葉足らずな彼と、言葉が好きな私のあいだには、うんざりするくらい、たくさんのすれ違いと言い争いがあった。彼の中には、私のことを好きな気持ちと、嫌いな気持ちが強く共存した時期もあったと思う。今ならわかる、言葉はコミュニケーションのすべてではない。感情的な言葉のやりとりになりそうな時、彼は黙って部屋にこもる。私が母に似てしまうんじゃないかと泣く時、昔のことを思い出してしまう時、彼は何も言わずに私を抱きしめて、クレヨンしんちゃんに出てくるグリグリ攻撃のやさしいバージョンで、こめかみをマッサージして緊張をほぐしてくれる。私が疲れている時、ねぎらいの言葉の代わりに、お高めのアイスクリームを買ってきてこっそり冷凍庫に入れておいてくれる。周りに流されず自分のことに集中し、成果を出し、頼もしく、憎たらしいくらい余裕がある一方で、彼にも弱さや脆さや辛さがある。それさえ言葉にしないから、私は彼の存在やエネルギーに目を配るようになった。言葉で元気になる人ではないので、私も黙ったり、お弁当や夕飯を好物にしたり、不意にぎゅーっと強く抱きしめたりと工夫している。世界は大きく、人間は深い。言葉はその中のほんの少しに過ぎない。言葉で表現できないことがあること。表現手段が言葉ではない人たちがいること。沈黙の中にも豊かな対話があること。言葉にならない思いをすくいとろうとすること。無意識の言葉の使用に、加害性が伴いうること。私はこれを彼との生活を通して学んでいった。

    人材開発でスペシャリストになるキャリアが当時の社内になく、商品企画部に異動した。オンラインコンテンツの企画と多言語対応。エンジニアやデザイナー、外部クリエイターと働くうちに、私も言葉の領域を深めたいと思うようになった。外部のスタジオで、写真撮影に立ち会って動きまわった日の夜。帰りの車の後部座席に、社内トップデザイナーと座った。いつも口数が少ない彼女は、回転寿司屋の看板を見ながら、「あなたはいわゆるデザイナーじゃないけど、やってきたこと、やってることはデザインだよ」とつぶやいた。キャリアの行き詰まりが溶けて、デザイン会社に転職した。言葉周りをすべて任せてもらえたので、肩書きがよくわからない。クライアントへのインタビューと現場の観察、調査、専門知識の勉強で、デザインの方向性や核になるものを言葉にした。会社を表すスローガン。商品のネーミング。リーフレットやウェブサイトのキャッチコピーと説明文章。オウンドメディアの記事の企画、取材、執筆。SNSの運用。いろいろ書いた。

    夢と書斎とカリキュラム

    組織の中にいた期間の収穫は、自分の言語感覚が仕事につながるとわかったこと。退職してのんびり過ごしていたら、内臓疾患で思うように動けなくなり、想定外に長く休んだ。社会システムの中で学んだことの整理や探究をしたり、学びを手放したりした。積ん読の山も登った。そして元気に個人事業主として独立。インタビュー、コンサルティング、リサーチ、サービスデザイン、ライティングなどの仕事。

    2022年、ペンネームのウェブサイト、Twitterアカウント、毎週エッセイを書いて発表する習慣を作った。英米文学をもっと学びたかった記憶を取り出して、文学の英語をもっと読むための勉強を始めた。家庭教師に教わるうちに、読解力と知的好奇心が増し、大学院進学を目指した時期もあったけれど、結局やめた。愛知県の大学は、文学よりもコミュニケーションのための英語を重視する印象がある。英米文学を学べる場所や教員は減少傾向にあり、あったとしてもカリキュラムが物足りなかったり、大学院に学生が何年も入学していなかったりする。私の目的は学歴ではないから、他の土地に引っ越してまで進学したいわけじゃない。

    私の夢は、この先の人生に、当たり前に英語と日本語の読み書きがあるようにすること。もっと深く読めるようになりたいし、世界を感受する耳や目や心を豊かにしたいし、自分で書く文章の幅も広げて書き続けていたい。その過程で、新しい自分を知りたい。自分のテーマを見つけたい。私と夫が80才くらいの時、夫はコンピュータに熱中し、私は文学と創作に熱中し、できるだけ健やかに、笑い合って、助け合って生きている日々があるといい。

    英語でも日本語でも深く読み書きできる人に近づくために、2025年の8月から9月にかけて、カリキュラムと勉強環境、人間関係を作った。柱は4つある。

    某大学Aに、学部研修生として秋入学した。これは大学の既卒者が、特定の科目について、特定の指導教官のもとで研修する制度。一般的には院進の準備のために使われるけれど、この大学の研修料は比較的手ごろで、何年も学び続けている人がいる。私の先生は、イギリスの大学の博士号をもったネイティブスピーカーで、英文学を教えている。自分の専門分野の需要が縮小傾向にあることを自覚したうえで、戦略、柔軟性、ユーモア、反骨精神をもって教壇に立ち続ける人。細やかな気配りをする人。初めて会った日、私が大好きなイギリスのロマン派の詩の一節を話した。先生は口角を上げてにこっとした。あの言葉にならない感じを、私はずっと忘れないと思う。

    某大学Bを退官した英米文学の教授の、演習授業のような読書会にも参加している。英語の短編を読み、当番は資料を準備して発表する。某大学Aには精読の演習が少ないので、その補強。月1回だけど、アーカイブがたっぷりあって、無料なのがうれしい。先生は著名な人なのに、偉そうにしない。参加者の素朴な疑問や意見に耳を傾ける人。「たくさん失敗して大丈夫です」と参加者を励ます人。作品の好きなところを楽しそうに話す人。

    国内外の大学のシラバスなどを参考にして作ったリーディングリストをもとに、文学作品を楽しんだり、勉強したりしている。必要に応じて、大学の図書館を活用したり、先生たちに質問したりしている。

    頭と体も鍛えている。英語は、ネイティブレベルをひたすら目指す勉強から脱したいと思っている。ウォーキングと筋トレもできるだけやっている。頭を使いすぎて体が動かないことがあり、逆もしかりなので、いいバランスを見つけて強くありたい。

    某大学Aの先生には、私の夢とカリキュラムを伝えてある。 応援してくださる。独学の魅力は、ひとりの時間を十分にもてること。自分でカリキュラムを作ったり、修正したり、逸脱したりできること。独学の限界は、他者の目とフィードバックが得られないこと。だからこの環境は理想的だ。正規の大学院よりもカリキュラムが充実していて、学費がうんと抑えられ、自分の夢に結びついている気がする。

    とはいえ、何が「よい読み手」で「よい書き手」なのかはわからない。これから学び、試行錯誤し、変化していくうえで、考えていくべき問いだ。

    言葉が好きという気持ちを持ち続けながら、自分の仮説を検証していたら、いつの間にか、社会で戦うための武器として言葉の力を研いでいた。直接的で実用的、説明的な言葉を駆使する一方で、内心ずっと、そういう言葉をつかう自分を止めて、黙りたかった。今、私の書斎で、言葉は武器ではなく、呼吸、光、日々の営みそのものだ。静かな言葉の森に入って、私と言葉の関係を築きなおしている。それは、安全な場所に逃げ込むことではない。森の奥では幽霊が出る。大きな嵐も来る。老いと病も避けられない。それでも私は読む。書く。迷いながら先へ進む。より静かで、より根源的な形で、社会と深く関わりたい。

    私の言葉が、沈黙が、あなたの世界に少しでも届いたらうれしい。