New Essays Every Monday
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春の日、第62章
歩きながら左右の目を交互に閉じていた。「やっぱり右の度数が合ってないな。いつコンタクト屋に行くかな」と考えていたら、目が合った交通整理のおじいさんにウインクされた。距離のあるウインクではなく、すれ違いざまの、顔を少しこちらに傾けたうえでのウインク。にんまり笑っていて、私も笑った。あれはウインクし慣れている。危ない危ないと思いながら、ときめきを抑えた。
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春の日、第124章
月曜日。エッセイを3本書き終えた。うち2本のタイトルが決まらない。たくさんある断片の連なりに乗って春を進んでいくように表現したい。
私はLINEを開いて夫に連絡する。「2桁の数字ふたつちょうだい」
夫、しばらくして返信する。「62 19」
私は「おっけー」と打ち、うさまるの「ありがとう!!!」スタンプを加える。2本のタイトルを作り、保存する。
夫、LINEで追記。「電池残量と、PCのL1とL2キャッシュの容量の後ろと前より」
私は「よくわからんけどありがとう笑」と返す。本当によくわからん。でもなんかおもしろいので、1本追加で残しておこう。ちなみにこのエッセイのタイトルは12時49分から。日常の中、やろうと思えば無数にできる意味づけ。
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1956年、高校生のカフカ
1924年に死んだカフカが、1959年のアメリカで高校生だったらという話。最初に読んだときの感想は「つまらん」だった。2回目の感想は「絶妙につまらん」。40ページ、25章ある作品。このうちある1章だけ抜き出してミニストーリーにしても十分じゃんと思った。
授業の日、家庭教師の先生の意見も同じだった。ミルハウザーのベストではない。ふたりして、しぶしぶ授業を始める。進めかたは都度私が決めていい。今回は、すべての章を要約しながら、英語を正しく読めているか確認し、表現や解釈の質問を挟む形にした。
いつもの先生は、ミルハウザーの昔の作品を繰り返し大学の授業で扱っているので、作品への評価や解釈がわりと固定的。でも今回の本は去年の夏に出た新作で、私との授業のために初めて読んだから、まだ定まっていなかった。
私が何気なく投げた質問に先生がインスピレーションを受けたり、私も刺激をもらったりして、議論が盛り上がっていった。単調に見えていた物語が深くなる。
1959年に高校生なら、ミルハウザーと同い年くらいじゃない? ミルハウザーはカフカに自分を重ねてるのかも? 自伝っぽい? ここはシーシュポス? 外に表現できないけど何か内に秘めたカフカ。ボニーはなんかいい人に見える。
授業のあと、おたがいに「ベストではないが好き」という結論に達した。私がアメリカの高校生で、同級生と文学の議論をしたら、こんな感じなのかなと思った。