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26cmの満月
私たち夫婦はパエリアをよく食べる。
始まりは、結婚式の会場を探しに東京へ行ったときだった。手作りの式を屋外で挙げることは決めていたので、農場やキャンプ場をあたっていた。山手線の駅から出て、よくわからずに入った店で食べたパエリア。シーフードのベーシックタイプ。なんだこのおいしい食べものは。インターネットで支店を探した。大阪にはあり、名古屋にはなかった。店長さんに今後の出店計画を尋ねた。「名古屋には数年後の予定です」と教えてくれた。
ドレスとシャツを仕立ててもらいに大阪へ行ったとき。もちろん大阪の支店でパエリアを食べた。他の味には冒険しない。いつもの店のいつもの味。
式の準備はふたりで手分けして進めた。私はディレクションやデザインといった前工程。夫は招待状代わりのウェブサイト構築などの後工程。もはや仕事みたいだった。日が迫ると、ふたりとも懸命に手を動かした。私は装飾や小物を作り、彼はテーブルクロスやガーランド(三角の旗の連なり)の布をひたすら切った。料理に手が回らないとき、デリバリーのパエリアを食べた。あのころ、何度注文したかわからない。
式では料理家さんにケータリングをお願いした。パエリアもその場で作ってもらった。直径1mのパエリア鍋は、都内に2つしかないものの1つをレンタルした。満月の下の、大きな丸いパエリア。
式からしばらくして、デリバリーパエリアの店がなくなった。一大事だ。我が家を支えてきたパエリアがなくなる。まだ名古屋支店はできていなかった。私たちは市内のスペイン料理屋に行き、好みのパエリアを探した。見つからなかった。米の硬さが好みじゃない、通うには不便、味付けが物足りないなど。パエリアならなんでもいいわけじゃない。あの店のものと、デリバリーのものを足して割ったようなものを求めていた。
仕方がないので作ることにした。そもそも結婚式自体がそうだった。手作りしたのは、ゼクシィに載っている式場で「テーブルクロスの色と招待状でおふたりらしさを表現できますよ」と言われ、ふたりで「そんなわけあるかい」とちゃぶ台をひっくり返したくなったのが発端だった。欲しいものがなければ作る。未来も一緒に作る。パエリアも自前で作る。専門書を買ってきて勉強した。シーフードパエリアはたくさんのエビの頭を使ってスープを作る。その作業がやや面倒なことを除けば、パエリアは安く簡単に作れた。試行錯誤を重ね、好みの味を作れるようになった。デリバリーも支店もいらない。
数年後、名古屋の支店はできた。あの店の存在は特別なままだけど、私たちのほうが変化した。パエリアを自分たちで作れるようになっている。店に行けば楽しむ。楽しむが、頭のすみで「そのうちまた作ろ」と考えている私がいる。「おうちのも食べたいなあ」と思っている彼がいる。サイドメニュー含めて、私たちは食べながら分析し、学べるものはないか探す。
先日店に行った数日後、パエリアを作った。サラダ、アヒージョ、バゲット、生ハム、サングリア。材料が余ったので、2日続けてパエリアにした。私たちは結婚式で、満月をつかまえたようなパエリアを食べた。それを26cmに縮小して、今も食べている。
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風呂の蛇
照明、追い焚き、換気扇を消して風呂に入ることがある。しばらく湯に浸かり、青い壁を見ていたら、水道の銀色の蛇口の先で、水滴が蛇のようにすっと流れた。暗くて静かなところ、静止画と思っていた視界にいきなり動画が現れて、びくりとした。
シャワーからぬるま湯を出す。頭と手を動かして髪を洗う。泡をふくらませて体を洗う。先ほどと打って変わってせわしない動画。今度は何も見ていない。もう蛇口のことしか考えられない。なんで蛇?
風呂上がり、化粧水の代わりに辞書へ直行した。英語とドイツ語には雄鶏がいた。オランダ語とロシア語には鶴がいて、フランス語とイタリア語には羊が、アジアには龍がいた!スペイン語には、ライオンと鷲の怪物がいた!
アルキメデスを追いかけて、風呂の外で至るユーレカ。おもしろくてにやける。そろそろ服を着よう。
<参考>
各国の「蛇口」を表す言葉。電子辞書 XD-Z9800 内蔵辞書より。
英語:tap、 faucet はいずれも「樽の栓」、cock、stopcock、turncock は「雄鶏」を語義に含む。
ドイツ語:Wasserhahn。wasser = water、hahn = cock。オランダ語:kraan。crane(鶴)の意味。日本語「カラン」は浴場などの大型の蛇口で、オランダ語から。
ロシア語:кран。読み方は 「クラーン」。オランダ語から来ていて、意味も同じ。フランス語:robinet の robin が羊。羊の頭の意。
イタリア語:rubinetto。フランス語と同じ。繁体字中国語(香港、台湾、マカオ):水龍頭。龍や蛇は水神。
簡体字中国語(中国本土、シンガポール):水龙头。龙が龍、头が頭。スペイン語:grifo。Gryps、ギリシャ神話に出てくる、鷲の頭と翼、ライオンの胴をもつ怪物グリュプスから。
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台所のクマ
夫がリラックマのパーカーを着ている。胸や背にイラストが印刷されたタイプではなく、リラックマになれるタイプのフリースパーカーだ。フードに目と鼻はない。耳だけがついている。腰の部分には丸くて立体的なしっぽがついている。彼は最近、顔のシミ取りレーザーを受けたので、積極的にフードをかぶる。
台所に、リビングに、クマがいる。電子レンジの前でレンチン待機中のうしろ姿はとてもかわいい。
先日、麻布テーラーに行くことになった。オーダーメイドスーツの店だ。彼のスーツとワイシャツはすべてここで作ってもらっている。出かけるまえ、彼はクマを脱いだ。さわやかなインテリっぽいシャツとセーター、コートに着替えて出かけた。初めて麻布テーラーに行ったとき、粋なスーツを着こなす店員さん相手に恥ずかしがっていた彼はどこへやら。今の彼には、自分のフルセットが麻布テーラー製という自信と、何度もこの店に来た慣れがある。用件は、ズボンの裾のほつれ直し。きりっと、スマートに対応していた。かっこいい。ちなみに彼が肩からかけたショルダーバッグには、リラックマのキーホルダーがこっそりついている。
次の日の昼、台所に行くとクマがいた。ごはんを求めている。「早くちゃんぽんを食べよう」。私は「フードをもう少し深くかぶって」と言い、太陽の射す場所から彼を遠ざけた。正直言って、日焼け止めを塗ればフードをかぶらなくてもいいのである。休日のフードは彼の選択だ。彼はすすんでクマになる。