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New Essays Every Monday

  • すくう:手のひらやさじなど、くぼんだ形のものを使って、液状・粉末状のものの表面に近い部分を、えぐるようにして取り出す。また、手のひらやさじなどで、液体の表面に浮いているものやその中にあるものを、下から受けるようにして取り出す。

    レモン汁に水と砂糖を加えて温める。
    ふりかけたゼラチンが溶けて粗熱が取れるまで、待つ。
    カップに注ぎ、気泡をすくい、冷やす。

    ゼリーをすくう。
    表面がスプーンに抵抗する。
    力少々を加えて突き刺す。
    えぐりとる。

    昨日は液体だったもの。
    弾力に触れて気づく、「すくう」が内包する痛み。
    水、蜂蜜、アイスクリーム、すくうとき、元の場所からの断絶がある。

    「掬う(すくう)」と「救う」は同じ語源をもつらしい。

    命を救うとき、たとえば手術室、医者はメスで患者の体を切り開く。たとえば川、溺れる子の手を大人がつかみ、指が食い込むくらいの強い力で引き戻す。

    地球や世界や人の心に「救う」があてられるとき。救う人が救われる人を助け、存在を丸ごと包みこみ、傷つけないように抱きしめるようなイメージをもっていた。これ、違うかもしれないな。温和に見えて、平和に見えて、実は見えない刃物が存在をえぐる瞬間がある。そのうえそれで救われるものは、ひとすくい、表面や部分に過ぎない。すべてじゃない。

    レモンゼリーをすくって食べた。カップにはすくい切れなかった断片が貼りつくように残った。

  • X/Twitterでたくさん「いいね」されることは嬉しい。「いいね」が少なくても、「いいね」されなくても嬉しい。実は、多くの人に共感されないことが私の核で、よりどころにしている。

    繰り返してきたパターン。ありものを口に入れ、咀嚼し、飲みこみ、出てくる感情を注視する。食わず嫌いだったのを反省するくらい嬉しいとか、言葉にできないけど変な感じとか、ひどいアレルギーのような憤りとか。出てきた感情をエネルギーにして、ありものを変えたり、新しくつくったりする。

    大勢の人が話す、ありものの言葉。求めていたものと、偶然ぴったりと合うことがある。手っ取り早く飛びついて、信じ、無意識にだまされることもある。いずれにしても、使う人たちは同じ言葉を共有し、共感しあう。そこは心地いいし、安心できるし、自信ももてる。

    私も初めはとりあえず、大勢の人が話す、ありものの言葉を使う。使って、違和感をおぼえて、横を通り過ぎることになる。何度も繰り返していれば、使う前から「たぶん違和感を抱くだろう」と先を読めるようになる。それでも一度は体に入れて確かめるのは、通り過ぎた先にあるものが欲しいからだ。

    上司とうまくいかず会社を辞めようと思ったときも、まずはよく聞く言葉を体に入れた。「やりがいがない」「ロールモデルがいない」「先が見えている」「もっと好きなことをやりたい」「成長したい」「モチベーションが上がらない」とか。しっくりさせようとしてもしなくて、頭の中で論破が進んだ。

    ・やりがいがない、先が見えてつまらないなら、自分で新しくつくればいい。
    ・人事の仕事は「昔からやりたかったこと」ではないが(就活するまで知らなかった)、言葉を使って研修をつくる、という意味では、やりたかったことのど真ん中である。興味の対象が「言葉」なので、幸か不幸か、何をしても昔からやりたかったことになる。
    ・ロールモデルがいないなら、自分がなればいい。
    ・成長は、何をもって成長か。毎日必死に生きていて、前よりはいい状態だ。というか、若者が典型的に陥るこの状況を、他と違う形で脱するのも成長の手段だ。
    ・優秀な人ほど、モチベーションの上がり下がりに影響されず、毎日淡々と仕事を仕上げていく。モチベーション論はナンセンス。
    ・「今の若い世代は、前の世代と違って安定を求めず、挑戦を好む」という言い回しもよく聞くが、仮想敵をつくって仲間意識を高め、自己肯定したいだけだ。これを繰り返しているという意味で、他の世代論と変わらない。
    ・安定した場所には、保守性もあるが、蓄えてきた設備、技術、知財、人材、キャッシュ、社会的信用もある。使いようだ。挑戦に利用するために、安定した場所を選んだ人は多くいる。

    すべて辞める理由にならない。

    そうして私は、一度体に入れた「辞める理由」「働く理由」を出し、通り過ぎた。逃げようとしていただけだと気づいた。若者をむやみに煽る人たちにいらだった。「共感されないような、自分の切実な理由にいたることができたら、それを信じて辞めることにしよう。どこかで聞いたストーリーや、多くの人に共感されるものは、おそらく “私にとって” 嘘だ。それまではできることをやりつくそう」と決めた。入社理由を思い出し、目標の言葉を更新し、仮説をつくった。

    数年経ってこの仮説検証が終了し、次の目標ができ、次に行くことにした。社会学のフィールドワークのように、ある場所を調査して、終わったから次、というのが、「私の」「20代の」働き方と辞め方だった。

    大勢の人が話す、ありものの言葉、ストーリー。求めていたものと、偶然ぴったりと合うことがある。手っ取り早く飛びついて、信じ、無意識にだまされることもある。そこを通過して、手にできる言葉もある。共感されること同様に、共感されないことも心のよりどころになるのだ。

  • ある日の晩、私はドイツの作家、シュトルムの『みずうみ』という短編集を読んでいた。夕食にお酒を出したことで、夫はむにゃむにゃ眠そうにしながら、自室のベッドでごろごろしていた。うらやましいほど一瞬で眠れる人なので、おふろを急かさなければいけない。

    私は疲れているとき、よく言葉を言い間違える。料理中、「かつおぶし」が出てこなくて、直前に目に入っていたからであろう「かんきせん」と言い間違えたことがある。先頭の「か」しか合ってない。今回も同じだった。「早くおふろに行ってよ」と言おうとしたのに、「早くみずうみに行ってよ」と言っていた。水がある点しか合ってない。

    それまで「すぴーっと寝入るまであと3分です」みたいな顔をしていた夫が吹き出す。「みずうみ、みずうみ、ぼくはみずうみに行かなきゃいけないのですか。みずうみ、みずうみ……」と繰り返して笑っている。私は「ああ、おふろと言いたかった、おふろおふろおふろ」と頭の中で唱える。

    おふろから上がってきた夫は、「おふろに入ってえらい」とほわほわ満足そうな顔で私のベッドにダイブした。私は彼がまたごろごろし始めたのを見て警戒する。彼のベッドで寝てくれと促さなければ。「自分のベッドに行ってよ」と言わなければ。なのに、私が口にしたのは「早くおふろに行ってよ」だった。疲れていたんだと思う。さっき「おふろ」と言えなかったのが悔しかったんだと思う。「おふろ」が時差出勤してきた。それまで再び「すぴーっと寝入るまであと3分です」みたいな顔をしていた夫が吹き出す。「おふろ、おふろ、ぼくはまたおふろに行かなきゃいけないのですか。おふろ、おふろ……」と繰り返して笑っている。私はむむむー!と声高に言い直した、「早くおふろに行ってよ!」 あっ……。

  • couch potato
    直訳:長椅子じゃがいも
    意味:長いソファに寝そべってスナックを食べながらテレビやビデオばかり見ている人
    *「じゃがいものようにごろごろ寝そべってテレビにかじりついている人」という解釈もある
    *カウチポテトの人たちを総称して「カウチポテト族」と言う

    リビングのソファは、もっぱら取り込んだ洗濯物置きになっている。そこから各自の衣類を取っていき、しばし片付く。いそがしいと、あるいは体調不良だと、山になる。ツイッターで整った写真を載せていて、「丁寧な暮らしで素敵」と言われることがたまにある。よく見れば、載せている写真のパターンはわかるはずだ。徹底して撮っていない場所やアングルがある。載せないものを決めているだけで、片付いていない部屋はあるし、名もない料理も食べる。

    我が家にはテレビがない。夫婦共々、一人暮らしを始めてから持ってない。暇つぶしを、あるいは見たい番組を一緒に観ることがない。カウチポテトの表現を見て、カウチポテト族への憧れがあったことに気づく。テレビを観ながら、ポテチを食べながら、缶チューハイとか飲みながら、夜遅くまでぐだぐだしたい。夫婦ででもいい、友だちとでもいい、族になりたい。

    私たちは、基本的におのおの好きな番組を自室で見て、たまに夫の部屋のプロジェクターで映画や舞台を観る。夫のベッドにリビングのソファの背もたれ部分のクッションを移動させ、簡易映画館を作る。お菓子も食べるが、なんせベッドの上なので慎重になる。しゃきっとした姿勢で、お皿を抱え、素早く綺麗に食べる。私たちは何族だろうか。いい言葉が欲しい。

  • 私の部屋には背丈よりも高い本棚が3つあり、本が詰まっている。毎年本を買い、売ってきた。「本というものがとても好きだから吟味して買い、買ったからには大切にするタイプ」ではなく、必要がなくなったら、あるいはおもしろくなかったら、わりと潔く売る。

    ただ、何が必要なくなったか、おもしろくなかったか見極めるのは難しい。今必要なくても、今後必要になるかもしれない。今おもしろくないと思っても、それは私のレベルが追いついていないだけで、よく読めばおもしろいのかもしれない。「かもしれないかもしれない」が本の中に栞のように挟まり、売るのを思いとどまらせる。それは「いつか読むべき本」「いつか再読すべき本」に姿を変え、本棚に入っていた年数ぶん重くなる。

    年齢を重ねるということは、この「かもしれないかもしれない」を手放すことかもしれない。視野を広げ、知見を深めるうちに、読みたい本は増えていく。しかし生きられる年数は見えている。体力の衰えが選択肢を減らしていく。世界のすべての本を読むことはできないし、「万人が必ず読むべき本」はないと悟る。

    30代に入って、本棚はべき論のない場所にしようと決めた。少しずつ、「いつか読むべき本」「いつか再読すべき本」を売ってきた。この「いつか」は、なんとなく距離感がつかみきれない人と「いつかまたごはんに」と言い合って、再びの機会が訪れないことに似ている。「いつか」は来ない。さようなら。去ったあと、心にぽっかりと穴が開いて、本当は大切だったと気づくなら、買い戻せばいい。人間関係と違って、本はそれが希少本でもない限り可能だ。

    梅雨に入る前、本の整理と売却作業をした。約200冊売った。今回は、毛穴パックやスクラブパックで余計な角栓を取り除いたような、ごっそりすっきりとした気持ちになった。今までになかった爽快感。残った本の背表紙を見て、どれも好きだと言える。読みたくてわくわくするのを感じる。「かもしれない」と「いつか」をため込んだ自分を、捨てきれた気がする。新陳代謝が巡った。自分が健康だと本棚も健康で、本棚が健康だと自分も健康なんだと思う。

©2025 川瀬紺 / Kon Kawase