Writings

New Essays Every Monday

  • 近い将来、いつか。

    表紙をお願いしたい方に連絡をして、ご快諾をいただいた。依頼のメールをうっているときから、絶対にすぐにではなくていつかだと思った。OKをいただいて、背筋が伸びて、その思いを強くした。

    もっと違う文章を書きたいという気持ちと、今の自分の文章が嫌いではない気持ちがどちらもある。この先の数年で文体というか視点というか、文章に対する姿勢が変わる予感もある。大学院に行きたい影響もある。

    形あるものに値する文章を書ける人になりたい。それは誰かから認められたいということではなく、自分で自分に自信をもっていたいということだ。自分で錨を下ろしたい。だからゆくゆくの商業出版を目指してないし、文フリに出たい気持ちもない。

    前にも書いたけれど、私にとって、日本語は精神的に安全な言語ではない。実家から逃げ出したくて、家族・親族の誰も読めない英語を学んだ。私は日本語を読むのも書くのも、嫌な記憶がフラッシュバックしやすい。言語的亡命をしたとはいえ、英語で人並み以上に読み書きできるとはいえ、ネイティブレベルにはほど遠く、私の言語的アイデンティティはどちらにあるのだろうと感じる日々だ。

    主に英語で書ける人になりたいというのが、当面の目標。英語に軸足をおいたうえで、日本語とも安全につきあえるようになりたい。

  • 何にもつよい興味をもたないことは
    不幸なことだ
    ただ自らの内部を
    目を閉じて のぞきこんでいる。

    何にも興味をもたなかったきみが
    ある日
    ゴヤのファースト・ネームが知りたくて
    隣の部屋まで駆けていた。

    (中略)

    生きるとは
    ゴヤのファースト・ネームを
    知りたいと思うことだ。
    ゴヤのロス・カプリチョスや
    「聾の家」を
    見たいと思うことだ。
    見ることを拒否する病から
    一歩一歩 癒えて行く、
    この感覚だ。
    (何だかサフラン入りの
    サフラン色した皿なんかが眼にうつって……)
    その入り口に ゴヤの
    ファーストネームがあった。

    飯島耕一 「ゴヤのファースト・ネームは」から抜粋

    これは、鬱病を患っていた詩人が回復期に書いた詩。寝込んでいたところ、ふっと、「あれ、ゴヤのファースト・ネームって何だっけ?」と思う。ああ、えーっと、何だっけ、えーっと、と考えあぐねる。布団に寝ていられなくなって、隣の部屋にある本棚へ急ぐ。愛読書、あるいはめったに開かない厚い百科事典を開くなどして、ゴヤを探す。そんな情景を想像した。

    元気が出ない時に現れる小さな知的好奇心は、夜空、雲のあいだから見える北極星みたいだ。ずっと待っていた。たかだか他人の名前ひとつでも、あ、知りたいと思えたことがうれしい。布団から出なきゃ出なきゃという切迫感で頭がいっぱいだったのに、気づけば体が出てしまっている。ファースト・ネームがわかったら、次は画集を見たくなる。好きな作品の描かれた年に、ゴヤは何をしていたんだっけ。この絵の、この色合いは、あれやこれやに似ているな。スペインの風景を想像し始める。私だったらパエリアが食べたくなる。世界が広がる、ふくらむ。

    私の知的好奇心への欲求は、仕事で忙しくて、でも勉強したくて、という時期にはあまり切実ではなかった。頭と体は動いていて、与えられた仕事で知的好奇心っぽいものを満たせていた。内臓の病気で臥せたとき、頭も体も動かせなくて、何も考えられなくなった。読みたいものはおろか、食べたいものも取り込めない。暇つぶしの音楽にも動画にも、感覚を開けていられない。私は疲れて、諦めて、閉じていった。

    時間がとても流れた。布団の中で、急に「括弧は英語で何と言うんだっけ」と思った。ベッド横のワゴンに入った電子辞書に手を伸ばす。届かなくて、起き上がる。和英辞書を引く。parenthesesとあった。急いで隣の英和のボタンを押し、他の意味があるか調べる。文法用語として、「挿入語句」の意味もあった。「本文と文法的関係がなく、単に説明・注解的に文中に挿入された語」。飯島にとってのゴヤのファースト・ネームも、私にとっての括弧も、寝てばかりの生活の文脈とは関係ない、いきなり割り込んできたものだ。回復の途中で少し感覚が開くようになると、世界は穏やかな隙間風のように私たちの中に入ってきて、あれやこれやとつながり、知的好奇心を刺激する。知的好奇心に促されて、体は動き、世界が広がり、ふくらむ。世界を追いかけて、私たちは駆ける。

  • ノートンアンソロジーは、大きな時代説明のあと、個別の作家の説明と、重要な作品の全文あるいは抜粋を載せている本だ。英米文学専攻で大学院に入りたくて、今はアメリカ文学のものを読んでいて、次はイギリス文学のものを読む予定。

    あまり理解されないと思うけれど、私はこのノートンアンソロジーが大好きだ。文学史的に重要なことはもちろん載っているんだけど、加えて些細なエピソードが散りばめられているのがいい。一般的な文学史の教科書に「有名な牧師」と書いてあるような人の説明で、ノートンは「代々宗教家という家系のプレッシャーで、不安や抑うつがひどかった」などと書いてある。感情移入して覚えてしまう。その人のパートを読み終えたら、「さん」づけで呼びたくなる。

    先週はベンジャミン・フランクリンについて読んだ。彼はアメリカ建国の立役者のひとりとして、また自伝や発明で有名な人。加えて、奴隷制度や、私生児を生んだ場合、女性だけが処罰の対象だったことなどに反対した人。一般的な文学史の本の説明はここまで。ノートンには、自伝はもちろん、抗議の文章自体も掲載されていて、より多面的にその人に会える。ああ、こういう点に着目したのか、とか、こういう口調だったのか、とか、この文脈ね、とか。勉強という感じがしない。

    ベンジャミン・フランクリンさんと言えるようになって、ノートにメモを残す。この蓄積で、私はどんな世界に行けるんだろう。

  • 最近、部屋や机の写真を撮ってXに上げることが好きだ。院に行きたいと決めてから、勉強を中心に生活が回っており、早寝早起き、お酒控えめ、ごはんは名もなきものをさくっと済ませる。読みたいものはアンソロジーにまとまっているので、いわゆる本を読んでない。映画も観てない。外出はもともと少ないし、カフェより家のほうが空間的にも飲食的にも落ち着く。だから部屋と机以外の写真があんまりない。

    変わり映えしない風景なのに、確実に季節は過ぎていく。アンソロジーと単語帳の読了ページは増え、英文解釈と英作文の使用済みノートも増えていく。ここにある大切なものを残したくて、写真に撮って、言葉を絞り出して記録する。あとから振り返ってどんなことを感じるのか、楽しみにしている。

  • 日曜日の朝、洗濯機が壊れた。服とタオル、洗剤を入れてボタンを押したら、水が出なくなっていた。ぶしゅっ、ぶしゅっ、ぶぶぶしゅっ、と、洗濯機が水を絞り出したそうな音はする。

    夫が大学生のときに買ってから、15年以上経ったものだ。物持ちがいい人に堅実なメーカーが合わさるとこうなるんだなという好例。洗濯機が現役なことを、彼はよく自慢していた。だから壊れていることをすぐに認めない予感がして、10分様子を見た。何もせず待ったり、ボタンを押したり、水道の栓を開けたり閉めたりした。壊れたと認定し、ようやく彼を呼び、「完全に壊れているので、私のせいにすることなく、余計なことも一切言わず、今日買いに行くと決めて調査を開始してください」と告げた。一瞬、いや、そうは言ってもさ、みたいな空気を出したものの、私がやったのと同じようにあれこれいじったあと、納得したように去った。

    私は洗濯機に入れてしまったものを出し、お風呂で手洗いを始めた。排水口がついている、折りたたみのバケツ。壊れたのが、冷たい水が気持ちいい季節でよかった。洗剤の匂いは好きだ。窓から太陽の光が入る。ちょっと手出しして、ああこれは長くなると気づき、スマホを取りに行った。音楽を流す。1時間。私は手が小さく、水切りが甘くなる。床を濡らしながらベランダに行く。

    同じメーカーの、同じシリーズにしよう。調査を終えた夫が部屋から出てきて言った。昔買ったときより高くなってるよーとぼやく。届くまで1週間はかかるよね。あとで電気屋さんに見に行こう。

    部屋がびちょびちょになっていて、彼は私を手伝いたくても安易に手伝えない。終わるまで、少し離れて待っていた。

    もともとあった外出の予定にヤマダデンキを追加する。何を買うかはもう決まっているのに、白い洗濯機ばかりの空間を行き来して、フタを開け閉めして、やっぱりこれだねと言い合う。店員さんに声をかける。夫が、何を引き取ってほしくて、ポイントや送料がどうで、到着日はいつか、最終的にどれくらいの値段になるかなどを確認する。それから移動して机に座り、店員さんが書類に細かく数字や記号を書き込む姿を見た。細かく指差し確認する動きに合わせて自分の頭を動かしていたら酔った。次は何年もつかね。

    夫と結婚したんだなと思った日だった。

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