Writings

New Essays Every Monday

  • 体調がものすごく悪くなったとき、体の細胞が飛散していくような、ふわっふわの浮遊感におそわれる。いつでも自分で出せる処方箋は寝ることだ。朝の11時だろうが、夕方の5時だろうが寝る。しばらく経つとましになる。

    浮遊感が平日の夜、あるいは週末、つまり夫が在宅のときに起こった場合、私はすぐに彼の部屋に行き、強く抱きしめてもらう。そこにロマンティックな雰囲気はない。おたがい「はいはい、いつものやつです」という感じで、事務的に、がしっと抱きしめる/抱きしめられる。しばしそのままでいる。そうすると、飛散した細胞がもとに戻っていくようで不調が和らぐ。私は安堵し、「じゃ」と軽く礼を言って去る。

    この場合の私を、彼は「体目的の極悪人」と呼ぶ。落ちつくためにぼくの体を利用しに来る、極めて体調の悪い人、の意味だ。私は確かに「便利な存在」として彼を利用している。結婚10年で磨いた冗談めいた薄情さも含まれている、ぴったりな表現だと思う。できるなら、真人間になりたい。シャバにいてまともな生活を送りたい。でもだめなんだ、できねえんだよ。俺は根っからの極悪人なんだ。俺が極悪人だから、お前の尊さが輝くってもんさ。これからも仲よくしような。

  • 読んでいる本に”credit-card terminal”とあったので困った。何。クレジットカードの終点? なんだろう、期限が切れるのかな。なんかすごい絶望的な状態なのかな。でもそういう文脈じゃないし。主人公がいるのはスーパーマーケットだし。

    辞書を引いたら、名詞の3番目に「端末」とあった。なるほどねー。ん?なんで終点と端末を同じ単語で言えるの?

    ふと思い浮かぶあいつ。あいつは絶対知ってる。あいつは絶対に、「ふっ、そんなことも知らないの?」と挑発的な目を向けてくる。しかし私はあいつが好きだ。仕方ない、聞きに行ってやろう(えらそう)。

    私「ねえ、credit-card terminalの意味わかる?」
    夫「うん」
    私「なに」
    夫「端末でしょ。ぴっとするやつ」
    私「どうしてterminalなの。終点と端末が同じ単語ってなんなのさ」
    夫「システムの末端部にあるのが端末なんだよ」

    おお。そうか。カード会社の巨大なシステム。そのいちばん端っこにいる無数の端末たち。

    私が苦労して覚えた単語を自慢げに「ねえ、きみ知ってる?」と聞くとき、「うん。○○でしょ」と軽やかに返されることはよくある。どこで覚えたのか聞くと、だいたいコンピュータの用語か、スタートレックか、宇宙で探検したり戦闘したりするゲーム(全部英語)かである。むう。くやしいので、そこに絶対出てこないだろう単語をクイズにして、答えられない顔に「え、知らないの?」と言ってやる。心の狭い私は、人間としての末端にいるような気がしてならない。

  • 野菜と肉を焼き、ソースを作り、パンとお酒を合わせれば夕食になる。野菜と肉は特売のもの、ソースは基本的な調味料を混ぜたもの、パンはたくさん作って冷凍しておいたもの、ワインはミニボトル。このパターンのディナーは、私にとって手抜きバージョンだ。肉は2人分で300円なのに、ワインは500円なのに、なんだかそれなりに見える。

    手抜きは、なぜか罪悪感を伴う。夫に「手抜きでごめんよ」と謝った。彼は「いいや、ごちそうだ」と言った。私が「そうか、この人は値段とか労力で判断しないんだなあ」と思っていたら、彼は「紺ちゃんと食べるごはんはごちそう」と付け加えた。

    私が料理をしているあいだ、彼も手伝いつつ、テーブルにカトラリーを並べたり、グラスやお酒を出したりする。そのタイミングでひそかに、透明でやわらかい手織りのテーブルクロスをかけているんだと思う。そういえば、夕飯は何を作ってもおいしい。いっしょに食べるとおいしい。

  • OMG

    ずっと心のよりどころにしていた本がある。大学生のときに読んだ、英語学者の本。「高校を出てすぐ英文科に入ったところで、シェリーの詩がわかるわけがない。ぼくはわかったふりをせず、ほんとうにわかるまで英語力を磨いた」という主旨の本。ぞくぞくしなければ、わかったとは言えない、と強調する。

    TOEICは、言語学の教科書を1冊読み切るたびにぽんっと上がった。点数が上がっても、英語で書かれた文学を読み、心底おもしろいと思えたことはなかった。すらすら読みたい。細かなニュアンスを含めて理解し、感情を動かされたい。大学時代も、卒業してからも、この先生を目標のひとりにして勉強してきた。

    久しぶりに読んだら、印象が変わっていた。私の英語力が格段に伸びたことと、仕事で様々な人に会ったことが大きな理由だと思う。英語の話は今も響いたけれど、他はまったくだった。こんな物言いの先生だったっけ。あれ、ここは、ここも、ここも、全然響かない。インターネットで調べたら、お亡くなりになっていた。私が支持しない発言の記録がぽろぽろと出てきた。人は見せたい部分を選べるし、年を経て変わる。師を見つけるのは、見極めるのは難しいことだ。

    家庭教師の先生と英語でやりとりしていて、おおこれはまさにオーマイゴッド、という文脈があった。でもそう言わなかった。代わりに「ここでOMGという言葉をつかいたいのですが、なんの神も信じていないのでためらいます」という感じのことを言った。先生は「ただ自分を信じたらいいよ」と笑っていた。

  • 大学院に進学することにした。入学試験を受けると決めただけで受かってないし、受けるとしても今年度ではないし、入学もしていないのだけど、大きな決断なので書いておく。

    専攻はアメリカ文学の予定。学部時代は英米文学専攻で、イギリス文学、アメリカ文学、言語学を必修で学んだ。ゼミこそ言語学にしたけれど、文学も好きだった。その心残りがゆえに、卒業後も勉強は続けた。家庭教師の先生のおかげで、文学の英語も読めるようになった。

    学位を得てどうこうしたいとか、仕事に活かしたいとかはない。今の私は、とりあえずの肩書きはあるもののいろいろなことができ、いい意味で何者でもない。自分の中にグラデーションや移ろい、不明瞭さ、不安定さ、先の見えなさがありながらも、焦りや浮遊感なく立てている。純粋に学問を志すタイミングが来たと思った。いや、今までも志してきたんだけど、新しい場所にも行ってみたい気持ちが強くなった。

    最近は情報収集したり、参考書を買ったり、院試の勉強を始めたりしている。いくつか目標ができ、生活に張り合いがある。

    20代のころ、金銭面で院進を諦めたとき、あるいは仕事が忙しくて本が読めず、出張中のベトナムで泣いたとき、私はこんな未来の自分を想像していただろうか。底抜けに明るく楽観的なわけでもない、かといってただただ暗く厭世的でもない。いいぐあいのチューニング。試験に落ちたらまた受ければいいし、ゆっくり自分のペースで進めばいい。どこにいても、いくつになっても、私は結局同じものを愛しているんだから。

©2024 川瀬紺 / Kon Kawase